世の中からなくなることのない“いじめ”。大人になっても、子どもの時に受けたいじめの辛い記憶は消えることはなく、時として濃くなることさえあるかもしれません。
小咲もも(@mangakakuhito)さんは、中学時代にいじめの首謀者であった生徒と過ごした不思議な期間を振り返り、自分なりの結論をX(旧Twitter)に投稿すると、多数のコメントと共に6.7万いいね(2024年2月21日時点)を集め、話題になっています。
一体どんなことがあったのでしょうか?
注目の投稿がこちらです。
※下記の日付のリンクをクリックするとX(旧Twitter)に移動します
小咲もも@mangakakuhito (2024年2月17日)
中学1年の時、少しだけいじめられていた時期があった。いじめの期間自体は短かったけど、その後はスクールカースト底辺として派手な子達に見下されたり馬鹿にされたりして過ごした。
中学3年の時、いじめの首謀者の女子に「あんた走るの遅いから、マラソン大会の練習しようや!」と言われ、1ヶ月ぐらい毎日放課後一緒に走ることになった。
私たちは制服姿で校庭を一周した。走りながら雑談もした。
私は極度の運動音痴で、球技は毎回失敗するし競争では毎回ビリだったが、その年のマラソン大会では、鍛えた成果かビリにはならず、その時初めて「私でも練習すれば速くなるんだ」という自信がついた。
何故いじめっ子が、いきなり私にそんなことをしたのか不明だったが、他にも親しげに話しかけてくれたりとやたらとフレンドリーだった。
私は優しくしてもらうとすぐに、良い人だなあと素直に思ってしまうタイプなので、いじめっ子が優しくしてくれて嬉しかったという記憶が残っていた。
しかし…
数年前にそのことを思い出した時、あれは内申のためだったのかなあと思うようになった。
いじめっ子は成績が良く賢い子だったから、私にいじめられたことを告発されて進路に響かないように、優しくすることでそれを防いだのかなと思った。普通に考えればすぐ気づきそうな事なのに、安易に「良い人」と信じた自分が本当におめでたくて恥ずかしいなと思い始め、モヤモヤした。
でも最近、そこから気持ちが進化した。
いじめっ子の優しさは打算からきたものかもしれないけど、それでも放課後、部活する人に見られながら制服姿で一緒に走ってくれるのは、なかなかできることじゃない。
結果、私は練習の大切さに気づけたし、自信にも繋がった。
それで良かったんじゃないかなと。
この世の善意は必ずしも100%の善意でできてるわけじゃない。
承認欲求だったり、優越感だったり、贖罪だったり、打算だったりが混じっている。
私がしている善意も、そういうものが混じってるんだと思う。
人間には、良い部分も悪い部分もある。だから、そういう物が入り混じっていて当たり前なんだと思う。
大切なのは、善意を施す側になった時に、「これは打算もあるな」と、自分が完全な善人ではないことを認めながらすること。
施される側になった時は、相手に完全な善人であると期待しない事と、感謝できる部分には感謝することかなと思う。
自分を完全な善人と思い込むことは、自分に嘘をつくことになるし、相手を完全な善人と見做すことは、理想の押し付けになってしまうから。
私はいじめっ子が一緒に走ってくれたことには今も感謝していて、あの時間は中学時代の良い思い出になっている。
さまざまな要素が組み合わさった、とても複雑な思い出ですね。
結論を出すのは難しいですが、それでも小咲ももさんは自分のなかでの“答え”を出し、良い思い出として位置付けたようです。
気になるその後について
今回のエピソードを投稿された小咲ももさんに、お話を詳しくお伺いしました!
---マラソン大会の後も、その子とは交流は続きましたか?
「クラスメイトとしての交流はありましたが、特別仲が良くなることもなく、卒業後は進学先が違うこともあり疎遠になりました」
---こちらの投稿にさまざまなコメントがありましたが、印象的だったものや意外だったコメントなどありましたら教えてください。
「もしかすると彼女も成長して、打算無しで行ったのでは、という意見をいただき、私が疑心暗鬼になっただけなのかもなあとも思いました。もし完全な善意だった場合は、下手に疑ってしまって申し訳無かったなと感じました」
---人によってとらえ方が異なるお話ですね。とても貴重なエピソードをありがとうございました!
人間の感情はとても複雑で不透明ですよね。考え方も感じ方も一人として同じ人間はおらず、自分以外の誰かについて完全に分かることもないでしょう。
自分のなかでモヤモヤとした思い出や経験があれば、今回の小咲ももさんのように考えてみるのも良いかもしれませんね。
考え方に感銘を受けた、というコメントが多く寄せられる
この投稿を見た人たちから、とても多くのコメントが寄せられました。
いい話だった。
打算だったとしても、こちらにもいい事に気付けて意外な相乗効果を呼んだ事は後に宝となったと思う。
色々考えさせられる内容でした
いじめられた期間や放課後練の際の相手の行動の真意はわからないけれど、結果として主さんのプラスになれているのならそれは意味のある事だったのかもしれませんね
素敵なエピソードですね。
自分はいい人悪い人なんておらず、「人間にはいい時と悪い時がある」という考えで生きてます。いわゆる善人だって魔が指すし、悪人も情に絆される一面もある。
あの時のあなたが好きだったし感謝してます。それでいいんだと思います。
子供の時は素直に受け止め大人になってからはその時気づかなかったことにも理解を示すって凄く良いと思います
真実がどうであれ、自分の成長に繋がったと思えることがすごいです。幸せを感じることができる人ってきっと小咲さんのような考え方が出来る人なんだと思います。
個人の感想だけでなく、小咲ももさんの考え方に感銘を受けた人もおり、たくさんの方が今回の投稿に真剣に向き合っている印象を受けました。
そんななか、もう一つ大事なことを気づかせてくれる意見も。
いい話(それはそれとしていじめはダメ)
そもそも、いじめは絶対にいけない、という大前提を忘れてはいけませんね。色々な経験を重ねることは大切ですが、いじめる経験もいじめられる経験もあってはならないことです。
思い出すべてが“良い経験になった”ということばかりではありませんが、今回のように、時間が経ってから振り返ってみることで当時は気づけなかった新しい発見もあるかもしれません。
あなたには、改めて振り返りたい出来事はありますか?
取材協力:小咲もも(@mangakakuhito)さん