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【打率.313/32本塁打/103打点】軟式出身の無名選手から、"昭和生まれ初"の2000本安打を達成した打撃職人

  • 2024.3.4

【問題】1960年にこの成績を残した選手は誰?

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NPBでは、軟式出身の無名選手から現代までの大記録に勝るとも劣らない名選手が存在しています。スカウトが見向きもしない中、熱心で地道な努力により打撃タイトルを瞬く間に勝ち取った選手は今後も多くは現れないでしょう。

そんな厳しい環境下で順調に結果を残し、大打者の記録と並ぶ偉業を達成した人物が球界には存在しています。

では、無名でありながら球団を牽引するほどのスラッガーとなった人物とは一体誰なのでしょうか?

ヒント

・1951年にテスト生として毎日オリオンズに入団。

・3年目にはチームの主力として活躍。

・「ミサイル打線」の主軸として活躍。

・現役時代は、「打撃職人」や「オールスター男」の愛称で親しまれました。

正解は...

山内一弘選手でした!

1952年、パ・リーグの毎日オリオンズにテスト生として入団。当時は軟式出身の無名でしたが、プロ1年目に、球団の先輩でもあった別当薫選手のバッテイングを研究し、直向きに打撃練習に取り組む姿勢が評価され、同年6月には一軍戦で初出場を果たしました。

3年目の1954年には、チームのクリーンナップとして定着し、不動のレギュラーとして公式戦にフル出場。97打点を挙げ、早くも打点王のタイトルを獲得。翌年には、打率.325、26本塁打、99打点で2年連続の打点王という快挙を成し遂げました。この打点王獲得は、98打点で当時2位の名スラッガー、中西太選手の三冠王をわずか1打点差で阻止している大記録です。

1960年、山内選手は「大毎ミサイル打線」の中心人物としてチームを牽引。同年は、2年連続で2回目の本塁打王と打点王を獲得し、打撃二冠とMVPを受賞に輝き、1963年オフに小山正明選手との「世紀のトレード」で阪神タイガースに移籍し、1965年7月4日には当時のNPB史上初である300本塁打を達成しました。

後にセ・リーグの阪神タイガースと広島東洋カープでも活躍し、19年間のプレー期間で打点王を計4回、首位打者1回、本塁打王2回を獲得。通算成績は2271安打、396本塁打、1286打点の輝かしい記録を達成。

引退後はロッテオリオンズと中日ドラゴンズの2球団で監督を務め、2002年に野球殿堂入り。日本プロ野球 (NPB) 史上初の通算300本塁打達成に加え、名スラッガー川上哲治選手に次ぐ、2人目の通算2000安打の達成者であり、昭和生まれでは初記録となる快挙を樹立した打撃職人です。


※情報は3月4日時点のものです。

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