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瀬々敬久監督、『SUKIYAKI 上を向いて歩こう』に至る映画人生…ピンク映画から自主制作まで「映画や文化は、平和のためにある」

  • 2026.10.31

世界各国から東京国際映画祭に集う映画人たちの交流の場「交流ラウンジ」。第39回東京国際映画祭の会期中となる10月30日、東京ミッドタウン日比谷のLEXUS MEETS...で「TOKYO TALK:瀬々敬久マスタークラス」が開催され、瀬々敬久監督が登壇。これまでの映画人生を振り返りながら、作品に込める想いや映画作りへの情熱、映画館で映画を観ることの意義などを語った。聞き手は、映画ジャーナリストの金原由佳が務めた。

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1989年に『課外授業 暴行』で商業映画の監督としてデビューして以降、数多くのピンク映画を生み出してきた瀬々監督。1997年ころからは劇場用長編映画のフィールドでも活躍の場を広げ、本年の東京国際映画祭オープニング作品『SUKIYAKI 上を向いて歩こう』(12月25日公開)に至るまで、驚異的な作品群を職人的な手腕で送り出し続けてきた。スタジオシステム崩壊以降の日本映画界で絶え間なく映画監督として仕事を続け、いまや重厚な人間を描く名匠として作品を生み出している。

「TOKYO TALK:瀬々敬久マスタークラス」が開催された
「TOKYO TALK:瀬々敬久マスタークラス」が開催された

瀬々監督は1960年、大分県に生まれ、映画館が身近にない環境で育った。高校時代に、大林宣彦監督の『EMOTION 伝説の午後=いつか見たドラキュラ』(66)や、原將人監督の『おかしさに彩られた悲しみのバラード』(68)といった自主制作映画が紹介されているテレビを観て、「これはすごいなと思った。僕がこれまで観ていた映画とは違う文法でできている。実験的で、すごく惹かれた」と映画に魅了された原点を回顧。さらに当時は「日本映画が不景気で、撮影所では助監督を育てられなくなっていた」とスタジオシステムが崩壊したことで、「一気に、学生が商業映画を撮れるような時代に突入した」と時代背景を説明。若い監督たちが意欲的な映画を生み出している勢いを知り、「これからは映画だ。映画を作ってみたい」と心を突き動かされたと語る。

映画に魅了された原点を回顧
映画に魅了された原点を回顧

京都大学文学部哲学科に入学後は、映画部に入部。学校や世代を超えた「自主上映運動が盛んだった」といい、映画を通して個人と個人がつながる場所がいろいろとあったと語る。またバイトをしていた映画館、京一会館では「ある週は小津安二郎を上映、ある週はピンク映画、ある週はヴィスコンティを上映、ある週はロマンポルノといったように、隔週でいろいろな映画を上映していた。ロマンポルノにもいい作品はあるし、映画に格差をつけない。全部をごちゃ混ぜに観せるような、映画館。そこでの経験も、自分に深く影響を与えてくれた」と刺激的な大学時代を懐かしんだ。大学時代には8mm映画を経て16mm映画も作り、ぴあフィルムフェスティバル(PFF)に応募して落選したことがあるとも。「それから東京に来て、ピンク映画の助監督を始めた」と上京までの道のりを辿った。

「ピンク四天王」と呼ばれるようになった当時を笑顔で振り返った
「ピンク四天王」と呼ばれるようになった当時を笑顔で振り返った

上京した当時、ピンク映画界には特別な活気があった。高橋伴明監督や周防正行監督、廣木隆一監督らが活躍した当時のピンク映画について、瀬々監督は「製作費300万、4日間で製作する。エロスシーンがあればなんでもいい。映画を観ると、監督が好きなことをやっているなというのが、如実に伝わってきた。おもしろい作品がいっぱいあった」と紹介。「上京して獅子プロダクションに入り、最初は滝田洋二郎監督の助監督をやりました。給料は薄給で、ブラック企業のよう(苦笑)。でもやっているとおもしろい。仲間もできて、楽しくて、続けていった」と笑顔を見せた。

助監督を経験後、『課外授業 暴行』で商業映画監督デビューを果たした。ピンク映画時代、精力的に作品を生み出した瀬々監督だが、聞き手の金原は、『終わらないセックス』(95)や『黒い下着の女 雷魚』(97)など、強い女性像を描いた作品も印象的だと述べた。

瀬々監督は「森崎東監督作品が大好きで。森崎監督の映画では、倍賞美津子さんがすごく強い女性を演じていました。そういう影響はあったと思います。また90年代初期くらいから、性差を超えて自分を主張する時代感覚があった。時代の空気感を感じた部分もある」と吐露。佐藤寿保監督、サトウトシキ監督、佐野和宏監督とともに「ピンク四天王」と呼ばれるようになったことに話が及ぶと、「あるピンク映画館の人たちが、僕ら4人のことが大嫌いで。『この人たちの映画を上映すると、映画が難しいし、お客が怒って帰る。難しくて、エロスが少ない』と言われて。評判の悪い、マイナスのイメージから始まった」というが、東京のアテネ・フランセにおける連続上映会、ロッテルダム国際映画祭をはじめ海外でも評価を受けるなど、次第にその作家性が認められていったと明かす。90年代は「いま考えれば、楽しかった。そこには個々人の自由があった」と語り、大学時代と同じように、人と人をつなぐ大切な場所があることを実感できた時代だったと表現していた。

ジャンルや制作形態の垣根を越えて作品を撮り続け、キャリアを積み重ねてきた
ジャンルや制作形態の垣根を越えて作品を撮り続け、キャリアを積み重ねてきた

1997年公開の『KOKKURI こっくりさん』で、初めて一般映画を監督。その後も商業映画、自主映画、ピンク映画など、ジャンルや制作形態の垣根を越えて作品を撮り続け、キャリアを積み重ねてきた。4時間38分に及ぶ大作『ヘヴンズ ストーリー』(10)は大きな話題を呼んだが、同作も完全自主制作で完成させている。

「商業映画って辛いことも多いわけです。自由度もないなかで、なんとかやっていかないといけない。何本かやっているうちにもう一回、出直す気分で撮らないとまずいんじゃないかという気持ちがあった。商業映画的なものと違うやり方でやらないと、自分としてはまずいんじゃないかという焦り、切迫感が生まれて、挑戦しようと思った」と『ヘヴンズ ストーリー』に取り掛かったころの心情を打ち明けた、瀬々監督。同作では、家族を殺された幼い娘、妻子を殺された若い夫を軸に、加害者家族と被害者家族、復讐と救いを描いた。善悪では割り切れない人間の業や、感情の機微を掬い取るという姿勢も、瀬々監督の作品に一貫して流れている。「白黒をつけるのはあまり好きじゃない」と切り出した瀬々監督は、「世の中には、悲しいことも悲惨なこともある。その裏にはなにがあるんだろうと、知りたい気持ちが大きい。そこから、社会そのものを知ることができるような気がしている」と自身の人間や社会に対するまなざしを語る。

今後、取り組んでみたいテーマは?
今後、取り組んでみたいテーマは?

今年の東京国際映画祭のオープニング作品に選出された『SUKIYAKI 上を向いて歩こう』(12月25日公開)、塩田武士のミステリー小説を映画化した『存在のすべてを』(2027年2月5日公開)など、今後も話題作の公開が控えており、精力的な活動を続けている。

さらに取り組んでみたいテーマを聞かれると、高橋伴明監督が1970年代の連続企業爆破事件で指名手配された“東アジア反日武装前線"メンバー・桐島聡の軌跡を映像化した『「桐島です」』(25)や、松下竜一による長編ノンフィクション文学「狼煙(のろし)を見よ 東アジア反日武装戦線“狼”部隊」を例にあげながら、「いつの日か、そういう内容を撮りたいとは思っている。いまの時代にそういう内容を撮るとしたら、時代性とのマッチングをどうするかが悩み」と話す。ポール・トーマス・アンダーソン監督が元革命家を主人公にした『ワン・バトル・アフター・アナザー』(25)のように、いま描くべき「切り口を見つけないといけない」と思案していた。

【写真を見る】「TOKYO TALK:瀬々敬久マスタークラス」の様子
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また、会場からの質問に答える場面もあった。「映画の視聴環境の変化についてどのように感じるか?」と尋ねられた瀬々監督は、自身も配信で映画を観ることもあると前置きしつつ、「映画館が好き。映画館で映画を観ることは、体験だと思います。同じスクリーンを通して、いろいろな人と共通の気持ちを持って映画を観る。それは特別な行為。いまでも大切にしたい」としみじみ。続けてチームづくりの話になると、「いまは飲みにも気軽に誘えない」と時代の変化のなかで苦労することもあると率直に語り、「基本的にうまく立ち回れるタイプではないので、ヘマをやってもしょうがないと思われながらやっていくのがいいかなと。カッコつけてもしょうがない。人間的にやるのが一番いいなと思っている」と飾らない人柄をのぞかせた、瀬々監督。トークの随所に熱い映画愛をにじませていたが、締めくくりには「映画や文化は、平和のためにあると思っている。こういう会が平和につながればいいなと思います。映画祭で映画を観たり、いろいろな人と出会って、楽しんでいただけたら」と願いを込め、大きな拍手を浴びていた。

取材・文/成田おり枝

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