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【打率.325/129打点/48本塁打】顔面死球での大怪我から約7週間で復帰し、わずか"97試合の出場で本塁打王"を獲得した助っ人

  • 2024.4.14

【問題】1980年シーズンにこの成績を残した選手は誰?

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長距離バッターの多くが目標に掲げる本塁打王のタイトル。シーズンを通して安定して本塁打を打ち続けることが必要であり、不振でレギュラーを外れたり、故障で離脱したりすると、本塁打数を伸ばすのは難しくなります。

そんな本塁打王のタイトルを、わずか97試合の出場で獲得して見せた、伝説の外国人選手がいるのをご存知でしょうか?

というわけで今回は、97試合の出場で本塁打王を獲得した伝説のスラッガーをテーマに、クイズを出題。

イラストの成績がどの選手のものなのか、ぜひ考えてみてください!

ヒント…

・1976年に日本プロ球団入りしました。

・1977年シーズンに42本塁打をマーク。

・1980年シーズンに48本塁打を放ちました。

・愛称は「赤鬼」

正解は…

チャーリー・マニエル 選手でした!

こちらは、1980年シーズンの成績です。

MLBでプレーした後、1976年にヤクルトスワローズに入団。2年目の1977年シーズンにはいきなり42本塁打、97打点、打率.316を記録し、日本野球に見事順応。助っ人スラッガーとして輝かしい結果を残します。

3年目の1978年シーズンは、39本塁打に加えて103打点、そして打率.312をマーク。チームのリーグ優勝と日本一に大きく貢献します。1979年シーズンに近鉄バファローズに移籍すると、開幕から48試合時点で脅威の打率.378、24本塁打、60打点という文句なしの大活躍でファンを沸かせます。

1979年6月9日には、顔面死球を受けてしまい一度は戦線から約7週間離脱します。その後、当初の予定から大幅に早い戦線復帰を果たし、後半戦では47試合に出場し、打率.271、13本塁打、34打点と前半に比べてややペースダウンしたものの、シーズン通算ではわずか97試合の出場でありながら、37本塁打で本塁打王を獲得するという怪物っぷりを見せつけました。

また、この年は所属していたヤクルトスワローズは、開幕から129試合連続で得点を記録し、前年を含めると143試合連続得点という日本記録を打ち立てました。その後、1979年から1980年にかけて、所属する近鉄バファローズも驚異的な日本記録として215試合連続得点を達成しました。    

 走塁や守備はそれほど得意ではなかったことから、DHのあるパ・リーグの球団に移籍し、打撃に集中できたのは大きくプラスに働きました。1980年シーズンは48本塁打、129打点、打率.325を記録し、本塁打王と打点王の二冠に輝きます。

リラックスした構えから強振し、ボールをスタンドまで運ぶ並外れたパワーと、大ケガにも負けない不屈の精神でファンを魅了した、球史に残る伝説のスラッガーです。


※情報は3月22日時点のものです。

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