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生徒の1人にだけ厳しかった私が、洗い場の前でやっと言えたこと

  • 2026.9.26
ハウコレ

描き直しのたびに線が変わっていく生徒が、教室に1人だけいました。その絵をどうしたいのかを、私は当の本人にだけ話していなかったのです。理由は、指導のためではありませんでした。

洗い場の蛇口の音が、ほかの生徒が帰ったあとの教室に残っていました。私が水彩画を教えるようになって11年、居残って筆を洗う人はそう多くありません。その日も、いちばん奥の席の人だけがまだバケツを抱えていました。

直しを言える生徒

駅前のビルの3階で、私は月に2回、10人ほどの生徒に水彩画を教えています。ほとんどが趣味として来ている方で、その日も隣の席の方には「いいですね。このまま仕上げましょう」と声を掛けました。楽しく描いて帰ってもらうことが、この教室の役目だと思っているからです。ですが、一番奥の席の人だけは、違いました。

2年前に入ってきたその人は、家で描き直した絵を毎回持ってきます。八百屋の店先を描いた絵は、その回で4度目の描き直しでした。私は空の部分を指さして言いました。

「ここ、描き直してきてください」

直すたびに、看板の線と人の影が変わっていくのが分かっていました。

言わなかった理由

直す理由を、私はその人に一度も説明しませんでした。ほめてしまえば、そこで手を止める人を何人も見てきたからです。ただ、それは教える側の言い分でしかありません。

本当のところは、説明して伝わらなかったときのことが怖かったのだと思います。線が良くなっていると口にして、それきり直しを受け取ってもらえなくなるのが怖かった。私は直させることで、言葉にする役目から逃げていました。

休憩のとき、隣の席の方が「先生に初めてほめられた」と笑っているのが聞こえました。奥の席の人は、その間水入れを持って洗い場に立っていました。

洗い場の質問

その回の終わり、ほかの生徒が帰った教室の洗い場に、その人はまだ立っていました。私は隣でパレットを水につけました。蛇口の音が止まって、その人が言いました。

「私、向いてないんでしょうか」

この2年、いつか聞かれると思っていた言葉でした。私はパレットを拭きながら、顔を上げずに答えました。

「向いていない人に、描き直せとは言いません」

そこで、なぜ直しを指示してきたのか言うべきでした。しかしそのまま、先に教室を出ました。階段を下りながら、これでは何も伝えていないのと同じだと分かっていました。それでも戻れなかったのは、自分の言葉への答えを聞くのが怖かったからです。

そして...

次の回、私はその人の絵をいつもより長く眺めました。直しを言う前に、先に言うと決めていたことがありました。

「秋の展示に、1枚出してみませんか」

看板の線が、最初の1枚とは別の人が描いたように変わっていることも、その場で伝えました。以来、私はその人に直しを言うとき、理由を1つ添えるようにしています。

(70代女性・水彩画講師)

本記事は、ハウコレ読者への独自アンケートに寄せられた実体験をもとに、相手側の視点を編集部が再構成したものです。個人が特定されないよう、一部設定を変更しています。

(ハウコレ編集部)

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