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人をひがめばひがむほど、心がブサイクになっていく、の法則。

  • 2017.11.27

世の中にはいろんな才能や技能を持った人たちがいますが、努力すればなんとか身につけられるものと、そうでないものがあります。
努力してもどうにもならないものとして真っ先にイメージされるもの、それが「顔」ではないかと思います。
この世の中は「顔」によって受ける扱いに差があります。恋愛の局面でも、仕事の局面でも、能力や性格によってではなく、「顔の良し悪し」によって評価が左右されるケースが確かに存在します。
もちろんスキンケアや髪型にこだわるだけでもだいぶ顔の印象は変わりますが、大元となるパーツだけは整形をしない限りいじることはできません。
その努力ではどうにもならない「差」に憤りを感じ、「どうしてあの子だけが」と悔しい思いをしたことが、誰しも一度ぐらいはあるのではないかと思います。
こういった経験が重なると「どう頑張っても評価されることがない」という認識が強まってしまい、さらには「努力しても無駄。頑張っても意味がない。」といったような僻(ひが)みっぽい思考性をも生み出してしまいます。

■原因が先か、性格が先か?

さて、ここで、一つ質問です。
僻みっぽくなってしまった人は、果たして、「自分が他の人よりも恵まれたものを持って生まれなかった」ことが原因で僻みっぽくなってしまったのでしょうか?
それともその僻みっぽい性格によって「自分が他の人よりも恵まれたものを持って生まれなかった」と思うようになってしまったでしょうのか? 何を言ってるんだ、そんなの前者に決まってるじゃないか、と思われた方、今からちょっとだけショッキングな話をしますので、怒らずに聞いてください。
もしかしたらですが、僻みっぽい性格になってしまった人は、自分が努力しなくてもいい言い訳を作り出すために、「自分が他の人よりも恵まれた顔を持って生まれなかったこと」を理由にして、僻みっぽい性格を自ら選んでしまった可能性があるのです。
自ら僻みっぽい性格になることを選ぶなんて信じられないかもしれません。しかし、その人は僻みっぽい性格であるおかげで、自分がうまくいかない理由を、自分の努力ではどうにもならない外見のせいにすることができ、努力しなくてもいい状態でいることができているのです。
つまり、僻みっぽい性格になることを選択したのが先で、外見をコンプレックスにしたのが後だということです。信じられませんか?

■ブサイクな心になってしまったのは、過去の自分の判断が原因

しかし逆の事実を考えてみれば一目瞭然です。つまり、同じような境遇にありながら僻みっぽくならなかった人たちがいる、という事実です。その人たちは同じ体験をしても僻みっぽくはならなかったわけです。
もし外見のコンプレックスが先に来れば、自ずと全員が僻みっぽくなっているはずです。必ずしもそうならないということはつまり、僻みっぽい性格になることを選んだことが先にあり、後から外見のコンプレックスを引き合いに出したと考えられるのです。
逆に、僻みっぽくならなくなった人は、その差を何かしらの別の形で受け入れる選択、つまり前向きな性格になることを選択したのです。
別に、僻みっぽくなってしまった人を責めるつもりはありません。僻みっぽくなってしまったのは、決してその人のせいではなく、過去のその人が「僻みっぽくなった方が楽そうだ」と思ったその判断そのもののせいなのです。
それが故に、心がブサイクになり、自分を卑下してしまうようなマインドになってしまったのです。であれば、直すのは簡単です。
今この瞬間から、僻みっぽくならなかった人と同じように、その差を受け入れる判断をすればいいのです。具体的な作戦は未来の自分に任せるとして、今、この瞬間にその判断を選択できるか、それが明暗を分けるのです。
「そんなの無理!恵まれた顔に生まれてこなった人の気持ちなんてあんたにわかるわけがない!」
確かにそうかもしれません。
ちなみに、私は芸能界という特殊な環境にいましたので、外見的に優遇されてきた人たちをたくさんみてました。彼女たちは口を揃えてこう「ひがんで」いました。
「みんな顔だけで私のことを判断する。誰も中身で見ようとしてくれない。だったら努力するだけ無駄でしょう」と。(川口美樹/ライター)
(ハウコレ編集部)

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