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35年前、化粧品のCMから流れた“バレンタインリリースソング” 流行に迎合しない“大人ポップス”

  • 2026.2.2

「35年前のバレンタインデー、どんな風に過ごしていたか覚えている?」

1991年2月。街にはまだバブルの残り香が漂い、華やかな喧騒が夜を彩っていた。けれど、誰もが浮足立っていたわけではない。煌びやかなネオンの裏側で、ふとした瞬間に訪れる孤独や、誰にも言えない心の揺れを、静かに抱え込んでいる大人たちが確かにいた。

そんな、背伸びをしながらもしなやかに生きる人々の心に寄り添うように、その曲はリリースされた。

杏里『Sweet Emotion』(作詞:吉元由美・作曲:ANRI)――1991年2月14日発売

カネボウ化粧品・春のイメージソングとして、テレビから流れてきたその旋律。当時、杏里自身が初代イメージキャラクターを務めた「T'ESTIMO(テスティモ)」のCMを目に焼き付けている人も多いはずだ。鏡の前で自分を磨くその瞬間に、そっと自信をくれるような、凛とした美しさがそこにはあった。

都会の夜に溶け出す“大人の余裕”

1980年代に『CAT'S EYE』や『悲しみがとまらない』で一世を風靡した彼女は、1990年代に入ると、より洗練された世界観を確立していく。この『Sweet Emotion』は、まさにその真骨頂ともいえる1曲だ。

楽曲のアレンジを手がけたのは、長年彼女の音楽的パートナーであった小倉泰治。繊細でありながら芯の強さを感じさせるアレンジが、杏里の持つ透明感あふれるボーカルを、より一層際立たせている。

この曲の最大の魅力は、過剰に飾り立てない「引き算の美学」にあると言えるだろう。打ち込みのビートを主体としながらも、随所に散りばめられた流麗なキーボードやコーラスワークが、都会的な冷たさと、そこにある温かな体温を同時に描き出している。

それは、ただ悲しみに浸るのではなく、自らの足で立って明日を見つめる大人の女性の姿そのものだった。

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1991年、「T'ESTIMO」のポスターを前にポーズを決める杏里(C)SANKEI

鏡の中の自分と対話するような静謐なひととき

歌詞を担当したのは、杏里の数々の名曲を支えてきた吉元由美だ。彼女が描く言葉たちは、特定の誰かへの愛を叫ぶものではなく、もっと内省的で、自分自身の内側にある「予感」や「小さな変化」を大切にすくい取っている。

「Sweet Emotion」という言葉が示す通り、甘いだけの感情ではない。そこには、過去を脱ぎ捨てて新しい自分へ向かおうとする、ひたむきな決意が込められていた。

化粧品のCMソングとして起用されたこともあり、当時の女性たちにとって、この曲は単なるBGM以上の意味を持っていた。リップを引き、瞳を彩る。その日常の動作が、この曲が流れることで、まるで自分だけの物語のプロローグのように感じられたのだ。

派手な演出や強烈なサビで圧倒するのではなく、じわじわと細胞に染み込んでいくような、静かなパワーを持った楽曲。それが、多くのリスナーの日常に深く根を下ろした理由なのかもしれない。

時代を越えて響く、透明な歌声の正体

1991年という年は、音楽シーンも大きな転換期を迎えていた。バンドブームが落ち着きを見せ、よりパーソナルな感情を歌うシンガーたちが台頭し始めた時代。

そんな中で、杏里が提示した「大人のポップス」は、決して流行に迎合するものではなかった。彼女が自身で作曲を手がけたこの旋律には、どこか海風のような開放感と、都会の孤独を包み込む優しさが共存している

それは、彼女がハワイやLAといった拠点での生活を通じて培った、独自の感性が成せる業だろう。形あるものに頼るのではなく、目に見えない空気感や心の機微を音にする。

その姿勢があったからこそ、『Sweet Emotion』は35年という長い年月を経てもなお、古びることなく私たちの心を震わせ続ける。

今、改めてこの曲を聴き返してみると、当時の空気感が鮮やかに蘇る。夜の首都高を走る車のヘッドライト、冷たい空気の中で光るショーウィンドウ、そして、自分らしくあろうともがいていたあの頃の記憶。

たとえ時代が変わり、街の景色が書き換えられても、この曲が持つ「静かな情熱」は色褪せることがない。窓の外に広がる夜空を見上げながら、あるいは、明日の準備をする静かな夜に。この『Sweet Emotion』は、今夜もどこかで誰かの孤独を優しく抱きしめ、小さな勇気を灯し続けている。


※この記事は執筆時点の情報に基づいています。