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【打率.283/49本塁打/121打点】入団からたった2ヶ月でトレードされるも、初年度から34本塁打放った助っ人

  • 2024.3.6

【問題】1989年にこの成績を残した選手はだれ?

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TRILL作成

潜在的なパワーを秘めている大物バッターでも、世界最高峰のMLBですぐに活躍できる選手はごく稀です。たとえ名門球団からドラフト1位で指名されたとしても、一筋縄で攻略できるものではありません。

かつて、MLBにフィットしなかった選手が日本で無類の活躍をしたことがあります。その選手は球団の助っ人として圧倒的な打撃力を持ち、やがてチームの主砲にまで上り詰めた伝説のスラッガー。どんな選手か気になりますよね。

そこで今回は、逆境から這い上がり、1990年代のホームランアーチストの1人として大活躍した名助っ人選手を出題。

ヒント...

・MLBを経て1988年に来日。

・NPBでは二軍からスタートしましたが、急遽トレードが行われ他球団に移籍。

・1年目から34本塁打を放ち、球団の主砲として活躍。

・1989年には自己最高の49本塁打で本塁打王を獲得し、シーズンMVPを受賞しました。

正解は...

ラルフ・ブライアント選手でした!

1961年にアメリカ・ジョージア州で生まれ、1981年にロサンゼルス・ドジャースからドラフト1位指名を受けて入団しました。しかし、当初はなかなか実力を発揮できず、1985年に初めてMLBに昇格。その後もなかなかレギュラーの座を掴むことができず、1988年に来日しました。

1988年4月、中日ドラゴンズに入団し、背番号49をつけました。当時、既に2人の外国人選手が在籍していたため、最初は二軍でプレーしていましたが、同年6月に、近鉄バファローズが金銭トレードでブライアント選手を獲得。入団1年目から74試合の出場で34本塁打という驚異的な数字を残し、近鉄の主砲として頭角を現しました。

1989年には49本塁打を放ち、本塁打王に輝くとともに、近鉄のリーグ優勝に大きく貢献し、シーズンMVPにも輝きました。特にこの年のダブルヘッダー4連発は、今なお話題にされています。また、同年には1試合3本塁打4回を記録し、王貞治選手が22年かけて記録していた通算5回をたった2年で上回る通算6回の世界記録を樹立。

1993年には42本塁打、107打点で2冠王に輝きましたが、シーズン204三振という今も歴代最多となっている、三振数を記録しました。翌1994年にも本塁打王に輝きましたが、1995年には打率が1割台に低迷し、シーズン途中で退団しました。

日本史上初めてドームの天井に当てた認定本塁打などを通じて、力強く高々と上がる本塁打を打つ典型的なホームランアーチストとしても親しまれた怪物スラッガーです。


情報は3月4日時点のものです。

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