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『火の女神ジョンイ』のモデル・百婆仙、夫の死後に「有田焼の母」と呼ばれるまで

  • 2026.9.21

『火の女神ジョンイ』の主人公のモチーフとなった百婆仙(ペク・パソン)は、最初から歴史に名を残す指導者だったわけではない。彼女の人生を大きく変えたのは、夫である深海宗伝の死だった。

異国の地で夫を失いながらも、百婆仙は窯の火を絶やさなかった。息子や一族とともに作陶を続け、やがて多くの陶工をまとめる存在となったのである。

夫の技術を絶やさなかった百婆仙

深海宗伝は、朝鮮半島から日本へ渡り、肥前の地で陶磁器作りに携わった名匠である。その夫が亡くなった後、百婆仙は息子の平左衛門らとともに陶磁器の製作を続けたと伝えられている。

夫を失ったことで、生活の基盤だけでなく、工房の中心となる技術者もいなくなった。それでも彼女は、宗伝が残した技術と志を途絶えさせまいとした。

百婆仙は、単に夫の仕事を引き継いだだけではない。

同じ集落に暮らす陶工たちから信頼を集め、次第に集団をまとめる指導者的な役割を果たすようになったという。男性の陶工が中心だった時代に、一人の女性が多くの職人から支持を得たことは、それだけでも異例だったといえる。

960人の陶工を率いたという伝承

百婆仙はのちに、一族や陶工たちを率いて有田へ移住したと伝えられている。

ただし、どれほどの数を百婆仙が直接率いたのか、移住の時期や人数が正確にどの程度だったのかについては、史料によって異なる記述がある。

そのため、百婆仙の統率力を象徴する伝承として捉えるのが適切だろう。それでも、多くの陶工たちをまとめ、有田へ移ったと語り継がれていること自体が、彼女の存在感の大きさを物語っている。

百婆仙は、一人で器を作る職人というだけでなく、技術者集団を支え、次の生産地へ導く人物だったのである。

良質な原料を求めて有田へ

百婆仙たちが移り住んだとされるのは、現在の佐賀県有田町にある稗古場である。有田周辺は磁器の原料となる良質な陶石に恵まれ、陶磁器を作るのに適した土地だった。

朝鮮半島から渡った陶工たちは、その土地で技術を生かし、日本の磁器生産を発展させていった。百婆仙もまた、陶工たちを指導しながら作陶を続けたと伝えられている。

彼女が作った器そのものについては、現在まで明確に特定されていない部分もある。しかし、一族や陶工集団をまとめ、技術を次世代へ継承した功績から、「有田焼の母」と呼ばれるようになった。

報恩寺に残る百婆仙の記憶

有田町の稗古場にある報恩寺には、現在も百婆仙を顕彰する碑が残されている。そこに刻まれているのは、朝鮮最高の女性陶工として宮廷で名声を得た人物の記録ではない。

キャプション

戦争によって故郷を離れ、夫を失いながらも、異国の地で家族や仲間とともに技術を守り続けた女性の記憶である。

『火の女神ジョンイ』では、主人公が王室の陶磁器製造所で技を磨き、宮廷の陰謀や身分の壁に立ち向かう。

一方、モデルとなった百婆仙が実際に生きた場所は、日本の肥前だった。

ドラマのジョンイが自らの才能で未来を切り開いたように、百婆仙もまた、戦争と移住、夫の死という苦難のなかで、自分にできることを選び続けた。

名匠の妻から歴史をつなぐ存在へ

百婆仙が歴史に残った理由は、単に深海宗伝の妻だったからではない。夫の死後も作陶を続け、家族と陶工たちをまとめ、その技術を有田の地へつないだからである。

彼女が実際にどれほどの器を作り、何人の陶工を率いたのかについては、伝承と史実を慎重に分けて考える必要がある。

それでも、百婆仙が人々の記憶から消えなかったことには意味がある。

一人の名匠の技術を、家族の中だけで終わらせず、集団と地域の文化へ変えた女性。それこそが、百婆仙が数百年を経た現在も「有田焼の母」と呼ばれる理由なのである。

文=森下 薫

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