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【驚異の打率.377】「弾丸ライナー」の語源となり、プロ野球史上初の2000安打達成した神様

  • 2024.3.31
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【問題】1951年シーズンにこの成績を残した選手は誰?

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「弾丸ライナー」でスタンドイン。プロ野球では度々取り扱われる言葉です。実はこれ、ライナー性の打球が多かった一人の選手の鋭い当たりを称したものなんです。

速く低い打球を飛ばすことが多い選手をラインドライブヒッターと呼ぶことがありますが、そんなラインドライブヒッターの草分けとなった選手です。

今回は、「弾丸ライナー」という言葉を生み出した名バッターをテーマに、クイズを出題。

イラストの成績がどの選手のものなのか、ぜひ考えてみてください!

ヒント…

・1938年にプロ野球球団入りしました。

・1939年シーズンと1941年シーズンに首位打者を獲得。

・赤いバットで人気を博しました。

・愛称は「打撃の神様」

正解は…

川上哲治 選手でした!

こちらは、1941年シーズンの成績です。

熊本県立工業学校に入学し、甲子園に春1回、夏2回の計3回出場。1934年と1937年の夏に右翼手として準優勝しました。卒業後、投手として1938年に読売ジャイアンツに入団。当時は投手として登録されていましたが、秋シーズンを前に一塁手に転向。1939年シーズンは、投げて6勝、打っては打率.338、75打点で首位打者と打点王に輝き、チームも優勝しました。

1940年、今では考えられられないわずか9本塁打で本塁打王に輝き、通算成績は39試合で11勝9敗、防御率2.61となりました。1941年には打率.310、57打点で2度目の2冠王を獲得し、連覇を果たした巨人でMVPにも選出されました。戦前だけで6度の優勝に貢献し、戦後は一塁手として活躍するという離れ業を成し遂げています。

1942年シーズン限りで応召し、戦後は1946年シーズン途中に復帰し、「赤バット」で人気を集めました。1949年シーズンは、当時の日本記録となる129打点の活躍。1951年には自身のキャリアハイ記録となる打率.377という驚異的な数字をマークしました。また、日本プロ野球史上初の、2000安打達成者でもあります。

主なタイトルは、MVP3回、首位打者5回、本塁打王2回、打点王3回。通算成績は、1979試合、2351安打、181本塁打、1319打点、220盗塁、打率.313。7000打数以上での通算打率.313は、張本勲選手に次ぐ、歴代2位の記録です。

類まれな打撃技術で、「打撃の神様」と称されました。打撃練習をしていた際に、「ボールが止まって見えた」天才エピソードも有名。ライナー性の打球を飛ばすことが多く、「弾丸ライナー」という言葉も川上選手の鋭い打球から言葉が生まれ、背番号16は巨人の永久欠番となった球史に残るレジェンドです。


※情報は3月28日時点のものです。

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