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今一度はっきりさせよう。美人とは一体誰なのか?令和の3大美女とは誰なのか?

  • 2025.12.9

美人の定義は、こんなに変わった。今の美人は誰が決める?

美人とは一体誰か? ルッキズム批判が起きてから、もう5年……当初は、世間が非常にエキセントリックに人間の美を語ることを咎め、こうしたコラムでも「美人」という言葉さえ使うのを憚られた!? 美を語ることは差別に当たるとして、言葉狩りが行われたほど。だから逆に、美しいものを美しいとさえ言えないのは、むしろ不健全、との批判も生まれた。ただ不思議なことに、ある種の反動か、意識の変化か、気がつけば一体誰が美人か? というランキング的な記事を、今また山ほど見かける。じゃあルッキズム批判以降、美の基準はどう変わったのか?

まず、時代とともに美人の基準は結構ガラガラ変わってきた事実を知るためにも、その歴史的変遷をざっくり見ていこう。もちろん国によって基準が違うが、ある種の共通点もあることがまた面白い。古代は世界的に、豊満かつ健康的な体型が美人とされたが、これは子孫をたくさん残せるという意味合いだから、より動物に近い? やがて古代ギリシャでは顔立ちの比率が問われ、古代ローマでは肌の色ツヤが問われ、現代の美人に近い定義が生まれたのは、男性の好みを反映してか。これに対し、日本の平安時代はもっぱら黒髪や白肌、ふくよかな体が美人の条件。これは裕福で位が高いことの象徴で、貴族こそが美人という基準があったからに他ならない。でも貴族ほど人に顔を見せないのがマナーだったから、誰も美人か否かを確かめられなかったのが現実だが。そして江戸時代となると一転、絵師が描く美人画のモデルとなった花魁や芸者などの色街の女たちが、美人の象徴となっていく。ちなみに、遊女が美人の称号と憧れを一身に集めたのは日本だけ。日本は性に対しては非常に寛大であったと言われるのだ。吉原を国が認可したのもその証。ちなみに花魁がばっちりフルメイクであったのは言うまでもないが、まさに純白の肌、切れ長の目、おちょぼ口が当時の絶世の美人顔の三要素だったわけである。

やがて明治維新によって西洋化が一気に進むと、目鼻立ちのくっきりした顔が美人と呼ばれるようになる。美人の主役も良家の子女に移り、写真だけで美人令嬢を勝手に選ぶコンテストが行われた。美貌に順位をつけるのが世界共通の慣習となっていった。当時のミスコンはあくまで男が女を美貌で選ぶわけで、やはり悪しきルッキズムの象徴。そこからの百年くらいは、男たち主導の美人至上主義が、世の中にいろんな差別を生んできたのだ。

ただ、今のミスコンは、本人が勝手に参加するわけで、スポーツの競技会と一緒。美人を目指す人だけが目指せばいい自己申告制なわけで、まさにSNS時代の形。そう、今は、すべて自分の気持ち次第。美人であることにこだわりたい人だけがこだわればいい。いやそれどころか美人かどうかは自分で決める。まさしく歴史上初めて、すべては自分次第という時代になったのである。

つまりは美人だろうが美人じゃなかろうが、どっちでもいい時代なのである。

昔、美人は賢くてはいけなかった。でも今、令和3大美女とは?

20世紀後半は「絶世の美女」とか「世界一の美女」といった表現がよく使われた。’60年代はエリザベス・テイラーやマリリン・モンロー、’70年代はカトリーヌ・ドヌーヴ、’80年代はブルック・シールズがそう呼ばれた。

象徴的だったのはブルック・シールズで、少女の頃から毒母の指示で“性の対象”として絶世の美少女ぶりが注目を浴び、早熟な性を描いた映画『青い珊瑚礁』や『エンドレス・ラブ』で世界的な人気を得たが、そのポジションに不満を抱いて女優業を休み、名門プリンストン大学を優秀な成績で卒業するも、復帰後は「賢くて真面目な美女」なんて要らないと、映画界を干されたりした。まさに20世紀まで美女は賢くちゃいけなかったのだ。

しかし21世紀に入ってから「美人女優」という言葉がぱったり聞かれなくなった。それは、一つに“顔より体”という意識の変化から、スーパーモデルが持てはやされるようになったこと、一方で美貌よりも個性と才能、という時代に入ったことを物語る。日本では宇多田ヒカルの登場から世の中の意識が大きく変わったという説もあるほど。

でも今また、新しい基準が生まれている気がする。どんな時代にも「3大美女」という言い方があったが、今の日本にも注目すべき「3大美女」がいる。浜辺美波に今田美桜、広瀬すずという20代の実力派女優たちである。ともかく3人ともが、最初に見た時の衝撃が今も忘れられないほど美しい顔立ちをしているのは絶対的共通点。そのうえ、誰もが天性の才能としか思えないような素晴らしい演技力を持ち、好感度もいずれ劣らぬ圧倒的な高さを誇る。加えて小柄なところも一つの共通点だが、それも「山椒は小粒でもピリリと辛い」という日本の諺を体現するような特別感あり。山椒の実は小さくても、舌を刺すように辛い。つまり体は小さくても気性が鋭く、優れた才能があって侮れないことを言う。まさにピリリ級の凜とした颯爽感と、刺激的なまでのパワー、20代と思えないような女優としての頭の良さをも持ち合わせた3人なのだ。言うならば、どこかに日本的な精神性を匂わしつつ、仕事ができる現代女性の姿。だから令和の美女の条件となるのではないかと思ったわけだ。

ハッとするほど美しく、ドキッとするほど頭が良く、同時にホッとするほどの好感度を持っている……完璧なる三拍子そろった若手実力派女優は、日本が世界に誇れる3大美女と言えるのではないだろうか。

ちなみに、「大正三美人」と呼ばれたのが九条武子、柳原白蓮、林きむ子……といった人たち。九条武子は華族に嫁いだ歌人でありながら、「聖女」とも呼ばれる慈善活動家でもあった人。柳原白蓮もまた華族で歌人。結婚後に帝大生と駆け落ちし、それが「白蓮事件」と呼ばれたスキャンダルの主役。3人目は諸説あるものの、林きむ子は義太夫語りの家に生まれた日本舞踊家。いずれも芸術家であり、波乱に富んだ人生を生きた個性的な美女。才能があってこそ美貌が評価されるという、今につながる美意識がそこにある。大正時代はとても短いが、新しい日本の精神性を伝える女性美をきちんと称える、精神的なレベルが非常に高かった時代と言える。

今もまた、そんな日本的な精神性が生かされた時代であること、この令和の3大美女にしみじみ思うのである。

美人の平均年齢が、どんどん高齢化しているという事実

いわゆる美人女優ランキングでは、この数年、北川景子が文句なしのNo.1に輝いているけれど、この人は今39歳。少なくとも20年前まで、美人と言われる人の年齢イメージはなんとなくだが30歳まで。レオナルド・ディカプリオは、恋人が25歳を過ぎると基本的に別れてしまうというのも、彼の頭の中で美人は25歳までという譲れぬ法則があるからなのだろう。それどころか1980年代まで、人の美しさのピークは21歳との見方があったほど。まぁこれはさすがに過去の話としても、気がつけば美人の年齢が30代後半まで高齢化していたことになる。ってくるということなのだ。

実際これに関しては極めてユニークなリサーチが行われており、雑誌『ピープル』で選ばれた「世界で最も美しい人」の称号を持つ人の平均年齢を調べた結果、1990年の美人の平均年齢は約33歳で、約20年後には約39歳になっていたというのだ。この研究を行ったボストン大学のニーラム・ヴァシ博士は、文化や国際感覚が変わるにつれ、美の基準も進化し「若ければ美しい」という美意識は過去のものになったと解説した。日本も後追いするように、今ようやく大人の女が尊重される欧米に近づいてきたということなのだ。

いや単純な高齢化が起こっているわけではなく、むしろ年齢を重ねても目立って美人印象を失わない人の年齢が、そのまま美人イメージの年齢層を引き上げていく結果になっているだけ。まさに北川景子のように。そうそう長澤まさみも、綾瀬はるかも、日本の化粧品ブランドのミューズたちは、皆この年代だ。何か人としての重厚感のようなものが生まれないと、なかなか美人として認識されない時代になってきたことの証だろう。一方、世界的に見ても、ハリウッドセレブたちがある意味露骨な美容医療によって年齢逆行を見せる中で、日本は石井美保さんのような美容家があの手この手の美容テクニックで、内からの抗老化に挑戦している稀有な国。韓国や中国に押され気味の日本の美容も、こうした年齢美人の輩出で、大人美の提供では、やはり世界一と自負してもいいはずなのだ。

いずれにせよ世界的な美人のイメージ平均年齢は、人間の寿命が伸びるのに比例して、確実に高齢化に向けて更新中だ。正直どこまで行くかわからない。だからこそ自らがその年齢改訂に挑んでみるべき。特に今の30代は、40代、50代に、美人印象を持ち込むことも可能。自分が美人年齢を書き換えていく、それが圧倒的なエイジングケアになるのは確かなのだから。

美人の平均年齢は、高齢化に向けて更新中。正直どこまで行くかわからない。だから自らその年齢改訂に挑むべき。いつまでも美人印象をひっぱって、自分が美人年齢を書き換えていく心意気で。

撮影/戸田嘉昭 スタイリング/細田宏美 構成/寺田奈巳

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