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【防御率.322/21本塁打/54打点】 大谷翔平も達成できていない1試合最多打点記録を記録した名投手

  • 2024.3.29

【問題】1953年シーズンにこの成績を残した選手は誰?

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TRILL作成

プロ野球草創期には太平洋戦争があり、応召によって現役生活を中断せざるを得なかった選手が数多くいます。

そんな中、選手という立場を飛び越え、戦前戦後の日本プロ野球の発展に貢献した投手がいました。1943年に応召し、ビルマへ出征。終戦後は捕虜として1年間を過ごし、その後見事に復活した伝説の投手です。

今回は、戦争による4年間の空白期間をものともせず、球史に残る成績を収めた大投手をテーマに、クイズを出題。

イラストの成績がどの投手のものなのか、ぜひ考えてみてください!

ヒント…

・1940年にプロ球団入りしました。

・1941年シーズンに12勝を挙げます。

・1947年シーズンに24勝をマーク。

・1948年シーズンには27勝を記録しました。

正解は…

川崎徳次 選手でした!

こちらは、1953年シーズンの成績です。

久留米市立久留米商業高等学校から、満州の撫順炭鉱に入社した後、1940年に南海に入団しました。1941年シーズンは12勝を挙げ、翌1942年にはシーズン途中に盲腸炎で途中から欠場するも15勝をマークします。

太平洋戦争の激化により、1942年に応召し、ビルマへ出征。終戦後は強制収容所で1年間を過ごします。1946年10月に復帰し、東京巨人軍に入団。1947年シーズンに24勝、防御率2.14の活躍を見せ、見事に復活します。なお、10完封はこの年の最多完封記録

1948年シーズンは27勝、防御率2.31、12完封をマーク。最多勝と最多完封のタイトルを手にします。1949年シーズンは19勝を挙げ、チームの戦後初優勝の原動力となりました。

1950年シーズンからは西鉄クリッパースでプレーし、移籍1年目は12勝を記録。1953年シーズンは24勝、防御率1.98の好成績を収め、最多勝と最優秀防御率に輝きます。1954年シーズンは10勝、1955年シーズンは17勝をマーク。9年連続11回目の2桁勝利を記録しました。

快速球とキレのあるシュート、ドロップを得意としたほか、シンカーやナックルも操りました。戦前戦後の日本プロ野球の発展に大きく貢献。

また、打撃力も一流だった川崎選手。現代のスーパースターである大谷翔平選手は、日本での1試合最多打点記録を更新し、メジャーリーグ移籍後もその記録を更新しています。しかし、投手としての1試合最多打点記録を持つのは、川崎選手です。彼は南海ホークスや読売ジャイアンツで活躍し、投手ながら1試合で9打点を記録しました。この記録は、まさに驚異的なもので、投手としての力量と打撃力を同時に示した伝説のピッチャーです。


※情報は3月19日時点のものです。

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