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暴力描写が強烈すぎて今なら“炎上レベル”の問題作… 25年以上経った今でも記憶に残る“ヒューマンドラマ”

  • 2025.5.27
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(C)SANKEI

1990年代の野島伸司脚本のドラマは、現代のタブーを描いたショッキングな作品と言われることが多かった。

そのため、令和の現在においては存在自体がタブー視され、言及すること自体が困難な作品も少なくないのだが、その筆頭はやはり1998年に放送された『聖者の行進』ではないかと思う。

本作は、知的障がい者が働くおもちゃ工場で起きた暴力や性的虐待を描いた社会派ヒューマンドラマだ。

物語は家に居場所がない知的障がい者の町田永遠(いしだ壱成)が、住み込みで働くため、おもちゃ会社の竹上製作所を訪れる場面から始まる。

竹上製作所を運営する所長・竹上光輔(段田安則)は、知的障がい者の働く場を提供している地元の名士として称賛されていた。だが、彼の目的は市の助成金で、永遠たち知的障がい者は安い賃金で搾取されており、職場では酷い暴力と性的虐待が蔓延していた。

現実の事件をモデルとしながらも童話的な世界を描いていた『聖者の行進』

本作はTBSの金曜ドラマ枠(金曜夜10時枠)で放送された。

これまで野島は『高校教師』、『人間・失格~たとえばぼくが死んだら』、『未成年』の三作のドラマを金曜ドラマで執筆していた。この三作は「TBS野島三部作」と語られることが多く、90年代の野島ドラマの中で今観ても色褪せない傑作と言えるのはこの三作のみだ。 対して『聖者の行進』は、この三部作で追求してきた社会問題を背景に、無垢な弱者こそが何よりも尊いというテーマを知的障がい者を主人公に描いた作品だったが、ドラマとしてアンバランスな所も多く、良くも悪くも作者の主張が全面に出ていたため賛否の別れる作品だった。

当時、筆者は野島ドラマに夢中だったが、『聖者の行進』で気持ちが離れてしまった。

90年代のテレビドラマにおける野島伸司の立ち位置は、小説で言うと太宰治、音楽で言うと尾崎豊のような存在だった。多感な思春期に作品を観ると感情移入してハマるのだが、ある程度年齢を重ねると、少数派の弱者を神聖視することで、社会に適応している多数派の人間を敵視する極端な人間観についていけなくなる。

当時20代だった筆者も、野島の人間観にうんざりし、彼のドラマから一度気持ちが離れたのだが、40代のおじさんになった現在の視点で観ると、最後まで面白く観ることができた。

劇中で起きる事件は、1995年に茨城県水戸市のダンボール工場で起きた従業員の知的障がい者に対する暴行・強姦事件をモデルにしている。その意味でドキュメンタリー的な作品と言えるが、世界観はどこか童話めいている。

永遠たちの職場は子ども向けのプラスチックの玩具を作る工場に改変されており、河原の外れにある廃棄されたバスが永遠たちの秘密のたまり場となっている。こういったロケーションのビジュアルは童話の世界を実写化したかのようだ。
また、永遠たち知的障がい者は、高校の音楽教師・葉山もも(酒井法子)のボランティア指導のもとで楽団を結成しており、ドラマの節々で楽器を楽しそうに演奏しているのだが、その姿もどこか幻想的で浮世離れしている。

劇中では永遠が「3匹のこぶた」について言及するシーンが度々登場するのだが、そういった知的障がい者たちの童話的な世界が、彼らを見下して利用しようとする健常者たちによって容赦なく蹂躙される姿が残酷に描かれるため、観ていて何度も目を覆いたくなる。
何より観ていて苦しくなるのが、永遠たちが酷い目に遭っても彼らに弁明する力がないため、一方的に意見を押し付けられて誤解を受ける姿。性被害や暴力を受けても知的障がい者ゆえに周囲の人々から信じてもらえない展開が実に生々しく、水が下へ下へと流れていくように強者の暴力のしわ寄せが一番無力な永遠たちに押し寄せていく残酷な描写は当時の野島ドラマならではのものだろう。

視聴者が不快感を抱くような辛い展開でも徹底的に描く野島伸司の覚悟

現実に起きた事件を元にした社会派ドラマであっても、ここまで酷い暴力を描くことは今のテレビドラマでは不可能だ。仮に本作のようなドラマが今のテレビで放送されたら、すぐにSNSで炎上して放送中止に追い込まれるのではないかと思う。

本作を観ていると、たとえ視聴者が不快感を抱くような辛い展開であっても徹底的に描こうとする当時の野島伸司の、作家としての強い覚悟を感じる。この攻めの姿勢はSNSが全盛の現代においては、失われつつあるものだ。 当時の野島伸司が主張する無垢な弱者を礼賛することで世俗の価値観を討とうとする作風に対しては、今も苦手意識がある。

知的障がい者を天使のような無垢で純粋な存在として描く『聖者の行進』のスタンスは、現代においては「感動ポルノ」だと批判されても仕方ないもので、放送当時も今も全肯定することはできない。

だが、令和現在の視点で観ると、作り手のメッセージの是非とは別に、自分の考えを全てドラマの中で吐き出そうとする覚悟自体に感動してしまう。 当時の野島の作家性の根幹には、弱くて無垢な存在を守りたいという気持ちと、そんな無垢な存在を汚して蹂躙することで支配したいという、相反する気持ちが同時に存在していた。

『聖者の行進』においては永遠たちを守るために工場長を訴える裁判を起こした音楽教師のももに前者の気持ちが、知的障がい者の従業員・水間妙子(雛形あきこ)にコスプレさせて性的虐待を繰り返す工場長の光輔に後者の気持ちが分裂して投影されていたのだが、ドラマとして興味深いのは光輔の在り方だろう。

表向きは地元の名士として振る舞いながら知的障がい者を虐待する光輔は、裏で次々と罪を犯す悪党だが、家族から距離を置かれて孤独を抱えているという哀しい過去を抱えていた。

その意味で光輔は単なる悪役では終わらない複雑な内面を抱えたキャラクターとなっており、ドラマの登場人物としてはとても魅力的だった。
しかし、この描き方は「犯罪者を美化するのか?」と反発を招くもので、現代においては描くことが難しいだろう。
このように『聖者の行進』は、あらゆる意味において令和現在の価値観とは相容れない歪な作品なのだが、だからこそ本作を観ると、現代のドラマに欠けているものがよく理解できる。

決して全肯定できる作品ではないが、当時の野島ドラマのもっとも濃い部分を浴びることができるという意味において、とても貴重なドラマである。


ライター:成馬零一
76年生まれ。ライター、ドラマ評論家。ドラマ評を中心に雑誌、ウェブ等で幅広く執筆。単著に『TVドラマは、ジャニーズものだけ見ろ!』(宝島社新書)、『キャラクタードラマの誕生:テレビドラマを更新する6人の脚本家』(河出書房新社)、『テレビドラマクロニクル 1990→2020』(PLANETS)がある。