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【防御率2.21/22勝/221奪三振】「左のエース」という言葉の発祥となった、巨人の伝説のサウスポー

  • 2024.3.13
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【問題】1969年シーズンにこの成績を残した選手は誰?

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右打者の外に逃げるシュートや、外に逃げながら落ちていくスクリューボールは、左投手にとって大きな武器。一般に、右打者は右投手よりも左投手のほうが打ちやすいとされますが、カーブやスライダーとは逆方向に曲がるシュートやスクリューボールを攻略するのは簡単ではありません。

1960年代の投手は直球とカーブが主流でしたが、シュートやスクリューボールを用いて右打者を打ち取った、今の左投手の原型を作った投手がいます。

今回は、シュートやスクリューボールを武器に、左投手の原型を作った投手をテーマにクイズを出題。

イラストの成績がどの投手のものなのか、ぜひ考えてみてください!

ヒント…

・1965年にプロ球団入りしました。

・2年目にスクリューボールを習得。

・1969年に22勝を挙げます。

・チームの9連覇に貢献しました。

正解は…

高橋一三選手でした!

こちらは、1969年シーズンの成績です。

広島県立北川工業高等学校から、1965年に読売ジャイアンツに入団しました。2年目にスクリューボールを習得し、6勝をマーク。1968年シーズンは7勝を挙げます。

1969年シーズンは22勝5敗、防御率2.21という圧巻の成績を収め、最多勝、最高勝率、ベストナイン、沢村賞のタイトルを手にします。1970年シーズンは12勝、1971年シーズンは14勝、1972年シーズンは12勝と、安定して2桁勝利をマークし続け、読売ジャイアンツの連覇街道の原動力となりました。

1973年シーズンは23勝13敗、防御率2.21、238奪三振の活躍。最多奪三振、ベストナイン、沢村賞を獲得し、チームのV9の立役者の一人となります。1975年シーズンオフに張本勲選手との大型トレードで日本ハムファイターズに移籍しました。

腕だけでなく、顔も上に向けてから投げ下ろす豪快な投球フォームが特徴で、快速球とシュート、スクリューボール、カーブを操り、読売ジャイアンツの栄光のV9時代にエースとして活躍しました。

V9中には、堀内恒夫選手と共にエース各として活躍し、右投げの堀内選手に対して、左投げであった高橋選手は「左のエース」と呼ばれました。今では当たり前のように使われる「左のエース」は高橋選手の呼び名が発祥でした。

また、投球後に帽子を飛ばすほど全体をしならせて剛球を投げ込む漫画の世界のようなパフォーマンスが特徴で、あまりの激しさに投球した瞬間から帽子が脱げ、跳ね上がるようなピッチングはファンを魅了しました。これは、かつてミスタープロ野球こと長嶋茂雄選手が空振りをした際にヘルメットを豪快に振り飛ばしていたことを彷彿とさせるイベントの一つでした。

通算成績は、167勝132敗12セーブ、防御率3.18、1997奪三振。主なタイトルは、最多勝1回、最多奪三振1回、最高勝率1回、ベストナイン2回、沢村賞2回。2000奪三振まであと3つで引退するという狙っても出せない成績を残した名投手です。


※情報は3月8日時点のものです。

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