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#59 王貞治(巨人) 完封目前の山田久志(阪急)から逆転サヨナラ3ラン

  • 2026.10.15

◎1971年10月15日 後楽園球場

阪急 0 1 0 0 0 0 0 0 0 =0

巨人 0 0 0 0 0 0 0 0 3X =3

HR(巨人)王2号

1965年から1973年まで続いた巨人の9年連続日本一=V9。リーグ優勝を9年続けるだけでも相当なことだが、手強いパ・リーグの優勝チームを9年連続で破ったことも、これまたとんでもなく凄いことである。

ではこの9年間、日本シリーズで最も多く巨人と対戦したパの優勝チームはどこか? 1967年・68年・69年・71年・72年と5回も出場した阪急ブレーブス(オリックスバファローズの前身)である。指揮をとったのはすべて西本幸雄(ゆきお)監督だ。西本監督は大毎オリオンズ(千葉ロッテマリーンズの前身)を1回、阪急を5回、近鉄バファローズ(オリックスとの合併で消滅)を2回リーグ優勝に導いた名将である。

阪急・近鉄は西本の就任時、いずれもリーグ優勝は未経験だった。弱小と呼ばれたチームを、優勝を争う強豪チームに変貌させた手腕は高く評価されている。ところが日本シリーズは通算8回も出場しながら、すべて敗退。なぜか日本一には縁がないままで終わった。西本が「悲運の名将」と呼ばれるゆえんだ。

西本監督にとって大きな壁となった川上哲治監督率いるV9時代の巨人。ON(長嶋茂雄・王貞治)の全盛期にぶつかったのも不運だったが、ではまったく歯が立たなかったかというと決してそんなことはない。5度の対戦中「今年は阪急が勝つんじゃないか?」と下馬評が高かった年もあった。それが1971年の日本シリーズである。

1971年の阪急は、ベテランと若手の力がうまくかみ合い前半戦から独走。2年ぶり4度目のリーグ優勝を果たした。この年に大きく成長を遂げたのが、阪急ひと筋20年、通算284勝を記録した山田久志である。右のアンダースローで「史上最高のサブマリン投手」と呼ばれた山田は、1968年のドラフトで阪急の1位指名を受け、富士製鐵釜石から入団。西本監督は山田の素質を高く買っていた。

2年目の1970年、山田は開幕から6連敗を喫したが、西本監督は2軍に落とさず辛抱強く先発で起用。米田哲也・梶本隆夫らの後を継ぐ新世代のエースとして育てるためである。山田は10勝17敗と負け越しはしたが、初の2ケタ勝利を飾った。

翌1971年、背番号を「25」から「17」に改めた山田は、22勝6敗という好成績を挙げ、優勝に大きく貢献。防御率2.37、勝率.786で最優秀防御率、最優秀勝率のタイトルも獲得し、ベストナインにも選ばれた。名実ともに新エースとなった山田を、西本監督は宿敵・巨人との日本シリーズでも柱に据えた。阪急の下馬評が高かったのは、この山田の充実ぶりも理由の一つだった。阪急は西宮球場での第1戦を1-2で落としたが、第2戦は先発に山田を立てて8-6で勝利。山田は王と柳田真宏に2ランを打たれ、7回4失点で白星こそ付かなかったが、被安打はわずか4。初の大舞台でON相手に堂々と渡り合った。

移動日を1日挟み、後楽園球場で行われた第3戦。西本は中1日で山田を再び先発させた。今だったら考えられない起用法だが、当時の日本シリーズは「勝負所はエースに託す」のが当たり前。ここで連勝すればシリーズの主導権を握り、巨人を追い込むことができる。山田もこれを意気に感じた。2回に阪急が1点を先制すると、山田は3回から8回2死まで1人のランナーも許さない完璧なピッチングを披露。試合は1-0で阪急リードのまま、9回裏、巨人最後の攻撃を迎えた。

山田は柴田勲に四球を許したが、2死を奪い、完封勝利までいよいよあと1人。ここで打席に立ったのが4番・長嶋である。このとき一塁走者だった柴田によると、ベンチから盗塁のサインが出たので走ったら、長嶋はなぜかヒットエンドランと勘違いし(通常、2死からのエンドランはない)、ボール球を強引に打ちに行った。打球はショートのグラブをわずかにかすめてセンター前に抜け、2死一・三塁に。打順はこの日5番の王に回った。

王は前述のように、第2戦で山田からホームランを打っている。王は歩かせて、次打者の末次利光と勝負する手もあったが、西本監督も山田も「王と勝負」で一致していた。真っ向勝負を挑んだ山田だったが、王はカウント1-1から山田が投じた3球目、やや真ん中寄りに甘く入った球を見逃さなかった。打球は右翼スタンドに一直線! 王の劇的な逆転サヨナラ3ランで、阪急に傾きかけたシリーズの流れを引き戻した巨人は、勢いに乗って続く第4戦・第5戦も連勝。柴田は後にこう語っている。「王さんの一発が出ていなかったら、あのシリーズは負けていたかもしれない。V9もなかったと思う」

一方、打たれた山田はマウンドでがっくりとしゃがみ込み、動けなくなった。本人によると打たれた後の記憶がほとんどないそうだが、この苦い経験が山田を強くした。山田はその後、阪急を代表する大エースに成長。上田利治監督のもと、1975年に広島を破って自身初の日本一を経験した。さらに1976年・77年と2年連続で、長嶋監督率いる巨人を破って日本シリーズ3連覇を達成。みごと雪辱を果たしている。

<チャッピー加藤>

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