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30年前、日本中がまだ知らなかった“売れない大型新人” 後にJ-POPを変革する“声の才能”が静かに動き出した瞬間

  • 2025.5.13
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(C)SANKEI

1995年、日本中がまだ知らなかった“売れない大型新人”

「30年前の今頃、どんな音楽が流れていたか覚えてる?」

1995年といえば、J-POPはミリオンヒットが相次ぎ、B'z、DREAMS COME TRUE、trfらがチャートの常連に。阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件が社会を揺るがし、人々の心に漠然とした不安とともに、“癒し”や“真摯な言葉”が求められていた年でもあった。

そんな時代の空気の中、1995年5月13日にデビューしたのが、平井堅である。

後にJ-POPを変革する“声の才能”が静かに動き出した瞬間

平井堅——大阪生まれ、三重育ち。デビューシングル『Precious Junk』は、ドラマ主題歌としてタイアップされながらも大ヒットには至らず、当初の彼は、あまり大きな話題にはならなかった。

だが、耳にした者を一瞬で惹き込む“あの歌声”は、確かにそこにあった。

R&Bとポップスが融合したような独特のグルーヴ、柔らかくも力強いファルセット、高音での透明感と低音の温かみ。そのすべてが、当時のJ-POPの主流とは少し違っていた。

一見、流行とは無縁のようにも思えたスタイル。しかし、それがやがて、リスナーの“心の奥”に静かに届いていくことになる。

なぜ平井堅の音楽は時代に受け入れられたのか?

1990年代半ばの日本では、音楽は“消費される娯楽”として加速していた。一方で、心に長く残る“本物の声”を求める動きも、確実にあった。

平井堅は、その“本物”を内包していた。

彼の楽曲は、派手なアレンジに頼らず、丁寧に編まれたメロディと、研ぎ澄まされた歌唱力が主役。初期はあまり注目されなかったものの、音楽番組でのパフォーマンスが徐々に注目を集めるようになった。

そして2000年、5年越しのブレイクを果たす『楽園』のヒットへとつながっていくが、その礎はまさに1995年に築かれていた。

“自分の音楽”を信じ続けた、異端のポップスター

平井堅のキャリアは、当時のJ-POPとは異なる文脈で成り立っている。

大衆に媚びず、テレビにも頻繁に出ない。“飾らない”というより、“削ぎ落とした”存在感。だがそれが逆に、J-POPの中に“静けさ”という新しい空気を持ち込んだ。

1995年という時代は、CDの売上至上主義やビジュアル重視の傾向が色濃く残る時代だった。その中で、歌を中心に勝負する平井堅のスタンスは、ある意味“挑戦”だったとも言える。

しかし、それでも歩みを止めなかったことが、彼を“J-POPの本流”に押し上げる原動力になったのだろう。

30年経っても変わらない、“声”の強さ

平井堅がデビューしてから30年が経った今でも、その歌声はまったく色褪せていない。時代やトレンドが変わっても、“声で魅せる”という本質は、今もなお彼の音楽の核にある。

そして1995年のあの日、誰にも知られず静かに始まったその一歩が、のちに“誰もが知る声”になる——。

その軌跡こそが、平井堅というアーティストの魅力であり、J-POPの歴史に刻まれるべき“静かな衝撃”なのかもしれない。


※この記事は執筆時点の情報です。