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【防御率1.75/21勝10敗/183奪三振】6年連続最下位の球団を日本一に導いた、元祖「カミソリシュート」の使い手

  • 2024.2.14

【問題】1960年シーズンにこの成績を残した選手は誰?

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ピッチャーの投球フォームとして一般的なのはオーバースローやスリークォータースローですが、なかには、サイドスローやアンダースローで類まれな成績を残す投手もいます。

体の下、地面すれすれから腕を出して投げるアンダースローの選手は特に珍しく、オーバースローとはまったく異なる、浮き上がってくる球筋で打者を翻弄することも。

そこで今回は、アンダースローで球史に残る活躍を見せた名投手をテーマに、クイズを出題。

イラストの成績がどの投手のものなのか、ぜひ考えてみてください!

ヒント…

・岡山県立岡山東商業高等学校から明治大学を経て、1956年にプロ球団入りしました。

・1年目から先発として起用され、25勝、防御率.239をマークし、新人王を獲得。

・1957年には24勝を挙げ、リーグ最多の312奪三振を達成しました。

・速球と「カミソリ」と言われたシュートを武器に活躍しました。

正解は…

秋山登選手でした!

こちらは、1960年シーズンの成績です。

岡山県立岡山東商業高等学校から明治大学を経て、1956年に大洋ホエールズに入団しました。この年の入団選手は秋山選手以外にも大洋の黄金時代と言われ、高校時代からの名コンビである土井淳選手をはじめとした5人の明治大学出身選手を獲得しました。

1年目から先発として起用され、25勝、防御率.239をマークし、新人王を獲得。リーグ最多投球回も記録します。

1957年シーズンには24勝を挙げ、リーグ最多の312奪三振を達成。以降もエースとして活躍し、1年目から9年連続で2桁勝利を記録します。

1954年〜1959年にかけて、チームは6年連続で最下位でしたが、1960年には球団初の日本一を果たしました。最高勝率、最優秀防御率を獲得するなど、秋山選手はチームの大黒柱として、大きく貢献。シーズンMVPにも輝きました。

1967年に現役引退。引退後は太陽ホエールズでコーチや監督を務め、退団後は野球解説者に。現役時代からコーチ・監督時代まで、太陽ホエールズ一筋を貫きました。

手首を寝かせた完全なアンダースローで、速球と、鋭く変化するシュートを武器に活躍。「カミソリシュート」の異名を持ち、秋山選手が引退した1967年の翌年に、入れ替わるように入団したのが、同じ高校出身である平松政次選手であり、その後、平松選手も「カミソリシュート」の異名で活躍をしました。


※情報は2月9日時点のものです。

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