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悪人を劇中で裁けば、“現実”は解決するのか?『DIGGER/ディガー』の“ゆらぎ”がもたらす余波【小説家・榎本憲男の炉前散語】

  • 2026.11.4

小説家で、映画監督の榎本憲男。銀座テアトル西友(のちに銀座テアトルシネマ)や、テアトル新宿の支配人など、映画館勤務からキャリアをスタートさせた榎本が、ストーリーを軸に、旧作から新作まで映画について様々な角度から読者に問いかけていく「小説家・榎本憲男の炉前散語」。第20回は、『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(14)でアカデミー賞作品賞を受賞したアレハンドロ・G・イニャリトゥ監督が、トム・クルーズとタッグを組んだオリジナル最新作『DIGGER/ディガー』(公開中)をピックアップ。世界中で賛否両論を巻き起こし大きな話題を呼んでいる本作だが、その要因はどこにあるのか。映画の構造に注目しながら、ネタバレありで『DIGGER/ディガー』の表現の核心に迫ります。

【写真を見る】群衆の反応が大袈裟だったり、マネキンが参加していたりと、戯画的に描かれる“欧州会議”

※本記事は、『DIGGER/ディガー』のネタバレ(ストーリーの核心に触れる記述)に該当する要素を含みます。未見の方はご注意ください。

デイヴィッド・ロックフェラーを思わせる主人公像

タイトル『DIGGER/ディガー』にある“ディガー”は人名です。石油の掘削から身を興した大富豪の名としてはあまりにもハマりすぎていて、最初はニックネームかなと思ったのですが、堂々とディガー・ロックウェル(Digger Rockwell)と紹介され、配給会社からもらったプレスシートにもあだ名やミドルネームだという注記はありません。

ともあれ、本作は、ディガー・ロックウェル(クルーズ)を語り、評価しようとする映画です。ただ、この映画は、巧妙でかなり奇抜な語り方をしており、そのことが作品に不可思議な“ゆらぎ”を起こしています。そして、その“ゆらぎ”にこそ表現の核心があります。本作に対する批評は、この“ゆらぎ”を伴う語りに集中し、評価は、この手法が功を奏しているかどうかで割れているようです。では、物語を追っていきましょう。

愛猫マギーの衰弱を受け入れられないディガー [C] 2026 WBEI and Legendary
愛猫マギーの衰弱を受け入れられないディガー [C] 2026 WBEI and Legendary

冒頭で、豪華な寝室で朝を迎えたディガー・ロックウェルは、愛猫マギーをやさしくいたわるのですが元気がありません。かけつけた獣医が、年齢も年齢なのでもうそろそろ死期を覚悟したほうが、と助言すると、ディガーはこの高名な獣医を即刻クビにしてしまいます。また、グリーンランドの採掘現場からの耳の痛い報告をする現場監督にもクビを仄めかす。すると相手は、「ではもうすこし調査します」とか、「可能性が……」などという言葉を口にしてぼやかしてしまいます。どうやらこの石油王は、いつもこのような手を使って、自分の耳に心地よいレポートだけを聞くよう仕向けているようです。

ところが、ここに環境安全責任者であり、科学者でもあるガネシュ(リズ・アーメッド)が現れ、ディガーが石油採掘をあまりに大胆にやりすぎたことによって、巨大な棚氷がグリーンランドから剥がれ、ものすごい勢いでヨーロッパ大陸に突き進んでおり、このままいけば大惨事になると断言するのです。こうなるとディガーもこの現実に対処しなければならなくなります。まず彼は大統領(ジョン・グッドマン)とその閣僚を自宅に呼び寄せます。でも、これはちょっと奇妙ですよね。「いやはや大変なことになりました」とホワイトハウスに飛んでいくのならともかく、国家元首を自宅に呼びつけるなんて。このくだりを見て僕は、「ははあ、ディガー・ロックウェルはデイヴィッド・ロックフェラーのパロディなのだな」と思いました。

大富豪ロックフェラー家の第3代当主、デイヴィッド・ロックフェラー [c]Everett Collection/AFLO
大富豪ロックフェラー家の第3代当主、デイヴィッド・ロックフェラー [c]Everett Collection/AFLO

デイヴィッド・ロックフェラー。スタンダード石油を設立した、石油王ジョン・D・ロックフェラーの孫。政財界に巨大な影響力を持ち、大統領や各国首脳とも直接交渉するような人物でした。外交問題評議会(CFR/米外交政策に強い影響力を持つ超党派シンクタンク)議長、三極委員会創設者、チェース・マンハッタン銀行会長などを務め、国際金融・外交・政財界に隠然たる、しかし強力な影響力を及ぼしていました。「ロックフェラー回顧録」(デイヴィッド・ロックフェラー/著 、楡井浩一/訳)には、我こそが国際社会のリーダーなのだという自負(というか憍慢というか)が溢れています。また、ロックフェラーは慈善事業にも積極的に取り組むことでバランスをとっていたようにも感じます。『DIGGER/ディガー』では、異母妹のエマ(ザンドラ・ヒュラー)がディガーの石油とは正反対に、再生可能エネルギーの会社を経営していますが、彼女の会社が完全にディガーのコントロール下にあるのは、バランスを取るための“意図的な両天秤”にちがいありません。

序盤で明かされる、本作の特異な構造

さて、ロックウェル邸に到着した大統領をはじめとする閣僚たちは、ガネシュの説明に真剣に向き合わず、勝手なことばかり言い出します。ミサイルで破壊すれば問題ない、などと将軍が放言するのはまだしも、ディガーなどは、万が一大惨事になってしまったら、ファイアウォールを使って(本来はネットワークを不正アクセスなどから守るセキュリティ技術)世論が沸騰しないように言論空間を封鎖すればいい、とまで放言します。このファイアウォール(本作では情報遮断・検閲を包括的にそう呼んでいる)が自動的に削除する単語の中に、『不都合な真実』(06)で有名な元大統領候補「アル・ゴア」が入れられるのを聞いた僕は、思わず吹き出しつつ、「そうかこの映画はブラックコメディとして見るべきなのだな」と思い、「しかし、それにしても芝居がやたらと大袈裟でクサい」とすこしシラケはじめました。このあと、大統領とディガーが二人きりになり、肩を並べて窓の外を眺めていると、目の前の巨木がゆっくりと倒れます。その時、巨人が現れてその木をつまみ上げたかと思うと、木の倒れるタイミングについての駄目出しの声が聞こえる。倒れた樹木はミニチュアで、巨人と思えた男は美術担当者、そしてクレームの主は演出家のハンナ(ソフィー・ワイルド)でした。そうです、ここまで私たちが見ていたのは演劇だった。ディガー・ロックウェルを主人公にした舞台劇のリハーサルだったのです。

ジョン・グッドマンが演じたコンプソン大統領 [C] 2026 WBEI and Legendary
ジョン・グッドマンが演じたコンプソン大統領 [C] 2026 WBEI and Legendary

これによって、作品冒頭の、ディガーの部屋のカーテンが舞台の緞帳のように下から上に巻き上げられて開いたことも、俳優達の大仰な芝居も理解できました。ただ、ちょっと変なのは、舞台劇そのものは、観客席から見る限り視点が固定されるのに、本作では映画ならではのクローズアップやリバースショットがふんだんに用いられていることです。さらにシーンの切り替わりも妙です。映画は軽々とシーンを切り替えられますが、舞台装置であそこまでのことをはたしてやれるのか、と首を傾げたくなります。つまり、『DIGGER/ディガー』の劇中劇内の映像は、映画的映像とセットの中で演じられる演劇を撮ったものの中間(よりもやや映画より)を狙っていると考えるべきでしょう。「演劇と映画の二人の神に同時に仕える」とイニャリトゥ監督は宣言しています。ただ、このマニフェストを受け入れられるかどうかによって、この映画に対する評価も分かれる気がします。

ディガーの目覚めた部屋は、演劇のセットだった [C] 2026 WBEI and Legendary
ディガーの目覚めた部屋は、演劇のセットだった [C] 2026 WBEI and Legendary

『DIGGER/ディガー』の中で生じている“ゆらぎ”とは

この舞台劇を作る側の世界も徐々にわかってきます。ディガーを演じていたのはカーティス・マークソンという俳優であり(なのでトム・クルーズは一人二役)、彼はこの役が掴めずに悩んでいます。ハンナの演出によるディガー像に馴染めないのです。大きく言うとカーティスはもっとリアルに演じたい。そうしないと「役が遠く」感じられる。しかし、演出家のハンナはカリカチュアライズしたディガー像を捨てようとはせずに、「私を信じて」とカーティスを説き伏せようとします。言ってみれば、ディガー・ロックウェルという男についての語り方において、二人の間でズレが生じ、それはこの舞台劇に“ゆらぎ”を生み、引いては本作『DIGGER/ディガー』にも“ゆらぎ”をもたらしているのです。

劇中劇の主人公像が棚上げされたまま、リハーサルは再開されます。ディガーは、自らの大不祥事をチャンスに変えて、自分を救世主として売り込むためにガネシュを連れて欧州会議に向かいます。ここでディガーは方針を転換し、現実を自分の都合のいい物語へと書き換えることを目論むのです。欧州会議で演台の前に立ったディガーは、いったんは責任を認める態度を見せたものの、「しょせんこの世の中、俺が安い石油を売ってやらないとどうしようもないんだよ」とばかりに居直りだし、ヨーロッパをはじめとする消費社会に責任を投げ返します。議場は荒れに荒れ、カオス状態になる。ディガーはその混乱を利用して、責任追及の場から逃げ出します。

【写真を見る】群衆の反応が大袈裟だったり、マネキンが参加していたりと、戯画的に描かれる“欧州会議” [C] 2026 WBEI and Legendary
【写真を見る】群衆の反応が大袈裟だったり、マネキンが参加していたりと、戯画的に描かれる“欧州会議” [C] 2026 WBEI and Legendary

ところが一難去ってまた一難、ショックで酔い潰れたガネシュから聞かされたのは、新たな巨大氷山が発生し、今度はアラスカ方面へ向かっているという、耳を疑うような凶報です。しかし、このような事態でも将軍は、科学者のガネシュが無駄だと警告しているにもかかわらず、ミサイルで爆破してしまえばよいと平然としている。大統領は攻撃を承認し、爆撃機が棚氷にミサイルを打ち込む、その時、演技中のカーティスがブチ切れる。

カーティスはハンナの演出への不満をぶちまけます。しかし、これに対してハンナは、あんな悲惨な出来事を体験した私たちには、風刺的な笑いによる解毒が必要なのだ、と主張します。つまり、この20年ほど前に初演された「化石の愚者」(Fossil Fools)の主人公ディガー・ロックウェルは実在の人物で、劇中の事件は実際に起きたことだったのです。そして、その惨事を引き起こした愚かさを笑うことで、ハンナは人々の心に刻み込まれた傷を癒そうとしていることがわかります。つまり、ここでの演出家と俳優の意見の相違は、たんなるテキストの解釈をめぐってのものではなく、自分たちの歴史をどのように語り続けるかを起点とする“ゆらぎ”なのです。

先祖のスコップを自慢気に見せつけるディガー [C] 2026 WBEI and Legendary
先祖のスコップを自慢気に見せつけるディガー [C] 2026 WBEI and Legendary

この混乱を調停しようと、客席からリハーサルを見守っていた関係者一人が立ち上がります。あらすじ紹介では省略してしまいましたが、このケニー(ジェシー・プレモンス)の姿は序盤からちょくちょく見かけたものの、その素性は明らかにされていませんでした。ここではじめて彼がロックウェル家の一員であり、ディガーの甥っ子であることがわかる。ケニーがこの戯曲の上演権を買い取り、ハンナを演出家として起用したことも。ということは、彼は、この劇の語り方を決定するパワーを持った男だと言うことです。だけど、ケニーにとってそんなことは「どうでもいい」のです。「あんな事件は苦い笑いでコーティングしないと耐えられない(大意)」というハンナの涙ながらの訴えなどどうでもよく、彼女に演出を頼んだのも「ヒップだと思った」にすぎないと言います(大変失礼な物言いです)。

ディガーの甥ケニーを演じたジェシー・プレモンス [c]Everett Collection/AFLO
ディガーの甥ケニーを演じたジェシー・プレモンス [c]Everett Collection/AFLO

では、彼の狙いはどこにあるのでしょう。これは難しい。ケニーは、言葉の上では、伯父を善人だと主張するつもりはないと言う。憎まれても非難されるのも結構。ただ伯父のディガーを皆の記憶にとどめたいから上演権を買ったのだと説明します。これを言葉通りに受け取るのは危険ですね。大衆の怒りを芸術的カタルシスへ変えて無害化を狙っている可能性だってあるでしょう。そう思えば、ハンナのような笑いによって毒性を弱める演出はケニーに取って都合がいい。さらにケニーは通信事業をやっていて、行方不明になったカーティスの娘の居所を電話番号一つで突き止められる男として描かれています。ということは、「過去の悪役ディガー」を観客に見せることで、監視社会という現在の構造的問題から人々の目をそらさせて利益を得ている可能性も考えたほうがいいかもしれません。ただ、ここにも決定的な解釈はない。なので本作の“ゆらぎ”はかなり大きなものとなります。

“ゆらぎ”とダイナミクスを両立した物語

このような方法を取ると、作品のムードは知的で深くなりますが、物語の迫力はゆらぐぶんだけ落ちてしまいます。“ゆらぎ”を与えつつ、物語をダイナミックに語りきった作品として僕が思い出すのは「本格小説」(水村美苗)という小説です。この物語の骨子は「嵐が丘」(エミリー・ブロンテ)と酷似しています。富裕な宇田川家の娘よう子と、「孤児」として育てられた東太郎のラブストーリーを、三人の話者が語る。まず、“私”(著者自身が東太郎と関係があった)が語り、“私”の前に現れた青年が語り、その青年が語るのは、ふたりの恋愛をずっと見つめ続けた「女中」のふみ子の話でもあるという入れ子構造になっている。当然、視点が変わることによって、物語はゆらぐ。しかも「本格小説」では、作者自身まで語りの層に入り込むため、そのゆらぎは「嵐が丘」よりさらに複雑になります。

マーゴット・ロビー、ジェイコブ・エロルディらを迎えた劇場版最新作が公開されたことも記憶に新しい「嵐が丘」 [c]Everett Collection/AFLO
マーゴット・ロビー、ジェイコブ・エロルディらを迎えた劇場版最新作が公開されたことも記憶に新しい「嵐が丘」 [c]Everett Collection/AFLO

「嵐が丘」は、ヒースクリフの所有となったリントン家の間借り人ロックウッドの独白によってはじまり、メイドとの対話を挟み、やがてそのメイドの回想へと移行しつつ、物語が紡がれるという構成をとっているので、ここは「本格小説」と似ています(「本格小説」が「嵐が丘」に似ていると書くべきですが)。ただ、「嵐が丘」の作者は作品内には一切登場せず、物語世界の外側に立ち、そこから全体の語りを司っています。しかし、このようなゴシック・ロマンス的な物語をそのまま書けば、現代ではあまりに「小説らしく」なり、かえって嘘くさくなりかねません。そこで水村美苗は、アクロバティックな語りの手法で“ゆらぎ”を導入することによって、本格的な小説、小説らしい小説を現代で語りきることに成功したのです。

幕が下りても消えない余波

『DIGGER/ディガー』に話を戻しましょう。ディガーとその一族は洋上に追放されて、ディガーは海に身を投げる。極悪人の死に、場内に快哉と拍手が起きる。舞台裏では、カーティスをはじめとする出演者も好評を喜び、ケニーもご満悦です。不思議なハッピーエンドだなと思ったその時、警報が鳴り、「レベル4」とアナウンスされます。すると観客が次々とフルフェイス型の防毒マスクを被りはじめ、そのまま戸外へと向かう。外にカメラが切り替わると、街の一部が水没し、防護服を着た軍が巡回する荒廃した風景が広がっていて、ここでもう一度世界がゆらぐ。さらにアメリカのシンガーソングライター、メラニー・サフカの能天気な「Look What They've Done to My Song, Ma」が流れるけれど、この対位法によってこの歌詞の意味もゆらぐ。「ねえ母さん、私の歌こんなふうにされちゃったわ」(筆者による意訳)は演劇のことでもあり、この世界のことでもあるようです。

ディガーは劇中で最期を迎えるが、“現実”は続いていく… [C] 2026 WBEI and Legendary
ディガーは劇中で最期を迎えるが、“現実”は続いていく… [C] 2026 WBEI and Legendary

「ディガーをどう語るべきか」という問いは、最後に「悪人を物語の中で裁けば、現実を理解したことになるのか」へ変わる。舞台劇「化石の愚者」はディガーの死をもって幕を閉じるけれど、劇場の外では、彼が残した世界は終わっていない。映画は最後の最後に、観客が得たはずのカタルシスにまで“ゆらぎ”を与えるのです。

文/榎本 憲男

参考資料:

柴田庄一「『本格小説』(水村美苗)における「語り」の構造―表象の自由と読者関与の可能性をめぐって―」

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