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Netflix『九条の大罪』が示す大衆の沼の底にあるもの|横川良明の「沼の中心で愛をさけぶ」Vol.7

  • 2026.4.19
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あなたの周りで最近「20日でパイになる」とやたら言ってる人はいませんか。いたら、その人は間違いなく『九条の大罪』にハマった人です。

配信開始以来、国内ランキング1位を独走するNetflixシリーズ『九条の大罪』。なぜこんなにも観たくなるのか。大衆の心を引きずり込む沼の底にあるものについて語ります。

『九条の大罪』がただの“弱者ツーリズム”ではない理由

「深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いてる」

これは、本作の第5話に登場する台詞。もともとは哲学者・ニーチェの言葉だ。悪と戦っているうちに、気づけば自分が悪に取り込まれてしまう。ミイラとりがミイラになるという警句として広く知られている。

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『九条の大罪』のヒットの理由は、まさにこの一節の通り。本作が描くのは、平穏な日常という張りぼての裏に隠されたこの国のアンダーグラウンド。反社会的勢力など悪人の弁護ばかりを引き受ける“悪徳”弁護士・九条間人(柳楽優弥)のもとに持ち込まれる様々な事件を通じて、華やかなメインストリートから一本路地に入った先にある“日陰の人々”の実態を目撃する。

犯罪の片棒を担がされる軽度の知的障害者。スタッフによる暴行や虐待が横行する老人介護施設。男に利用され、破滅に追い込まれるトー横キッズ。どれもこれもあまりにむごたらしくて、できればフィクションだと信じたい。でも、きっとどれも現実で起きていること。

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普段は知らないふりをして目を背けている不都合な世界を、見世物小屋的に覗き見する“弱者ツーリズム”。「地上波ではできない」が謳い文句となる近年の配信ドラマには、タブーを踏み越えたいという人間の願望が多分に潜んでいる。

ただ、だからと言って本作がただの悪趣味な物見遊山かというと、むしろその逆。無傷の傍観者でいさせてくれない。画面の向こうという安全圏で高みの見物を決め込んでいたはずなのに、いつの間にか倫理と道徳の迷宮に引きずり込まれ、出口がわからず途方に暮れる。世間の唱える正義がいかに脆く一面的か。その現実を目の当たりにすることで、視聴者もまたモラルと常識をかき乱されるのだ。まるで激しく揺れるテミスの天秤のように。

この世には、地べたに座れる人間と座れない人間がいる

たとえば、第6-7話「消費の産物」に登場する笠置雫(石川瑠華)。愛した男の店に通う金を稼ぐため、雫はAVへの出演を決める。しかし、女性への性加害を許さない人権派弁護士・亀岡麗子(香椎由宇)によって、雫の出演したAVは販売差し止めに。事実だけを切り取れば、亀岡は正義の人。判断能力の欠落した雫をいいように丸めこんだ男たちが悪人だ。

歌舞伎町を徘徊する少女、笠置雫を演じる石川瑠華。 Netflix

でも、AV業界から足を洗ったところで、雫は救われなかった。むしろずっと孤独だった雫にとって、AVは初めて他人から必要とされた成功体験だった。たった一つの居場所を取り上げられたことがきっかけで雫の人生はますます転落していく。

はたして本当に正しかったのは、誰なのか。正義か悪かなんて、誰がジャッジできるのか。『九条の大罪』が投げかける問いは、裁判の判決のように明瞭な答えは出ない

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ただ一つはっきりしているのは、少なくとも僕は路地で地べたに直接は座れない。亀岡だってそうだろう。けれど、雫は何の抵抗もなく地べたに座る。この時点で、僕たちと雫の見ている世界は違う。その違いを無視して救いの手を差し伸べたところで、さらなる地獄へと突き落とす一手にしかならないのかもしれない。劇中、頻繁に飛び交う「助ける」「守る」という言葉の欺瞞に気づいた瞬間、視聴者はもう雫の人生を刺激的なエンタメとして消費できなくなる。

他人を簡単に弱者と呼べる感性の醜悪さ

そもそも他人を簡単に弱者だなんて呼んでしまえる感性こそが、醜悪極まりないのだろう。

今年のカンヌ国際映画祭のコンペにも入った濱口竜介監督の『急に具合が悪くなる』にも出演するなど国際的にも活躍する注目の若手俳優、黒崎煌代。 Netflix

そう思い知らせてくれたのが、第2-3話「弱者の一分」の中心人物である曽我部聡太(黒崎煌代)だ。昔なじみの金本卓(原田泰雅)に支配され、身代わりとして服役までさせられた曽我部を、ほとんどの人が無力な弱者と見ていた。けれど、物語の終盤で曽我部は金本に一矢報いる。立場の弱い人とレッテルを貼って、みんな曽我部は何もできないと思い込んでいた。ただ一人、九条以外は。

助けてあげなければいけない対象と認定した瞬間、両者の間に線が引かれる。知らず知らずのうちに関係に上下が生まれる。その善意は誰のためか。弱い人を救っている自分に酔いしれてはいないか。他者の困窮を、自分のいる階層を確認するためのTier表にしていないか。

ムロツヨシが演じる冷徹なインテリヤクザなど反社会勢力と九条との関わり方の先に見えるものはなにか。 Netflix


『九条の大罪』をエグいと感じるのは、暴力描写があるからでも裏社会の実情を描いているからでもない。無自覚でいたかった、この社会を構成する一員としての罪に気づかされるから、苦しくて、でも夢中になる。

柳楽優弥の平熱の優しさと、松村北斗の憂い

そんな物語を彩るキャストたちは、いずれも実力派ばかり。柳楽優弥は、本心の見えない九条間人という人物を、飄々というより淡々とした物腰で立体化していく。その起伏のない落ち着いた口調は、不思議と人の心をほどく効果がある。

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九条は、地べたに座る雫と話すとき、同じように地べたに座った。依頼人の家守華江(渡辺真起子)が泣き崩れたときも、目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。いたずらに距離を縮めるでも突き放すでもない、平熱の優しさが柳楽優弥の九条には見えた。だから、犯罪者に加担していても信頼できた。『闇金ウシジマくん』で知られる原作者・真鍋昌平の胸糞エンターテインメントを、生身の人間によるヒューマンドラマに変えたのは、柳楽優弥が醸す人肌の温度感だった。

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烏丸真司役の松村北斗は、憂いが似合う俳優だ。心が不安定な烏丸の母は、20年前、無差別殺人事件の犠牲となって命を落とした夫のように、突然息子が不幸な目に遭わないか恐れている。だから、烏丸は母を悲しませるわけにはいなかった。そして、そのためにはどんどん裏社会に飲み込まれていく九条と一緒にいるわけにはいなかった。

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第10話、夜の屋上で道を違えようとしている九条を見つめる烏丸は、すぐそばにいる人を見ているはずなのに、遠い人を見ているような目をしていた。その視線が儚く切ない。苦悶に顔を歪めなくても、決別の痛みが伝わる。本作のブロマンスとしての濃度を上げていたのが、松村だった。

説得力をもたらす町田啓太のカリスマ性

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町田啓太の演じた壬生憲剛は、静のカリスマ。地元の半グレを統率し、常に冷静沈着。九条に対しても礼儀正しく接し、おおよそ狂気や暴力性とは程遠い雰囲気だ。だが、菅原遼馬(後藤剛範)の根城へ乗り込むシーンで放った静かなる気迫は、観る者のアドレナリンに火をつけるカッコよさがあった。

ここに説得力がなければ、一発逆転のシナリオがご都合主義に見える。「全員俺に力を貸せ」の台詞に沸き立つようなフェティシズムを感じたのは、町田啓太のカリスマ性ゆえだ。

その他のキャストで言えば、すでにネットでも大きな評判をとっている黒崎煌代はもちろんのこと、その父親役を演じた水澤紳吾が出色。リアルすぎる人物造形は見ていて胸が痛くなるほどで、こういう俳優が脇を固めることで、物語の解像度が何倍も増すのだと実感した。石川瑠華の地雷系女子は、まるで『みいちゃんと山田さん』を見ているよう。ふわふわとした喋り方の女の子が、どんどん壊れていくさまは思わず悲鳴をあげたくなった。

「曽我部親子がすごい」とネットでも話題になった水澤紳吾。 Netflix
シソンヌの長谷川も名バイブレイヤーぶりを発揮。 Netflix

AV会社の社長を演じる長谷川忍も、本物の裏社会の人間を連れてきたかのような実在感。特に、音尾琢真演じる刑事に向けた柵越しの挑発するような薄い笑みは、本作の中でもとりわけ緊迫感の溢れるワンショットだった。

演出面では、オープニングタイトルが象徴的。まるで社会の闇を飲み込むような目のアップから始まり、人物紹介的にインサートされる各キャラクターは、みなこちらを見ている。文字通り「深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いてる」だ。見ているのではなく見られている、という本作の本質をオープニングタイトルが語っていた。

誰かを助ければ誰かを不幸にする。それが九条の背負った罪ならば、僕たちの抱える罪は何なのか。まっすぐ見つめ返す眼差しが、そう問いかけてくる。でも、答えられない。この居心地の悪い背徳感こそが、『九条の大罪』の中毒性の秘密だ。

「九条の大罪」

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全10話、Netflixにて全世界独占配信中。

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