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【打率.383/26本塁打/63打点】日本プロ野球の"ホームランの概念を変えた"天才打者…戦後初のサク越え本塁打も記録

  • 2024.2.27

【問題】1951年シーズンにこの成績を残した選手は誰?

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今も昔も、プロ野球選手に憧れる少年たちは日々練習に励んでいます。そんな子どもたちから「あんな選手になりたい!」と憧れられるのはスター選手の証であり、その時代の“顔”と言っても過言ではありません。

たとえば、終戦後、類稀なる打撃力で歴代屈指の打撃人となったこの選手。少年たちから絶大な人気を誇り、歌手の美空ひばりと並ぶ、まさに国民的スターでした。

今回は、国民的スターとして活躍した名スラッガーをテーマに、クイズを出題。

イラストの成績がどの選手のものなのか、ぜひ考えてみてください!

ヒント…

・1945年にプロ野球球団入りしました。

・1年目から20本塁打の活躍を見せます。(当時の年間最多本塁打記録は10本)

・本塁打ブームを巻き起こしました。

・青色のバットを使用していました。

正解は…

大下弘選手でした!

こちらは、1951年シーズンの成績です。

高雄商業学校から明治大学を経て、1945年にセネタースに入団しました。ルーキーイヤーから20本塁打を放ち、早くもリーグを代表する打者に。1947年シーズンから青色のバットを使用するようになり、「青バットの大下」として人気を博しました。

年間ホームランの最多記録は10本と少ない時代に、大下選手は年間20本と大幅に記録更新をしました。
当時の野球では、ライナー性の打がギリギリに入るか、ランニングホームランが一般的でした。しかし、高い弾道でアーチを描く大下選手の打撃スタイルは、日本プロ野球のホームランの概念も変えたほどでした。

強いゴロを打つ打撃が理想とされていた時代だったため、本塁打を瞬く間に量産する大下選手の活躍はまさにセンセーショナルでした。敗戦で暗く沈んだ国民を狂喜させ、本塁打ブームを巻き起こします。1947年シーズンは、打率.315、17本塁打で首位打者と本塁打王の2冠を獲得。ベストナインにも選出されました。

1952年に西鉄ライオンズに移籍すると、中心打者として活躍し、西鉄ライオンズの黄金時代を築きました。1959年に現役を引退。

整ったルックスで女性ファンも多く、しなやかなフォームから大きな放物線を描く本塁打を量産した、日本国民を魅了したスター選手でした。


※情報は2月18日時点のものです。

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