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【防御率1.70/35勝/310奪三振】4年間で「209試合先発、130先発」を果たし、登板数の多さから流行語が生まれた大投手

  • 2024.3.9

【問題】1961年シーズンにこの成績を残した選手はだれ?

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高校野球、大学野球、社会人野球、独立リーグなど、さまざまなフェーズに分けられる日本の野球界。その頂点にあるのがプロ野球であり、学生野球や社会人野球でどれほど活躍した選手でも、1年目から好成績を収めるのは容易ではありません。

そんな中、社会人野球からプロ野球入りを果たし、1年目から35勝を挙げた伝説のピッチャーがいたことをご存知でしょうか?

今回は、1年目から35勝を挙げたレジェンドをテーマに、クイズを出題。

イラストの成績がどの選手のものなのか、ぜひ考えてみてください!

ヒント…

・1961年にプロ球団入りしました。

・1年目から35勝をマーク、2年目も30勝を挙げます。

・選手独自の流行語も生まれるほどの人気ぶりでした。

・投手としての実働5年で210試合に登板、82勝60敗という成績を残しました。

正解は…

権藤博選手でした!

こちらは、1961年シーズンの成績です。

佐賀県立鳥栖高等学校から社会人野球チームのブリヂストンタイヤを経て、1961年に中日ドラゴンズに入団しました。1年目から35勝、防御率1.70という驚異的な成績を残し、最多勝、最優秀防御率、新人王、沢村賞、ベストナインのタイトルを獲得。投手タイトルを欲しいままにしました。また、投球回429.1という、2リーグ制以降の歴代最高記録を打ち立てました。同シーズンでは、年俸が推定120万円から5倍の推定600万円に上がり、球団の大黒柱となりました。

2年目の1962年シーズンも30勝を挙げ、2年連続30勝以上で最多勝投手に。1968年シーズンに現役を引退したものの、投手としての実働5年で82勝60敗、防御率2.69という、素晴らしい成績を残しました。入団初年の1961年〜1964年の4年間で、201試合に登板し、そのうち130試合が先発登板と、今では考えられない登板数を投げ、現役引退後は、コーチや監督を歴任。2019年に野球殿堂入りしました。

「権藤、権藤、雨、権藤」という流行語が生まれるほど、連投を重ね、勝ち星を積み重ねていった権藤博投手。現役生活は短いものとなりましたが、その活躍は今なお伝説として語り継がれています。


※情報は3月4日時点のものです。

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