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【最新刊『生きとるわ』発売】30代後半を迎え人生に行き詰まった、かつての高校の仲間たちはどこへ向かうのか【又吉直樹インタビュー】

  • 2026.2.21

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又吉直樹が6年ぶりとなる小説『生きとるわ』を上梓した。舞台は2023年の大阪。高校の日本映画研究部の仲間たちが阪神タイガースがリーグ優勝した夜に久し振りに集うところから物語は始まる。主人公の岡田が、かつての友人である横井に貸した500万円。それが断つことのできない鎖としてその晩2人を再び結び付け、そして悪夢のような日々が訪れる。正と邪が対立することなく溶け合うような青春の後の暮らしを送る人物を怒りや笑いを含みながら紡ぎあげた又吉は、いま何を思うのか話を聞いた。

やっと表現者以外の人物を主人公に据えることができた

――前作『人間』から6年とだいぶ空きました。

小説を書きたいとずっと思ってたんですけど、単純に時間がありませんでした。たとえばこの6年の間に、脚本の仕事だけでも表に出ているもの出ていないものを合わせれば3本4本ありましたし、満島ひかりさんとの共著(『軽いノリノリのイルカ』)とかヨシタケシンスケさんの共著(『その本は』『本でした』)があったり、『月と散文』を書いたり……。書いた総量でいえば長編小説2本、3本分はあったんです。書く時間は一定で変えようがない中で、どこにそれを割いたかというだけなんです。でも、この期間に数年間コロナの期間があって、ほとんどの仕事に対して「よし、やろう」とはなかなかなれない部分があったので、それは多少は影響したように思います。

――コロナ禍、ということで言いますと、2023年春に『月と散文』を出版されましたが、そのインタビューの中で又吉さんは「コロナ禍になり家にずっといて誰にも会わず、でも昔のことを振り返る時間にもなった」とおっしゃってました。この『生きとるわ』では、岡田と横井という2人の、高校時代から20年以上続く関係性が描かれるわけですが、主人公である岡田は既婚者であり公認会計士で、又吉さんとは属性がまったく異なります。一方で横井は、たとえば東京百景に収録されている『一九九九年、立川駅北口の風景』『五日市街道の朝焼け』に登場する人物と重なる存在です。そうなると、やはり又吉さん自身の過去を色濃く反映した物語ではないか、という読み方をしてしまうんですが。

今回、僕自身はモデルになっていないんです。一方で、どんな話を書こうが僕自身と物語を完全に切り離すのは不可能だと思うんです。仮に宇宙人の話を書いたとしても、これは又吉さんの分身ですよね、と読む人はい続けるでしょうし、だからあまりそこは意識していないですね。僕でもいいし僕じゃなくてもいいんです。となると僕ということだけが採用されていくんですけど、ほんまにどちらでもいい。それはなぜかというと、読者の中には登場人物に対して「これ自分と似てるな」とか「自分と一緒やな」という読み方をする人は必ずいますよね。登場人物の中に自分の姿を見つけるのは僕もそうで、他人の作品を読んでいて自分を見つけてしまう僕が、小説を書いたときに、自分に重ならない人物だけを登場させて物語を書くことは不可能なんです。そして僕はそういう作品に興味はないんです、なぜなら噓の物語になってしまうから。なので僕の体験してきたことに近いもの、僕の感覚と近いものというのは、物語を書く以上、永遠にあると思います。

――前作『人間』の主人公の永山、そして今作の岡田は共に38歳です。これは太宰治が『人間失格』を書いた年齢でもあります。「38歳の人物」を書くということに何か意図はあったんですか?

これという意図はなくて、何歳に設定してもよかったんです。でも一応、阪神タイガースが日本シリーズを制した1985年に生まれた大阪の子供たちが、次に優勝する2023年に大人になって暮らしているとしたらどうなるんだろう、というのはあったんですね。自分の年齢に合わせる必要もないし、厳密に38歳である必要はなかったですけど、そうなりました。

――じゃあ偶然だったんですね。

もちろん「あ、ちょうどいいな」という感じはありましたね。というのは、「何者かになろう」とするのは10代20代の話が中心になってくると思うんですけど、30代半ばになると「本当に自分の選択はこれでよかったんかな」と切実に考える頃だと思うんです。18歳とか22歳のかなり若いときに人生の大きな決断をするじゃないですか。その若いタイミングでの選択に従ってそれぞれ社会に出て活動するんですけど、世の中がわかってくるほどに、おのれの「できること、できないこと」がわかってきますよね。20代半ばとか30歳くらいまでに、自分により適した環境に転身できたらいいけれど、そうは決断できない人たちもいっぱいいるわけで、「新たにこう生きたい」という切実さが最も高まるのが30代半ばじゃないかと思うんです。終身雇用型で勤め上げるというパターンが完全になくなったわけではないですけど、大きな会社が潰れたりとか、そういうことも起こり得る時代です。となると、10代20代の頃に感じていた「自分はなんなんだろう」とか「何者かになりたい」ということとは違う、別種の不安とか怖さ、「ここからどうなっていくんだろう」ということが深刻に立ち上がってくる世代であると思うんですね。なので今回は、阪神タイガースが優勝した年に生まれた子供たち、という設定が最初にあったわけですけどけど、『生きとるわ』に含んだテーマとこの38歳という年齢はすごく合うと思ったんです。

――とても印象的な岡田の言葉があります。「本来の自分を偽って、真っ当な人間を装うことは本当に悪いことなんやろうか。最初から『自分は愚かでどうしようもない人間です』と申告して、馬鹿にされ許されながら生きなくてはいけないのか。健全な精神を持たない人間は誰の人生にも関与せず、人を傷つけないことだけに命をかけて死んでいくべきなんやろうか。そんな極論に意味はないと妻は笑うやろう。自分に期待して、周囲の人を裏切らず、誠実な自分に変わりたいと願うこと自体も悪なんやろうか。それとも、それをやり遂げられないことが悪なのか。」と、いうものなんですけど、この自問自答こそが、30代半ば以降の不安や怖さを代表すること、というのが又吉さんのお考えということなんでしょうか。

『火花』『劇場』が顕著ですが、これまで書いてきた小説の主人公は「表現者」を志す若者なんです。というのも、僕は19歳になる年に上京してきたんですが、当時周りを見渡してルサンチマン的な感覚が強かったんですね。世に出ていない、誰にも知られていない芸人として活動していると、いろんな人から舐められたり虐げられたりもしたんです。自分の好きなことをやってはいるけれど社会に貢献できていることが何もないわけで、ある意味仕方ないと思うんです。でも、そういう経験が僕の中では大きくて、当時の僕のような彼らの、正当じゃないにせよ理由みたいなものはある、ということをちゃんと描きたかったんです。

――そこから次の世代に移行していくのが第三作小説の『人間』で、『生きとるわ』は『人間』と重なりつつ、さらにその先の人生、生き方への問い、という気がします。

語り部である岡田は、公認会計士です。だから僕の中では何者かにはなれているんです。でも30代の後半を迎えていろんな問題を内にも外にも抱えていて、真人間になろう、なりたいということで、ああいう言葉が内に生じてきたわけです。僕は今も、夢を追っている若者とか何者かになろうとしている人たちの苦しみを、それなりにわかるつもりですし、応援もしているんです、自分も通ってきた道なので。他方で、かつて「幸せなんだろうな」とか「うまくいっているんだろうな」っていう、その世代の平均的な所得を得て暮らしが成り立っている人たちのしんどさみたいなものはあまり見てこなかったんです。でも、その人たちにはそこにいるからこそのしんどいことがいっぱいあるということがわかってきたんです、当然のことなんですけどね。僕もより大人になって視座が広がってきて、やっと表現者以外の人物を『生きとるわ』で主人公に据えることができたのかな、と思うんです。

――何者かになることができても、贅沢を言わなければ十分生活が成り立つ収入があっても、人生はままならない、ということですかね。

どこに行こうが何になろうがしんどさはあるし、みんながみんなうまくいくわけではないという、当たり前ですけどそういうことですよね。

わかってもらおうとしてるやん、っていう作品を僕は書いてはいけない

――今回、文章の書き方として、会話のみならず、地の文でも大阪弁を採用していますよね。

舞台が大阪ということに尽きるんですけど、これまでは地方出身者が上京してきた物語だったので、地の文を標準語で会話文は方言で、という選択だったんですが、舞台を大阪にするのであれば、地の文が標準語である必要はもしかしたらないのかなということで、こういう書き方を選んだ、ということですね。大阪の中にもいろんな方言があるので、地域は限定しないよう、ぼかすような書き方にしようかなとは思ったんですけど。

――大阪的であり、かつぼかしていく、ということだと作中に出てくる音楽もそうかな、と思います。たとえば、高田渡、加川良、金延幸子といった関西に所縁があるフォークシンガーたち。でも、岡田や横井の世代の人たちの思春期や青春期にオンタイムで活躍していたミュージシャンではありません。そういう意味で、時代性というか当事者性みたいなものが曖昧になっていく気がします。

彼らは高校の「日本映画研究部」に所属していたという素地があるんですね。だから文化的なものに興味があるはずなんです。映画に限らず音楽やファッションにも。その中で大阪的なものを選んでいったということですよね。実際、僕は小学校の頃からフォークが好きだったので違和感はないんです。小学生の頃にいわゆるフォークソングと言われるものを知って、中学校でもフォークを中心にCDを借りて聴いたりしてたんです。

――『月と散文』の中に『魂を解放していいですか』という話がありますが、そこで少年時代の又吉さんはブランコに乗りながらフォークソングを歌うのが好きだった、とありますね。フォークソング同様に、『生きとるわ』には、ブランコが、特に岡田の妻である有希とのシーンで印象的な形で登場しますね。

そうですね。僕の子供の頃の記憶とすごく結び付くものですし、長いこと乗ってないですけど好きやし。みんな一度は乗ったことがあると思うんですけど、僕の場合、遊び方が独特というか。当時の僕の遊び方はしつこくて、「どんだけ乗んねん」っていうくらい乗り続けていたんです。有希と一緒ですよね。

――又吉さんにとってはブランコは遊具を超えた特別なものである、と。

僕の勝手な感覚ですけど、散歩好きだったり独りでのツーリング好きと同様に、「固執」みたいな雰囲気がブランコに対してあるんですよね。あと、僕は学童に行ってたんですが、小学校の中庭に面した一角にあったんです。その中庭にブランコがあって……というかブランコしかなかったんです。その記憶があるから、ブランコに乗る子供というのは、学校が終わって家に帰ったら親が一緒にいてくれるという環境にはおらず、鍵っ子とか一人で遊ばなあかん子供が圧倒的に多かったはずと思うんです。それが哀愁をこの小説に帯びさせているかもしれないですね。

――カバー写真もブランコですしね。

黒沢明監督の『生きる』っていう映画があって、劇中でブランコが「生きることの象徴」みたいな使われ方をしています。そういうイメージもあるかもしれないです。

――構成としては、2023年、阪神タイガースがリーグ優勝した晩に岡田、大倉、広瀬という高校時代の日本映画研究部のメンバーが久し振りに集まって飲むところから始まります。帰り道に、もう一人の部活メンバーの横井に出くわします。その後、4人が過ごした高校時代に飛んだ後、現在に戻ります。そして高校時代から20年が経った現在地が徐々に明らかになっていくわけですが、岡田や横井だけでなく、ほとんどの登場人物が問題を抱えた大人になっています。それぞれ事情があるにせよ、どうしようもない人間、という印象が読み進めるにつれ深まっていきます。主要人物がほとんどクズ、というのはかなり勇気がいる設定ですよね。

共感されにくい、というのはあるでしょうね。「売れる売れない」という分け方をするのであれば、売れにくい作品だと言えるかもしれません。でも、僕は物語を書くときにそこをあまり意識しないんです。良いものを作りたい、という思いが圧倒的に強いんです。僕が読み手の立場のとき、「売れようとしてんな」って感じてしまうと一気に興味が半減してしまうんです。それが音楽であるならば、凄くキャッチ―で気持ちいいな、って楽しむことができるんですけど、なぜだか小説に対してはそう感じてしまうんです。そういう読み方をしている僕がそれを意図的にやってしまうのは、読者のことを舐めすぎてると思うんです。だから、仮に無意識であったとしても、安易に共感を得ようとしてないか、共感に寄りかかろうとしてないか、ということはすごく注意しています。わかってもらおうとしてるやん、っていう作品を僕は書いてはいけない、そう思っているんです。

――共感を優先するならば、岡田と横井を対立軸におくべきですもんね。

僕は僕のやり方しかわからん、というのもあるんですけどね。でも正しい者と間違っている者って……正しいとか間違っているなんて、それぞれの主観でしかないし、その主観も時間が流れたら変わるから一定ではないんですよ。

――善も悪も入れ替わり続けるだけでなく、同時に一人の人間の中に存在するものだから、明確なハッピーエンドとかバッドエンドとか、現実の世界でも、小説の中でも起こり得ないよな、そんなふうに感じました。

誰かの価値基準によって勝手にそう決めるだけですよね。たとえば芸人で言うならば、売れた人はハッピーで売れなかった人はアンハッピーかというと、それも実は交ざっているじゃないですか。売れなかったけど幸せになった人もいれば、売れたけど不幸になった人もいますよね。傍目ではわからなくても、少なくとも本人の中ではそうだと思うんです。仮にどちらかに大きく振れた出来事があったとしても、それでも人生は続いていくので、バッドエンドもハッピーエンドも書き手側が意識してどちらかに落とし込むことをやってしまうのは、作り物だなと思ってしまうんですよね。

――でも小説の場合、明快な終わりを設計するケースは多いですし、それによってスッキリしたいという読者もたくさん存在することは又吉さんも重々承知なわけですよね。又吉さんは又吉さんなりの信念を貫いて、小説はフィクションであるわけだけど、作中に嘘は込めたくない、と誠実に読者に向き合っているということなんですね。

わかりやすいハッピーエンドなりバッドエンドを僕が設定したとて、翌日に何があるのかわからないわけですから……そこに何か意味はあるのかな、と思っちゃうのかもしれません。小説でもお笑いでも、僕がやりたいのはそういうものではなくて、小さい落差を敏感に捉えて、「ええな」と思ったり「イヤやな」と思う世界なんですよね。「パンうまいな」というときに感じる幸せを丁寧に説得力ある表現で伝えられることのほうが、圧倒的なハッピーエンドで多くの人の感動を呼ぶものよりも僕は優れていると思うんです。「長生きした人が一番偉い!」みたいな世界を描くつもりはないんです。その人の人生の中にあるささやかな幸福の瞬間とか、他人には理解されないようなしんどい瞬間のほうが僕は気になるというか、ね。

法律も道徳も人が作ったものでしかないからな、という思いもある

――横井は悪人の素質が高校時代に芽吹き、大人になったら開花してしっかり一線を超えた人間です。あらゆる人を裏切り、ほとんどの場面で殺意に近いような感情を読者である私も感じるくらいなんですが、なのにちょいちょい笑っちゃうというか、なんならちょっと肯定する気持ちさえ感じたりもするんです。

僕が書くべきは、そういうことかなと思いますね。自分が人間を見ていて「面白い」と思うことが書けていたらいいなと思いますね。

――又吉さんは悪人であっても断罪はしない、そこにわずかでも正義や理由があるなら、それを見つめたい、ということでしょうか。

被害に遭っている人がいる以上、横井はダメなんですよ。でも、法律で取り締まることのできないダメな人はいっぱいおるよな、というふうにも思ってしまうんです。たとえば、不機嫌で誰かを傷つけるような人もダメやけどな、と僕は思うんです。法律的にOKだったらOKなわけじゃないというか。でもそこまで罪を追求していくと、僕も絶対あかんし、政府の人間なんて一人もおらんくなる(笑)。みんな必ず誰かを傷つけているんです。スーパースターでさえも眩しすぎるがゆえに、そうではない人を傷つけている可能性がある。となると、罪の捉え方が、ちょっとわからなくなってきますよね。社会的地位がある人が、彼にとっての正義をまっとうする中で誰かを傷つけたとしても一歩間違えたら美談にすらなるし、自分が他人を傷つけたかもしれないなんて気づきもしないじゃないですか。でも友達を裏切るような奴はみんなに嫌われるから最低限自覚するじゃないですか。この場合、どっちがより悪質かみたいなことかもしれないです。

――正義が暴走する現代だからこそ、『生きとるわ』が一石を投じる部分がありますよね。たとえば、「不倫、あかん!」というのはわかるけれど、不倫をした奴を殴り続けていいのか、間違いを犯した奴は人並みに生きることさえ許されないのか、という疑問が湧いてきました。

善い人になろうとして努力するのか、駄目な自分をさらけ出して許されようとするのか、みたいな。その逆もあるでしょうし。でも、僕みたいにこんなことをずっと考えているヒマはみんなないでしょうから、時代や集団、社会によって善悪を規定していくんやとは思うんですけど……。でも、そもそも法律も道徳も人が作ったものでしかないからな、という思いもあって。

――被害者が知り合いか、赤の他人かでも、基準はブレますもんね。

不倫した人を当事者ではない人らが叩きすぎているから、「やめよう」と言ったら、「お前が当事者になったらどうすんねん、お前の娘が不倫されても許せるのか、自分自身や自分にとって大事な人が殴られても同じことが言えるのか」って声が上がるわけじゃないですか。そんなん、許すわけないやん(笑)。自分の大事な人が殴られたらめちゃくちゃ怒りますし、不倫されたら憎みますよ、そりゃあ。でも当事者じゃないときは、「まあまあ」ってなだめるやろって(笑)。仮に僕の友達が「大事な人を殴られたから、俺は今からそいつを殴りに行くんだ!」って言い出したら、応援したい気持ちはあるけれど、「待て。法にさばいてもらおう、お前まで罪を背負ってしまう」って止めるんですよ、そいつのために。立場が変わって僕の大事な人が暴力にさらされたなら、やっぱり僕は行こうとしますよね。そのとき、僕は思うんです、「誰か止めてくれ。自分では止まれへん」って。そういう理解なんですよ。この時代、みんなが正義を振りかざしている。いいんですよ、それが当然のバランスなんです。けど、正義を信仰しすぎてだんだん加害者になってきているから、それはちょっと、あれじゃないか、もうちょい冷静になったほうがいいんじゃないか、っていう立ち位置なんです。自分の身内が同じように危機にさらされたら、僕もみんなと同じようにめちゃくちゃ怒ると思いますし、でもそれは僕の中で矛盾していないんです。それぞれの役割だと思うんです。

――『生きとるわ』というタイトルが、ラストシーンに向かってものすごい密度とスピード感で描かれ、そして見事に回収されるわけですが、だからといって単純に「あぁ、良かった」とはならないわけです。僕らは単純化して世界を見ているけれど、現実はずっと揺らいでいるし、苦さの伴うものなんだと突きつけられた気もしました。すごく社会的な作品であり、この小説に出てくる人物は程度の差こそあれ多くが内側に悪を抱えていますが、でもなぜか希望が湧いてくる作品でもありました。

社会的なことを、声高に僕が叫ぶ必要はないと思うんですよ。普通に現実の世界で起こっていることを書けば、そこに勝手に含まれると思うので。人間の暮らしを書いていけば政治の問題も経済の問題も重なってくるはずなんです、この世界のことを書いているわけだから。むしろそういうアプローチでいいんじゃないかなって思っています。横井はもちろん岡田も小説で描いた後の暮らしは困難に満ちているはずですが、でも、どんな生活を送っていようとも、楽しく生きる方法はそれでもあるはずや、と思っていますね。僕は人間をあきらめていないんです。この本についていろんな捉え方ができると思うんですけど、まず、「誰でも生きていていい」ということは言えると思います。

撮影=渡邊秀一 取材・文=編集部

書名:生きとるわ

著者:又吉直樹

定価:2200円(10%税込)

発売:2026年1月28日(水)

発売・発行:株式会社文藝春秋

https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163920603

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