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江本純子×鈴木みのり、マイノリティが安心して観られる作品を目指して──『真夜中に寂しくなったときに観たい演劇』

  • 2026.10.13
(左から)江本純子、鈴木みのり クランクイン! 写真:波場木えみり width=
(左から)江本純子、鈴木みのり クランクイン! 写真:波場木えみり

「自分がこの世にいないような寂しさを感じる時に観たい作品がなかった」と言う江本純子。まわりが楽しんでいる時にも、マイノリティは同じように安心して笑ったり泣いたりすることができない。であれば、レズビアンに向けた最高にパワフルなエンターテインメントを作ろうとうまれたのが『真夜中に寂しくなったときに観たい演劇』だ。2025年に初演し、リクリエーションにより舞台芸術祭「秋の隕石2026東京」にて再演される。作・演出・出演の江本と、小説執筆や性の政治をめぐる視点から文化芸術の批評も書いてきた鈴木みのりに、性的マイノリティにとっての表象とその創作について語ってもらった。

【写真】江本純子、鈴木みのり、インタビュー撮りおろしショット

◆劇場は誰でも来られる場所であってほしいのに

――江本さんが初演の時に言われていた、「真夜中のような寂しさ、まるで自分がこの世にいないような寂しさをなんとかしてくれそうな演劇を、自分でも描かないといけないと思った。レズビアンとして」というようなことが印象的でした。

江本:映画やドラマはマジョリティの客層に向けて作られているんですよ。レズビアンが出ていてもただの材料でしかない。だから私は逆に、レズビアンという性的マイノリティが寂しさを感じない作品を作りたいと思ったんです。

鈴木:2010年代半ばから「LGBT」、2020年代には「クィア」という言葉が広まってきて、演劇・舞台芸術とも通じる映画やテレビドラマではBLや、最近だとGLといった「ジャンル」として同性愛が表象される傾向が強いですよね。でも、ほんの少し前まで「おかま」「オネエ」「女男」「おなべ」といった言葉と共に、メディアや、演劇でも揶揄や蔑視まじりで表現されてきた。なのに、今はそういった歴史はなかったかのように、あくまでマジョリティ向けの消費物として同性愛や性別移行の物語が扱われている傾向も少なくないですよね。

江本:そういった作品の多くについて「Bury Your Gays(ベリー・ユア・ゲイズ/※性的マイノリティの登場人物が不幸になる物語の意)」とはよく言われますが、まさに性的マイノリティは物語の材料になっている。マジョ観客はなにも考えず「面白かったね!」と楽しんで忘れることができるけど、性的マイノリティ側は明日以降も考え続けなきゃいけない。

鈴木:さらに、そのマジョリティの人たちだけでなく性的マイノリティである人たちのなかにすら、ジェンダーやセクシュアリティといった言葉が何を指しているかもわかっていない人が多いと思います。「クィア」という言葉は単に性的マイノリティの言い換えじゃない。でも、なんとなく使われ続けている風潮にもあまりよくないものを感じていて、わたしは、近年はカッコに括って使ったり、こうして注釈をつけて話すようにしたりしています。だから話が長くなっちゃう(笑)。異性愛と、性別移行をする必要もなければ性別違和も感じないシスジェンダーを「当たり前」「正常」とする社会で「おかしい」「異常」とされ、機会や権利を奪われてきた人たちを生む社会を問い直す、政治的な言葉であるはずで、政治や、教育・福祉が不足するのを補い合うコミュニティや、そういう格闘の歴史と不可分。だからこそ、まさに「クィア」である状態は「Bury Your Gays」のように不幸であるか、あるいは笑いや見下しの対象となる立場と見なされる現実を、「明日以降も考え続けなきゃいけない」。そのアイデンティティは消費物ではなく、日常であり、その日常にたくさんの困難や障壁や、政治課題もある。同時に喜びや快楽も怠惰もあるはずなのに、ポジティブさや無意識な状態とは切り離されている。

江本:わかります。だからこそ、性的マイノリティが観終わった後に忘れてもいいエンターテインメントを作りたいんですよね。むしろマジョリティの皆さんには、観劇後に忘れられず、自分には特権的なところがあるんだという自覚を持ち帰って悩んでみてほしいです。

鈴木:イケイケドンドン可視化するぞと雑に「LGBT」や「クィア」といった言葉が使われまくって、これらの言葉が広告のコピーのように広められるなかで、マジョリティの「わあ、自分はなんて無自覚だったんだ。反省しなきゃ。シュン」みたいなのに、マイノリティ側が付き合って、聞き役や赦し役になる必要はないと思います。

――性的マイノリティである人たちが消費されないエンターテイメント作品が少ないと、劇場に足を運びづらくなってしまいますよね。

江本:それが課題なんですよね。(新宿)二丁目に行くと、そこにはレズビアンとしての存在や欲望が阻まれないコミュニティがある。そのなかには「劇場はいろんな人がいるから行きたくない」と言う人もいます。劇場は誰でも来られる場所であってほしいはずなのに、劇場に行くと自分の欲望を阻まれたり、晒し者になっていると感じる、と。

鈴木:既存の「劇場」や「演劇」が性的マイノリティを阻んでいるというのは事実だと思います。「ゲイであることを公にするな」「トランスジェンダーの俳優はこの役をやるべきではない」「女性同士の恋愛を扱う作品は観客に受けない」といった反応は容易に想像がつきますよね。一般的にも、社会参加の条件、人的ネットワーク、文化的表象、情報、教育、居場所、コミュニティ形成のための居場所や言葉・言説構築といった点で、マジョリティと比べて、アクセスが阻まれている。だからこそ創作するにしろ消費するにしろ、制約があるんですよね。そもそも作り手や観客として想定されていない。

江本:それなのに私は「この舞台をレズビアンの人たちに観てほしい」なんて考えているんです。

鈴木:「クィア」や「LGBT」はもちろん、レズビアンという呼称も、自己発見のためのカテゴリーであるだけでなく、こうした社会的弱者を生み出している構造・システムを記述するための言葉ですよね。演劇は、身体自体がその記述の言葉になり得るところがおもしろいと思う。観ただけで「あ、レズビアンでも演劇作っていいんだ、楽しんでいいんだ」とかね。江本さんの過去作品から、今回の「レズビアンとして」「レズビアンのために」という切り口でも、そういった面でも楽しみです。

◆レズビアンの身体と視点でエンタメ作品をつくる

――初演時には「レズビアンの人に観てほしい」とは明言されていませんでしたね。

江本:再演にあたって明確にしました。初演では、観客席にいるマジョリティに対して「マイノリティはこうなんだよ」と説明するような言葉やシーンがけっこうあったんですが、再演ではレズビアン用語も説明なく使っています。この劇世界の中ではレズビアンがレズビアンでいることが当然の社会として描いています。

――説明を省いて具体的な名称やエピソードが増えていますね。

江本:そうですね。たとえば「セックスしたい」とストレートに出しているシーンでは、初演では「ただヤリたい人にしか見えないかもしれない」から、なぜこの人にとってセックスが大事なのかを描こうとしていたんです。だけど本当に重要なことは、セックスをすることじゃなく、なににも阻まれずに欲を表現できる状態があるかどうかなんですよ……という説明を今回は省いています。

鈴木:異性愛が前提・規範になっている社会で、性的マイノリティである個人にとっての「セックスがしたい」は、実は社会的に不可視化されているからこそ脅かされている親密さや所属や安全をめぐる感情と深く結びついていて、自己形成や自己確認のプロセスだったりしますよね……それがどんなに下世話な、「ヤリたい」っていうストレートな「欲望」の言葉であっても。ただ、説明的であることが、マイノリティである観客にとって気づきや言語化の機会になる場合もありますよね?

江本:それは私もこの作品を作ったことで自覚しました。私自身は「恋をしたい」とか「レズビアンである」ということをガンガン言っていきたいのに、なぜか言っていなかった。「それを言いたいんだ」という欲求すらも阻まれている状況がストレスなんだということを、ずっと言語化できていなかったんです。阻まれている、というと他責に聞こえるかもしれないですが、「そもそも阻まれてると感じていることが妥当なのか」を考えるための事例さえ社会に見つけられないんだと気づいて、私は堂々とその社会のせいにするようにしています。

鈴木:性的マイノリティ、特に、人口1%以下と言われていてその実態調査もまだまだ進んでいないトランスである人々は、自分のありようが自分個別の問題なのか、社会的構造でそうなっているのかが、相対化して判断するのが難しいと思います。そうして自責に向かったり、場合によってはネオリベ的自己責任論に向かう傾向も少なくない。

江本:私の経験ですが、パートナーが手術室に入ることがありました。その時、ご家族が医師に私のことを「親戚です」と紹介したんですね。あまり気にしないでおこうと思ったんですが、頭で処理するより先に身体が反応してしまって、涙をこらえるような状態になっていたんです。彼女が無事に手術を終えるまで、私はほとんどそのことしか考えられなかった。

今作の中にも、同様の状況をフィクションとして描いたシーンがあります。それはマジョからすると、「なぜ彼女の命をまず気にしないで、自分のアイデンティティのことしか考えられないの?」と取られかねない。でも、本当は悲しんだり喜んだりしたいのに脅かされ、自分のアイデンティティを守ることを優先せざるを得ないくらい、マイノリティのアイデンティティをぐらぐら揺らしてくる社会がクソなんじゃないかって、私は言いたいんですよ。

鈴木:そう! 構造の問題! 親しい人の入院や、冠婚葬祭では、「家族」とか、ジェンダーとセクシュアリティをめぐる習慣が言葉のはしばしやお作法や決まりなんかで表れやすいですからね。だからまっすぐに悲しんだり心配したり、喜んだりするのではなく、複雑な感情や思考に陥るのだと思う。

江本:そうですね。そこで「大好きな彼女が死にそうなのに自分のアイデンティティのことを考える自分が嫌だ」となると自責になっちゃう。とはいえ、これは演劇なので。これまでのレズビアン映画にあるようなBury Your Gaysなどの悲劇のクリシェといった表象に抗いつつ、エンタメとして遊びつつ、私一人の身体でレズビアンの欲望をどう見せていくかを目指しています。

◆語れるクリエイターを増やしていくという課題

――レズビアンに向けた作品とした時に、創作面においても様々な課題があるように思います。

鈴木:まずクリエイティブの主体である演出家、作家、プロデューサーなどはもちろん、俳優や、いろんなスタッフのなかに性的マイノリティである人が増える必要があると思います。そのマイノリティ性と関わるテーマを表すうえで、あるいはそのマイノリティ性を持った個人の物語をただ描くだけであっても、照明はどうするかとか美術はどうだとか一緒に考えるために、「ただそこにいる」というまでの歴史や背景を説明するコストばかりかかってしまいます。マイノリティが出てくるのに、作り手がマジョリティだらけだと物語が説明的になってしまったり、説明しないとマジョリティにはわからないと直しを迫られたりするとかも起こるんじゃないかな。

江本:それで今回「レズビアンの衣装家がいい!」と思って探したんですが、見つけられませんでした。実感として、ゲイやレズビアンの衣装家と、ヘテロの衣装家の衣装は色気の度合いと種類がまるで違うんです。いろんな舞台を観ても、色気がなくてドキドキしないんですよね。

鈴木:わかりますー! 色気大事! 前に、異性愛の方が演出した同性愛をテーマにしたある演劇を観たとき、同性愛のふたりのあいだで惹かれ合う感じに説得力が感じられなく、「あれ? このシーンって色気の交換が感じられるのが物語のキーなんじゃないの?」と思ったんですね。もちろん、演出家がゲイやレズビアンやバイセクシュアルでなくても、スタッフ起用でそういうものを生じさせる可能性を探ることもできると思うんです。ドラマ『ユーフォリア/EUPHORIA』のハンター・シェイファー演じるトランスな女子ジュールズの衣装やメイクもすばらしかったですし、ハンターに監督・脚本のサム・レヴィンソンが聞き取って書いたというシーズン1のジュールズの物語には、色気がちゃんとありました。

江本:色気が伝わってこないのは、たぶんシス・ヘテロ規範でスタイリングや演出をしているからでしょうね。私個人の表現としては「レズビアン最高じゃん!ゴージャスじゃん!」っていうものを作りたいんですよ。そのためには、自身がマイノリティでなくてもいいのですが、マイノリティについての感覚や認識を共有できる人とクリエイションしたいです。

鈴木:昨年ニューヨークで、ユダヤの非常に厳格な宗派「ハシディズム」のコミュニティ出身で、トランスフェミニンの方が書いた自伝を原作にした演劇を観たんです。作・演出の方も主演の方もトランスフェミニンで、同じ宗派ではないけどユダヤにルーツがあって、また出資者にもトランスのコミュニティの人たちが名を連ねていたんですね。客席での会話や雰囲気からもトランスの人たちを包摂しているコミュニティの観客だとわかる。今回の江本さんの作品が「レズビアンのため」をうたっているように、まずそこで描かれているマイノリティである人たちやそのコミュニティに向けた作品だということですね。そういう場だと観客が「似たような立場のスタッフが関わっているなら安心して観られる」という面があると思います。それに癒しや勇気にもなっている。もちろん単に属性が近いからというだけでなく、能力やセンスが優れている・期待できるというのも大事という前提ですけど……。

江本:少なくとも日本では客席だけでなく、創作においても100%安心できてはいないのが現状です。俳優としては、性的なシーンや恋愛感情に関わるシーンの稽古の時にアイデンティティについて踏み込んで聞かれてしまうようなことから、ツアーや滞在制作先で、コミュニケーションの場として銭湯や温泉に「みんなで行こう」となるような場面まで、創作における様々な工程のなかでマイノリティの体や心がずっと脅かされている状況があります。

鈴木:あと、単に労働環境の問題だけでなく、同じ現場にたとえばトランスの照明さんやレズビアンの音響さんがいれば、労働環境としてもクリエティブとしても、変わる・前進する可能性があるのかなと思います。一人か二人、性におけるマイノリティ性を持つ作り手や俳優がいる、で済ませるだけじゃなく。

江本:そうですね。ただ、認識を共有できる人材を育成する場がないという課題はあります。

◆監修、広報──構造としての課題

――構造を変えるために『監修』が入ることもよくありますよね。

鈴木:それは本当に構造を変え得るんでしょうか? 「監修」を入れておけばいい、それでおしまいというのは本当に悪しき習慣だと思います。先ほども言ったんですが、「LGBT」や「クィア」という言葉ばかりが先行して、シスジェンダー・異性愛の社会や産業の構造における困難を含めた、生きている実態というのが日本ではまだまだ共有されてないですよね。「当事者」という言葉をわたしは使わないようにしているんですが、その言葉でわかった気になったり、「“当事者”を入れておけばいい」という監修の傾向もあったりして、それでは「マジョ中心の構造」は揺るがないですよね。そのマイノリティ性に関する研究者やメディア従事者であっても、クリエイションというのは知識だけではできないですよね。それに、制作の流れや現場にふれられず、スポットで「脚本を読んでください」「演技を見てください」「演出に意見をください」と言われても、土台ができて揺るがないものに対して修正や提案をするのは非常に難しい。できても限定的になるはずなんですよね。

江本:監修だとクリエイションのコアに入れないってことですよね。

鈴木:本来は、そのマイノリティ性を持つ人が演劇や映画やテレビドラマといった創作の産業で、当たり前に働ける、挑戦できるという機会を作るのがまず大事なはず。なのに、監修という肩書によって「この作品はしっかりしていますよ」という太鼓判や、構造の問題をスルーしている状況にお墨付きを与えてしまうケースをいくつも見てきました。それじゃ結局「教え役」ばかり引き受けさせられるわけですよね。作品の外部、構造の外部に置かれ続ける。

江本:その監修もたぶん多くの場合がマジョリティのためになっていて、それが問題なんですよね。

鈴木:マイノリティ性を明かせというのはカミングアウトの強制になってしまう危うい面もある。だからせめて、そのマイノリティ性を持つ人たちのために、日頃から何かしているというのなら、マジョリティとして作り手の主体である人が、そのマイノリティ性をテーマとして扱うというのも、まだ理解できなくもないんです。性的マイノリティに関する作品を作るなら、たとえばHIV啓発の活動をしているとか、トランスの人たちが働き続けられる環境作りのために動いているとか、普段からごはん食べに行ってよく話してるとか。ニューヨークでは、そういった、マイノリティだからこそ不足している福祉や教育、医療の供給をするコミュニティと、文化・芸術のコミュニティが重なっているのを見ました。

江本:それらのコミュニティと重なることで守られやすくなる可能性はありますね。マイノリティ性を明かすかどうかは、最近では自分で選べる環境に少しずつなりつつあるかとは思います。ただ、こちらとしては自分のことを開示するかどうかの負担だけでなく、開示した時にそれを聞いた相手がどうリアクションするかまで含めて、先回りして請け負う癖がついてしまっている面はあります。

――江本さんが「レズビアンに向けた演劇」と明言することも安心の要素ですよね。

鈴木:一方で、最近も日本の映画・テレビドラマ産業で、作り手の主体がシス・ヘテロである人たちが、ゲイやレズビアンといった同性愛をテーマにしながら、その呼称を使わないで広報する作品があってショックでした。

江本:そう。だから私は、東京芸術劇場で「レズビアン」と言っていこうと思う。もちろん「公共の場でレズビアンという言葉を出して欲しくない」というレズビアンの人がいるのもよくわかるんですけど。

――もしかすると、プロデューサーや監督が「レズビアン」という言葉を使い慣れてなさすぎてはっきり口に出せないという可能性もあるのかもしれません。

鈴木:確かにそうかも……! 日頃からそういった人たちと接していたら言い慣れると思うし、だからこそ言葉として出せないんでしょうね。その言葉が必要で生まれて、引き受けられてきた何かを、その呼称を口にするときの重みのようなものから、口ごもったり言い出せなかったりするのかもしれない。

江本:責任を引き受けるのには負荷がかかるんでしょうね。

◆創作現場だけでなく、上演場所としても可能性を探していく

――語れる人を増やしていけば変わる可能性があると考えつつも、日本では課題が多いですが、今後の海外上演ではどう考えていますか?

江本:日本で上演する難しさは初演から実感しているので、まずロンドンでの上演を予定していますが、同性愛者の俳優は多いけど、作品や表現に対して保守的な面があるとも聞いています。どう見られるのかはわからないですが、可能な限り広げて届けていきたい。

鈴木:ニューヨークで上演の機会があってほしいですね。そしたらわたしも観に行きたい! 今年頭に上演された和田華子さんの和田企画『なる、ならない、なれない、ある』もそうですが、日本では、トランスあるあるに「笑っちゃいけない」というシス・ヘテロ観客のムードを感じたんですが、江本作品もニューヨークなら通じる、なんなら爆笑も起きる気がする。わたしは江本さんにはギャグセンにも惹かれているし、パワーと知性とユーモアを感じてるので!

江本:ニュージーランドのAuckland Prideでは、タカタープイと呼ばれる、マオリとしての文化的アイデンティティと性的・ジェンダーの多様性が交差する人たちの作品が見られるそうです。そうした複数のマイノリティ性を持つ人たちによる表現が、社会に必要なものとして扱われ、上演につながる回路がすでにある場所もある。そういう土壌を世界中でもっと探していきたいです。そこが実際にマイノリティが安心して楽しめる場所なのかは、行ってみないことにはわからないけれど。

(聞き手:河野桃子 写真:波場木えみり)

舞台芸術祭「秋の隕石2026東京」ジュンコエモト『真夜中に寂しくなったときに観たい演劇』は、10月16日~18日東京・東京芸術劇場 シアターイーストにて上演。

【江本純子】
劇作家・演出家・俳優。2000年に劇団「毛皮族」を旗揚げ。女性俳優たちの身体を通じて過剰な演劇美学を貫いた毛皮族時代を経て、多様な支援のもと、マーケットにからめとられない創作の場と方法を模索してきた。近作『セクシードライバー』(2022)、映画『愛の茶番』(2024)では、演劇と映画、観客と作り手のあいだに立ち現れる境界と、その揺らぎを扱った。初監督映画『過激派オペラ』(2016)では女性同士の恋愛や若さを描くなど、レズビアン表象はこれまでも当然のように作品の中に息づかせてきた。『真夜中に寂しくなったときに観たい演劇』では、客体化されたレズビアン表象への抵抗を起点に、虚構の反復のなかで、レズビアンという性を生きる主体の更新と、その先にある可能性を探究している。

【鈴木みのり】
フェミニズム、クィア理論への関心から小説執筆や、映画、文学、美術について批評。「早稲田文学増刊号 家族」 (筑摩書房)、「すばる」2023年8月号で小説を発表。アジアン・カルチュラル・カウンシル(ACC)2024年度ニューヨーク・フェローシップ(文学部門)を受賞し、2025年1月よりアメリカ・ニューヨークに半年滞在。第22回AAF戯曲賞(2022年度、主催:愛知県芸術劇場)審査員を担当。ラジオ出演にTBSラジオ『アフター6ジャンクション 2』、『荻上チキ Session』、NHK『ウチらと世界とエンタメと』など。近刊に『“テレビは見ない”というけれど』(共著/青弓社)、和田彩花と特集の編集を担当したフェミニズムマガジン「エトセトラ Vol.8」(特集 アイドル、労働、リップ)。

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