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【4→3→4】巨人に在籍していた選手でこの歴代背番号はだれ?NPB初の"永久欠番"になった選手

  • 2024.2.29
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【問題】巨人に在籍していた選手でこの歴代背番号はだれ?

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TRILL作成

背番号は選手の顔とも言われ、各世代の名選手から長きにわたって受け継がれてきたNPBにおける伝統の一つです。ファンの中には、特定の番号を見るだけでどの選手かわかる人もいるほど、背番号には象徴的な選手との密接な関係があります。

中でも、最も価値があるとされる「永久欠番」は日本球界の一部の選手のみがその功績を讃えられ、指定される球団のシンボルのような存在で、未来永劫その番号は使用されることはありません。

では、そんな偉大な背番号を持つ人物は一体誰なのでしょうか?

ヒント

・左投左打の外野手で、走力も兼ね備えた選手です。

・NPB在籍中、他球団を転々とし、最終的に巨人に定着しました。

・出題した背番号「4」は当時不吉な数字とも言われていました。

・正解の選手が日本球界における永久欠番の始まりとも言われています。

正解は...

黒澤俊夫選手でした!

1914年、大正時代に生まれ、22歳の若さで名古屋金鯱軍に入団した黒沢俊夫選手。その後、大洋軍や西鉄軍を経て、1944年に巨人に移籍しました。彼が永久欠番となった背番号「4」を背負ったのは、1936年から1937年、そして1946年から1947年までの4年間でした。また、別の背番号「3」は1941年から1943年までの3年間にわたって背負いました。

当時、選手として連盟表彰は受けなかったものの、現役時代のシーズン成績は見逃せない記録でした。1944年に全試合に出場し、打率.348、17打点、14盗塁で最高出塁率を達成。

1945年には、第二次世界大戦の影響で公式戦が休止となります。翌1946年に再開した際には、巨人のクリーンアップを務め、戦後の野球界の復興に大きく貢献しました。
自身も、川上哲治選手に次ぐ、チーム2位の打点を記録するなど活躍し、翌年の活躍も期待されていました。
しかし、1947年のシーズン中に病に冒され、33歳という若さで急死してしまいました。

巨人の在籍は3年、出場試合数は166試合と僅かながら、戦後間もなく選手不足であった巨人を主力として牽引し、巨人軍、野球界の再建に大きく貢献したとし、千葉茂選手を中心とした選手有志が声を上げ、1947年7月に、沢村栄治の14番と共に、黒澤選手の4番が、日本初の永久欠番に指定されました。

ホームスチール通算10回の成功という記録は歴代2位の大記録であり、与那嶺要選手の11回に次ぐものでした。黒沢俊夫選手は戦中戦後の厳しい時期においても偉大な野球選手として称えられ、球界の歴史に刻まれました。


※情報は2月22日時点のものです。

※背番号歴は選手の現役時代のみを記載しています。

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