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「歴代最強だと思う昭和の先発右腕」ランキング!3位「山田久志」、2位「沢村栄治」を抑えた1位は?【野球ファン120人に聞いた】

  • 2024.2.22
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写真:PIXTA

プロ野球が誕生したのは1934年。昭和9年に当たる年です。そこから50年間以上も昭和時代のプロ野球が続いたのですが……その間には数多くの右投げ先発投手が誕生してきました。ストレートを主体とした本格的な投球で押してくる王道のエース投手から、変化球で打者を翻弄する技巧派タイプの投手まで数多くの錚々たる名投手が生まれました。

そんな歴代のレジェンド選手たちが多数ランクインした昭和に活躍した右投げ先発投手の中で、ファンが歴代最強だと思う投手はいったい誰なのか? 全国のプロ野球ファン120人にアンケートを実施し「歴代最強だと思う昭和の先発右腕」を作成。その結果をご紹介します!

なお、「最強」の定義は記録や勝利数などの数字だけでなく、投票者に委ねていますので、投票理由も多岐にわたります。また、抑えへの転向など、一時期先発を務めていた投手も対象です。また、平成など時代をまたいで活躍した投手も昭和時代に出場・活躍をしていれば対象としました。

早速投票結果を見ていきましょう。

【第3位】山田久志(14票)

アンダースローの大投手、山田久志投手が第3位に。

阪急ブレーブスの黄金期を支えた不動のエースとして通算284勝、リーグMVPを3度受賞するなど、文字通りの最強右腕と言っても過言ではない成績を残しています。

社会人野球の富士製鐵釜石時代にサイドスローからアンダースローに替えたという山田投手は、このころからめきめきと頭角を現していき、1968年のドラフト会議で阪急に1位指名を受けて入団しました。

ルーキーイヤーの1969年、山田投手はリリーフ投手としての起用であまり目立った活躍は残せませんでしたが、プロ入り2年目の1970年に10勝をマーク。しかし、同時に17敗を記録するなどこの頃はまだ最強の右の先発投手とは呼べない成績に終わっています。

爆発的な成績を残したのがプロ入り3年目の1971年。背番号を「17番」に替えたことで自信が付いたのか、この年は22勝を挙げただけでなく、防御率でも2.37でパ・リーグトップでタイトル獲得。さらにベストナインにも初めて選出されました。ストレートでグイグイと押す投球でリーグ屈指の強打者を抑えた山田投手は、阪急のリーグ優勝に大きく貢献しました。

ところがこの年の日本シリーズ、巨人と対戦した山田投手は第3戦で王貞治選手に自慢のストレートを叩かれて、サヨナラ本塁打を献上。手痛い敗戦を喫した阪急はこの年の日本一を逃しましたが、この敗戦をバネに山田投手は奮起。後の代名詞となるシンカーを覚えると、1988年の引退までに最多勝を3度、最高勝率を4度獲得。開幕投手を12年連続で行うなど、黄金期を迎えた阪急の最強エースとして君臨しました。

アンダーハンドながらも剛速球というイメージで通算勝利数が歴代7位とアンダースローの投手のみならず投手全体の中でもかなりの好成績を収めている点です。晩年に目の前で投球練習をしているのを実際に見たことがあるのですがキャッチャーミットに収まる時の音の迫力に衝撃を受けたのでもしも最盛期に見ていたらどれほどだったのだろうかと想像するだけで鳥肌が立ちます。(56歳・男性)
美しいアンダースローから力のある球を投げる姿は印象が強く、阪急ブレーブスの全盛期をエースとして支えた選手であるため。(63歳・男性)
強靭な肉体と精神力の持ち主。アンダーで280勝以上は素晴らしい。史上最高のサブマリーンです。(51歳・男性)
日本シリーズでの長嶋茂雄、王貞治との対決が強烈に印象に残っているから。(61歳・男性)

【第2位】沢村栄治(15票)

第2位となったのは、ピッチャーとして最大の名誉と言っても過言ではない「沢村賞」に名を残す沢村栄治投手です。

回答者のコメントでは「史上最多のノーヒットノーラン達成者」「沢村賞というタイトルに名を残す」点などが高く評価されていました。

そもそも沢村投手が活躍していた頃、日本にはまだプロ野球チームが存在していませんでした。京都商業学校(現:京都先端科学大学付属高校)に在籍した沢村選手は当時設立されたばかりの野球部に所属すると、高校2年生時の1933年にいきなり甲子園へチームを導くと、エース投手としてベスト8進出に大きく貢献。3年生になった1934年にも春夏連続で甲子園大会へ進み、当時の野球界の花形である六大学野球へ進むと目されていました。

沢村投手の運命が大きく変わったのは、この年の秋に行われたメジャーリーグ選抜チームとの日米野球。ベーブ・ルース選手、ルー・ゲーリッグ選手らメジャーリーガーのスター選手たちが一堂に会したこの大会で日本代表チームに選ばれた沢村投手は、第9戦目に先発すると、メジャーリーガーたちを相手に6回まで投げて2安打7奪三振、無失点という快投を披露。最終的にゲーリック選手に本塁打を打たれて負け投手となりましたが、毎試合コテンパンにされていた日本代表チームが唯一善戦(0-1)したということで、沢村投手の名が知れ渡りました。

その年の12月、この時の日本代表チームを元にした大日本東京野球倶楽部(後の読売ジャイアンツ)が誕生。沢村投手も初代メンバーとしてチームに入り、エース投手として活躍。1936年の秋シーズンには15試合に登板して13勝を挙げて最多勝に輝くと、翌1937年の春シーズンでも24先発で24勝を挙げて2シーズン連続で最多勝投手となり、リーグMVPに輝きました。

しかし、1939年に太平洋戦争が勃発すると沢村投手は2度も応召されてしまい、チームから離脱。ボールよりも重い手榴弾を何度も投げさせられたことで肩を壊したため、1940年に復帰した際はかつての豪速球は鳴りを潜め、変化球を主体にした技巧派にシフト。それでもノーヒットノーランを達成するなど意地を見せましたが、戦争に従事して肩を壊したことが原因となり、1943年を最後に巨人を退団。そして2度目の応召があった翌1944年に戦死するという非業の死を遂げました。

通算63勝に留まりましたが、その実力は球界屈指。1947年には背番号「14」は巨人の永久欠番に指定されました。また、沢村投手の功績をたたえる賞として「沢村賞」が創設され、今なお球史に名を残しています。

プロ野球で投手に送られる最高タイトルの名前の由来になるほど活躍した昭和を代表する投手です。日米野球で伝説とされるベーブルースらを相手に翻弄したところが素晴らしいです。(32歳・男性)
史上最多のノーヒットノーランに、数々の賞を受賞している、正に最強に相応しい昭和の最強選手です。(37歳・男性)
「戦争が無ければ…」という条件はつきますが、プロ野球黎明期を代表する右腕です。先発完投型の投手に贈られるタイトルの沢村賞(読売新聞社は沢村賞、NPBは沢村栄治賞と表記)は沢村栄治さんの功績を称えて、創設された賞です。読売巨人軍で沢村栄治さんが着けていた背番号「14」は沢村栄治さんの功績を称えて、永久欠番になっています。(42歳・男性)
独特の投球フォームからホップするような速球と大きく縦に割れるカーブが最強。(39歳・男性)

【第1位】江川卓(43票)

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写真:三井公一/アフロ(2009年当時)

「昭和の怪物」という異名を取った江川卓投手取が第1位となりました。

投票数の半数以上を占める40代~50代のファンの根強い支持を得たことが、今回のランキングにつながったと言えるかもしれません。

1979年の6月から一軍に昇格した江川投手はデビュー戦こそ負け投手となりましたが、その後は先発ローテーションに定着して9勝。翌1980年は16勝、219奪三振で最多勝と最多奪三振のタイトルを獲得してベストナインにも選ばれるなど、プロ野球界でも活躍を収めました。

江川投手のキャリアハイのシーズンとなったのが1981年。この年は20勝6敗、そして防御率2.29、221奪三振に勝率は脅威の.769という素晴らしい成績を残して投手のタイトルを総なめ。投手5冠王に輝いてチームを日本一へと導きました。

その後も江川投手は巨人のエースとして君臨するも、肩の痛みに悩まされたことでプロ入り9年目の1987年に突如として現役を引退。球種はスピード球威ともに抜群のストレートとカーブという2球種ながらも巧みに使い分け通算135勝でそのキャリアを終えました。

プロでの活躍期間はやや短めでしたが、高校時代からの圧倒的な投球に加え、大学時代の活躍、そしてプロ入り前の事件やプロ入り後の活躍などあらゆるシーンで注目を集めたことがオールドファンの記憶には鮮烈に残っているようです。

昭和の怪物。伸びのあるストレートと落差のあるカーブで1981年には投手5冠に輝く。(49歳・男性)
投球フォームがオーソドックスてタイミングが取りやすいにも関わらず、スピードとキレでバッタバッタと三振を取っていくのは圧巻でした。(42歳・女性)
150キロを超え、打者の手元で浮き上がるストレートがとても印象的です。今でも歴代最高のストレートだと思います。(53歳・男性)
投手5冠を達成(最多勝・最高勝率・最優秀防御率・最多奪三振・最多完封)ストレートが圧倒していました。(53歳・男性)
豪速球のストレートとカーブだけを使い分けてそのどちらも全く同じシンプルなフォームから繰り出される。まさに理想形の投手。(49歳・男性)

4位以下の選手とコメント

稲尾和久(13票)

シーズン42勝の日本記録保持者で、日本シリーズで4連投4連勝するなど大事な試合で実力を発揮できた先発投手です。鉄腕と呼ばれるくらい連投も苦にせずに、最も昭和に活躍した先発右腕だと思います。(39歳・男性)

北別府学(6票)

『精密機械』と呼ばれた抜群のコントロールで四球を与えずに打ち取ってアウトを取るタイプの投手でカープ黄金時代に沢村賞を2度受賞した200勝投手だからです。(38歳・男性)

村田兆治(5票)

ベストナイン授賞に加えて、最多勝利・最優秀防御率のタイトルを獲得するなど、決め球フォークボールを武器に非常に優れた活躍を見せたためです。(39歳・男性)

桑田真澄(4票)

体格に恵まれなくても、豪速球が投げられなくても、抜群のコントロールと野球センスで勝負できると証明した選手だと思います。投球はもちろん、守備も打撃も走塁にも全力で取り組む姿勢を尊敬していました。そして全てが一流だったことが素晴らしいです。(50歳・女性)

斎藤雅樹(4票)

「平成の大エース」、「球界のエース」、「ミスター完投」など様々な異名を持っており、数々のタイトルを獲得しているから。(31歳・男性)

結果はこちら

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数多くの名前が挙がった今回のランキング。4位以下にも忘れられない大投手の名前がありましたが、その中でも惜しかったのが13票を獲得した稲尾和久投手。3位の山田投手とはわずか1票差でした。

西鉄ライオンズの黄金期を支えた稲尾投手と言えば、スライダーとシュートを正確なコントロールで使い分けて抑え込む投球術で知られていますが、何といっても忘れられないのが1958年の日本シリーズ。3連敗したチームを救うべくその後の4戦すべてに登板して勝ち投手となったことで逆転の日本一に貢献し、「神様、仏様、稲尾様」という名フレーズが生まれました。

その他にも北別府学投手、村田兆治投手が6票、現在巨人で二軍監督を務める桑田真澄投手が4票で7位タイに入りました。


調査方法:インターネットサービスによる任意回答(記述式)
調査実施日:2024年2月7~9日
調査対象:全国の10代~70代
有効回答数:120

※記載している回答は原文ママ

※2024年2月15日時点での情報です。記事内の画像はイメージです。

※現役・引退をした選手に関わらず敬称は「投手」で統一しています。

文:福嶌弘
1986年横浜生まれ。フリーライター。幼少期より競馬・野球に興味を持ち、ヤンキー向けバイク雑誌、中古車雑誌などを経て2005年からフリーライターとして独立。以降は野球、競馬のスポーツを中心に街、クルマ、グルメ、アウトローetc…とジャンルを問わずに各媒体で執筆。生来の巨人ファンのため、主な出没場所は東京ドーム、横浜スタジアムそして後楽園、関内の居酒屋など

アンケート集計:TRILLスポーツ

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