1. トップ
  2. 【イチロー初告白】「本当に悔しかった」プロ1年目で味わった“屈辱のオールスターゲーム”と、忘れられない“師とのファーストコンタクト”

【イチロー初告白】「本当に悔しかった」プロ1年目で味わった“屈辱のオールスターゲーム”と、忘れられない“師とのファーストコンタクト”

  • 2024.2.27

Amazon Musicなどのポッドキャストサービスで2023年11月より配信されている『ICHIRO The 8 Games/イチローがイチローを語る』Apple Podcast Rankingにおける視聴ランキングで1位(2023年12月7日付)になるなど、引退してもなお野球界のレジェンド・イチローさんの絶大な人気と影響力を裏付けるものとなっています。

この番組では、ギネス世界記録でもある日米通算4367安打など、数々の偉業を成し遂げてきたイチローさんが「時間が経ったからこそ話せることがある」「たとえば、テレビ、雑誌のインタビューでは表現できないことが、できるかもしれない」と、自らの野球人生を、自らの言葉で振り返っています。

他の媒体では決して聞くことができない、イチローさん本人から語られる珠玉のエピソードの数々――。TRILLスポーツでは、その一部をご紹介します(以下、一部ネタバレを含みます)。

 今回は『Game 2 プロ野球選手・イチローの誕生~ジュニアオールスターでの屈辱:1992-2000』

プロ1年目でイチローさんが「屈辱」と漏らしたオールスターゲームでの出来事とは?

■ ドラフト4位という評価と、生で感じた“プロ”のボール

イチローさんは愛工大名電高校3年時の1991年ドラフトでオリックス・ブルーウェーブ(当時)から4位指名を受け、プロ入りします。のちに大記録を残すレジェンドだけに、この「4位」という指名順位を低いと思う方も多いかもしれませんが、イチローさん本人はこの順位を「最高」と語っています。

「高校(卒業で)の1位はしんどいですよ」(イチローさん)

自身が「1位指名ではないことは分かっていた」と語るイチローさんですが、目標はあくまでもプロ入り。その意味から、プレッシャーや注目度が段違いとなる「1位指名」ではなく下位指名でのプロ入りを「最高」と表現したのかもしれません。

また、プロ入り当初、もっとも不安だったのが「プロはどんな速い球を投げるのか」だったと言います。プロ入りに際して、練習ではゲージより前に立ってバッティングを行うなど、対策はしていましたが、実際に生で見てみないと分からないこともあります。

ただ、プロ1年目の「鈴木一朗」は少なくとも数字だけを見ればそんな不安をかき消すような結果を残します。この年、ファーム(二軍)ながら.366という高打率を残して首位打者を獲得。天才打者の片鱗をプロ1年目から発揮したのです。

■ ジュニアオールスターでの屈辱

undefined
提供:産経新聞

プロ1年目の鈴木一朗選手が忘れられないと語るのが7月17日、東京ドームで行われた「ジュニアオールスター」です。ジュニアオールスターとは、球界の有望な若手選手が選出される、いわば「ファームのオールスター戦」。高卒1年目ながら結果を残していた鈴木選手は、当然のようにメンバーに選出されました。

しかし、この試合でショッキングな出来事が起こります。「絶対に1番で先発出場だと思っていた」(イチローさん)というこの試合で、まさかのスタメン落ち。この時点でウエスタンリーグ首位打者を走る高卒1年目のルーキーの名前が、スターティングラインナップに記されていなかったのです。これにはイチローさんは「本当に悔しかった」と語っています。

しかし、それで終わらないのが“イチロー”たる所以です。同点の8回に代打で出場すると、ライトスタンドへ決勝のホームラン。続く打席もヒットを放ち、2打数2安打1本塁打1盗塁でMVPを獲得しました。ちなみに、イチローさんはこの時獲得した賞金100万円全額を神戸市の養護施設に寄付しています。

■ プロ2年目に訪れた最大の試練

プロ2年目の1993年。前年、ファームで首位打者を獲得した鈴木選手は、開幕戦でいきなりスタメンに大抜擢されます。しかし、ここで試練が訪れます。ファームでは結果を残せたものの、一軍ではなかなかヒットが出ません。開幕当初こそ一軍で起用されましたが、その後は一軍とファームを行き来する生活が続きます。

当時の一軍打撃コーチの指導法が“合わなかった”のも、大きな要因でした。指導通りにバッティングを変えたものの、一向に結果が出ない…。そして同年夏、西武球場(現ベルーナドーム)の室内練習場で、コーチからこんな言葉をかけられました。

「おい、俺の言うことを聞くのか?聞かないのか?」

プロ2年目、19歳の若者だった鈴木選手がこの問いに対して答えた“衝撃の一言”とは――。

■ “イチロー”を見出した師・仰木彬監督とのファーストコンタクト

undefined
提供:産経新聞(1997年)

1993年。一軍ではなかなか結果を残せなかった鈴木選手ですが、ファームでは.371という高打率をマーク。規定打席不足で首位打者こそ逃したものの、その才能をいかんなく発揮していました。同年オフにはハワイ・ウィンターリーグに派遣され、リーグMVPを受賞。そしてこの時、後に「師弟関係」と呼ばれる仰木彬監督と出会います。翌年からオリックスの一軍監督として指揮を執ることが決まっていた仰木監督は、有望な若手がいないか視察に訪れていたのです。

このファーストコンタクトは、衝撃でした。全身白に身を包み、100ドル札を豪快に落とすのです。

「わざとやってんのかなぁ……(笑)」(イチローさん)

イチローさんは、当時を振り返ってこう笑います。「仰木マジック」と呼ばれる緻密な采配とは相反するような豪快な人柄。そこに、イチローさんも魅力を感じていたのかもしれません。

その他、“天才打者・イチロー”を形成した二軍コーチとの運命の出会い、代名詞でもあった振り子打法の誕生秘話、ルーキー“鈴木一朗”が感じたプロのレベル、デビュー3年目での大ブレイクの裏側や苦悩など、門外不出のエピソードが満載の『ICHIRO The 8 Games/イチローがイチローを語る』。ぜひ、チェックしてみてください!


 文・花田雪(Kiyomu Hanada)

※本記事は番組の権利者に許諾を得た上で記事の制作・公開を行っています。

の記事をもっとみる