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31年前に描かれた“今では作ることが難しい”高視聴率ドラマ… 人気脚本家の中で”もっとも異常だった”名作

  • 2025.5.21
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(C)SANKEI

1990年代に多くの高視聴率ドラマの脚本を手掛け、時代の寵児となった野島伸司だが、もっとも異常だったドラマは1994年に月9(フジテレビ系月曜夜9時枠)で放送された『この世の果て』ではないかと思う。

本作は都会の片隅で生きる砂田まりあ(鈴木保奈美)の物語。

まりあは自分が起こした火事が原因で盲目になった妹のなな(桜井幸子)の手術費を稼ぐために、昼は郵便局で働き、夜はホステスとして働いていたが、ある夜、ひき逃げにあった記憶喪失の男(三上博史)を助け、一緒に暮らすようになる。
一方、ななは、暴漢に襲われかけたところを三島純(大浦龍宇一)に助けられる。やがて二人は付き合うようになっていくが、実は純は顔に酷い痣がある青年で、ななに近づいたのは彼がコンビニ強盗を行った際に、顔を見られたと思ったからだった。

全てを捨てることが愛なのか? 

『君が嘘をついた』の三上博史、『愛という名のもとに』の鈴木保奈美、『高校教師』の桜井幸子が月9に集結した『この世の果て』は、野島ドラマのスター俳優が勢揃いした華やかなドラマとして放送前から注目が集まっていた。しかし、展開される物語は終始暗鬱としており、常軌を逸した展開が最後まで続く理解しがたい問題作となっていた。

第4話。謎の男の正体が著名なピアニスト・高村士郎だと知ったまりあは、士郎の妻に別れることと引き換えに手切れ金を渡せと交渉する。それは、ななの手術費に当てるために必要なお金だったが、土壇場でまりあは金の受け取りを拒否し、逆に妻たちの前で士郎の手に割れたガラス瓶の刃先を当てて、士郎の手を潰すと脅迫。その姿を見た士郎はまりあが持つガラス瓶を自ら手に突き刺し、ピアニストとしてのキャリアを捨て去る。 普通のドラマだったら、お金の受け渡しを妻が拒否するといったエクスキューズを用意したのではないかと思う。

しかし、そういった言い訳を用意せず、一番大事なものを捨てることでしか証明できない愛の深さを本作は真正面から描いている。この豪腕こそが当時の野島伸司の作家として強さだったと言える。

その後、まりあと士郎は再び同棲生活を送ることになるのだが、まともな就職先はない士郎は、ピアニストとしての人生を失ったことを嘆くようになり、次第にまりあに愚痴をこぼすようになっていく。そんな士郎を、まりあは優しく包み込み、何を言われても健気に支えようとする。しかし、まりあと神矢財閥の御曹司・神矢征司(豊川悦司)の関係を疑う士郎は、まりあを敵視するホステス・加賀美ルミ(横山めぐみ)に誘惑され、まりあから離れて彼女と暮らすようになるのだが、やがてルミに覚醒剤中毒にされてしまう。 物語は悲劇に継ぐ悲劇で、心の弱さから堕落していく士郎をまりあが必死でつなぎとめようとする共依存的な恋愛模様が、これでもかと描かれる。

ドラマの根幹にあるのは「真実の愛」とは何か?という宗教的探求だろう。

野島ドラマにおいてもっとも大事とされるのは「愛」で、劇中ではしばしば愛とお金(経済的安定)が対比される。

『この世の果て』においては「もしも世界が滅んで、たった一艘の船に自分以外の生き物を一匹だけ乗せられるとしたら、馬、孔雀、虎、羊、のどれを選ぶ?」という旧約聖書のノアの方舟のエピソードを下敷きにした心理テストに、この価値観が象徴されている。

この心理テストは、どの動物を選ぶかによって、その人が一番大事にしているかがわかるというものだ。 馬は仕事、孔雀はお金、虎はプライド、そして羊は愛情で、羊と答えた男だけが女性を幸せにできると劇中では語られるのだが、この質問の回答に各登場人物の人生観が現れていたのが『この世の果て』の面白さだった。

同時に野島が考える愛とは、地位、名誉、財産といった世俗の価値観を超えたもので、それらを全て捨て去ることによってしか手に入らないものだと彼が考えていることが、本作を見るとよく理解できる。

聖書を下敷きにした宗教的物語と尾崎豊の主題歌

タイトルの『この世の果て』とは、ルミに人生を狂わされたある男性が劇中で語る台詞に登場する言葉だ。おそらく「世界の終わり」や「圧倒的な絶望」といった意味が込められているのだろうが、全てを失った者だけがたどり着くことができる愛の終着点と解釈することもできるのではないかと思う。

ヒロインの名前が聖母マリアから取られていることや、ノアの方舟のエピソードを用いた心理テストが登場することを筆頭に、本作にはキリスト教の聖書を下敷きにした愛の受難を描いた物語となっている。

1998年のドラマ『世紀末の詩』でも「ノアの方舟」の物語を下敷きに「愛とは何か?」を探求する物語を野島は書いていた。90年代はロボットアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』やサイコサスペンス映画『セブン』など、聖書の引用が散りばめられた作品が多数作られていたため、野島の独自性とまでは言わないが、「愛と何か?」というテーマを追い求めた結果、物語に宗教的な熱狂が宿り、純度の高いドラマ性を生み出せたことは間違いないだろう。

主題歌は1992年に26歳の若さで亡くなった尾崎豊の「OH MY LITTLE GIRL」。デビュー直後の80年代は街角に佇む居場所のない不良少年たちという同世代の若者の代表だった尾崎は、92年に急逝して以降は、神格化され、教祖のような存在として独自のカリスマ性を獲得していた。 そんな尾崎の歌う物悲しい世界と野島ワールドの相性は抜群で、ひたすら辛い展開が続いた末にエンディングでかかる「OH MY LITTLE GIRL」を聴くと、堕ちてダメになっていくことを求める破滅願望が人間の奥底には存在し、それを描くこともまた、フィクションの役割ではないかと思えてくる。

ここまで破滅的な物語は、今では作ること自体が難しいだろう。 90年代の野島伸司だからこそ描けた、失うことでしか救われない者たちの墜落劇である。


ライター:成馬零一
76年生まれ。ライター、ドラマ評論家。ドラマ評を中心に雑誌、ウェブ等で幅広く執筆。単著に『TVドラマは、ジャニーズものだけ見ろ!』(宝島社新書)、『キャラクタードラマの誕生:テレビドラマを更新する6人の脚本家』(河出書房新社)、『テレビドラマクロニクル 1990→2020』(PLANETS)がある。