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【防御率2.43/18勝4敗/123奪三振】高卒3年目から11年連続で2桁勝利を上げた、20世紀最後の200勝投手

  • 2024.2.28

【問題】1986年シーズンにこの成績を残した選手はだれ?

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ややもすると、豪速球投手の矢のようなストレートにばかり耳目が集まりがちですが、プロ野球の魅力はそれだけにあらず。すぐれた制球力でバッターを打ち取る技巧派投手の巧みな投球術もまた、観ていてワクワクするものです。

その制球力を武器に、球史に残る活躍を見せ、「精密機械」の異名を取った投手がいたことをご存知でしょうか?所属チームの黄金時代を牽引した、20世紀最後の200勝投手です。

今回は、「精密機械」の異名を取った技巧派投手をテーマに、クイズを出題。

イラストの成績がどの選手のものなのか、ぜひ考えてみてください!

ヒント…

・1976年にプロ球団入りしました。

・2年目から先発に定着。

・1982年シーズンに20勝を挙げました。

・その卓越した制球力から「精密機械」の異名が付けられました。

正解は…

北別府学選手でした!

こちらは、1986年シーズンの成績です。

宮崎県立都城農業高等学校から、1976年にドラフト1位で指名され、広島東洋カープに入団しました。2年目の1977年シーズンから先発に定着し、1978年シーズンに初の2桁勝利をマーク。そこからエース街道を走り始めます。

1979年シーズンは17勝、1982年シーズンは20勝を記録し、最多勝と沢村賞を手中に収めます。1986年シーズンは18勝を挙げ、最多勝、最優秀防御率、最高勝率、MVP、沢村賞、ゴールデングラブ賞など、多くのタイトルを獲得。チームのリーグ優勝に大きく貢献しました。

1980年代の広島東洋カープは投手王国と呼ばれ、北別府学選手はその中心選手として活躍。最高球速は140キロ台中盤と、プロ野球界ではそこまでスピードがありませんでしたが、持ち前の制球力を活かして勝ち星を重ねました。

高卒3年目の1978年から、1988年まで11年連続で2桁勝利を上げ、"投手王国広島"のエースとして君臨し続けました。

精密機械と呼ばれた制球力を磨くきっかけとなったのは、並み居る先輩投手の圧倒的な球速だったそう。球速では敵わない、ならば、制球力で勝負しよう。強い意志で努力を重ねた結果、20世紀最後の200勝投手となったのです。


※情報は2月26日時点のものです。

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