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【追悼】イヴ・サンローランの共同創業者、ピエール・ベルジェが遺したもの。

  • 2017.9.13
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2015年、自身のオフィスにて。後ろには、アンディ・ウォーホールによるイヴ・サンローランの肖像画が。 Photo: STEPHANE DE SAKUTIN / Staff
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イヴ・サンローランを長年に渡って支え続けたピエール・ベルジェが9月8日、86歳でこの世を去った。かつてサンローランが「アーティストのようにビジネスを経営する」と語った戦略家は、何をファッション界に遺したのか? サンローランとの二人三脚による人生を振り返る。

ピエール・ベルジェが遺したものとは?

1973年の米国版『VOGUE』にて「小柄、ダーク、爆発的、激しい愛情の持ち主、忠実な友人」と表現されたベルジェは、フランスで最も影響力のある人物のひとりであった。イヴ・サンローランはもちろん、画家のベルナール・ビュフェ、指揮者の鄭明勳 (チョン・ミュンフン) といった才能を発掘し、表舞台へと押し出した。大統領と親交を持ち、フランスのあらゆる重要な文化機関で役員を務め、文化慈善家及び政治資金提供者として大きな影響力を持った。

イヴ・サンローラン・リヴ・ゴーシュのデザイン部門の舵取りとしてアルベール・エルバスを採用する際、ベルジェがひとつ伝えたことがあると言われている。「ココ・シャネルは女性に自由を与えた。そして、イヴ・サンローランは女性に力を与えた」。だが、ベルジェの後押しがなければ、サンローランがそのような力を女性へ与えることはできなかったであろう。

ベルジェは、1930年に大西洋に面したフランスのオレロン島に生まれた。父親は税務調査官、母親は教師という家庭に育つ。平穏な生活だったが、ベルジェにとっては退屈だった。文学と政治に興味を持っていた彼に、両親は法律か医学を学んでほしいと期待していた。そして17歳の時、自分自身を変えようと、パリを目指す。

「システムの中に組み込まれるのが嫌だった。ジャーナリストかライターになりたいと思い、とにかく行動を起こすためにパリへ行った」。1996年にイヴ・サンローランの伝記を書いたアリス・ローズソーンに対して、そう語っている。パリへ移り住んだばかりの頃は、古書の売買をして生計を立てていたそうで、毎朝セーヌ川沿いに並ぶ古本の露店をめぐり、初版本を探しては古書店へ売っていた。そして夜になると、サン ジェルマン デ プレのバーやカフェで過ごすという日々を送る。

自身のジェンダーや政治活動etc... 積極的に活動したことで知られる。

ゲイであることを隠す人が多かった時代に自らゲイであることを公表し、政治活動にも熱心だった彼にとって、1940年代後半のパリでの生活は、少年の頃からの憧れを実現してくれるものだった。1949年には左翼の政治新聞『La Patrie Mondiale』を創立し、アルベール・カミュ、ジャン・コクトー、アンドレ・ブルトン、ジャン・ジオノ、ベルナール・ビュッフェといった友人らが寄稿していた。

ベルジェとビュッフェが出会ったのは1950年代初頭、ビュッフェがパリで画家としての名声を築き始めた頃。ベルジェはギャラリーを巡ってビュッフェの作品を展示してもらうよう頼み込み、コミッションを受け取るなど、ビジネスの舵取りを行った。

戦略家のベルジェは創造性豊かな夢想家のビュッフェにとってなくてはならない存在に。ビュッフェはやがて、パリで最も人気のある画家に成長。2人は慣れ親しんだパリ左岸 (リヴ・ゴーシュ)から次第に遠のき、パリ上流社会に頻繁に姿を見せるようになった。

ベルジェがサンローランと出会ったのは、1958年、社交界の著名人であるマリー・ルイーズ・ブスケ主催の晩餐会でのこと。サンローランがクリスチャン・ディオールでの初のソロコレクションを発表した直後だった。後に、サンローランは2人の間に感じた繋がりについて語っている。「特別な出会いだった。彼は、私の持っていないものを全て持っていた」 (Yves Saint Laurent: Style, 2008より)。「ピエールは、私の人生の物語となった」

サンローランは、クリスチャン・ディオールの名の下で6つのコレクションを発表したが、フランス軍の徴兵を受けてから神経衰弱を患い、1961年にブランドを去った。「君の入院中、ベッドのわきで、クリスチャン・ディオールの主任デザイナーではもはやなくなったと告げたことを覚えている」と、ベルジェは、サンローランへ宛てた手紙の中で書いている (Lettres à Yves, 2010より)。「『ならば』と君は言った。『一緒に新しいブランドを立ち上げないか。経営は君がやってくれ』」

2人はそれを実行することとなる。リスクはあったが、ベルジェのサンローランへ対する信仰は揺るぎないものだった。アメリカ人起業家 J・マック・ロビンソンの投資を得て、サンローラン・ブランドは1962年1月に初舞台を踏んだ。そこから、ブランドは一気に急成長。「ピエール・ベルジェがいなければ、作り出す必要があった」。2000年のニューヨークタイムズ紙の取材で、サンローランはそう語っている。「彼は、アーティストのようにビジネスを経営する」

サンローランとの“二人三脚”は巨大ビジネスへと進化を遂げる。

彼らの成功は、サンローランのデザイナーとしての崇高な才能とベルジェのビジネスに関する鋭敏な洞察力との微細なバランスによるところが大きい。1960年代には、人々の見方が変化したことを事前に予測し、それに合わせてブランドの舵を切った。1964年にはパフューム「Y」を発表、1966年にはプレタポルテのブティック「リヴ・ゴーシュ」をトゥルノン通りにオープン。そして1969年にはメンズウェアを発表し、アンディ・ウォーホルやミック・ジャガーといった著名人に愛用された。

サンローランが自由なクリエーションに専念できるように、経営面は全てベルジェが担い、強硬な保護者として知られるようになる。新聞に批判的なショーレビューを載せたジャーナリストは、その後のショーから締め出した。サンローランが現実世界の制約に縛られることなく自由に生きる必要があると信じていたからだ。「私が弾薬、食糧、軍隊を整え、君が戦った。そのようにして君は私たちを成功から成功へと導いた」と、サンローランへ書き送っている(Lettres à Yves, 2010)。

1970年代から1980年代にかけて、ブランドは目覚ましい成長を見せた。その多くは、ライセンスを通して拡大した。ベルジェは、事業だけでなく遺産をも築き上げていた。1983年、ダイアナ・ヴリーランドと協力して、NYにあるメトロポリタン美術館のコスチューム・インスティテュートで「YSL: 25 Years of Design (イヴ・サンローラン: 25年間のデザイン)」展を開催。存命中のデザイナーの功績を振り返って称えるイベントをコスチューム・インスティテュートが開催するのは、初のことであった。

2008年にサンローランが他界するまで、2人はビジネスパートナーとしての関係を続けたが、私生活では1970年代後半に恋愛関係は破綻していた。後に、ベルジェはサンローランがうつ病と麻薬と戦っていたことを打ち明け、彼をサポートできなかった自分の無力さを感じていたと語っている。

晩年はファッション界から距離を置き、文化的活動に専念。

晩年、ベルジェはモダンファッション産業に失望していく。1999年、イブ・サンローランのプレタポルテ部門とコスメ・ボーテ部門をグッチ・グループとサノフィ・ボーテへ10億ドル合意の一部として売却。その後、サンローランとベルジェはブランドのオートクチュールのみに携わることになる。これは、サンローランの引退まで続いた。2002年のキャシー・ホリンとのインタビューで、ベルジェはファッションビジネスから身を引いて満足していると語った。「ファッションの現状に嫌悪感を抱いている。いや、過去を振り返ってはならない。自分の前を見ることが必要だ。後ろを振り返れば、あっという間に倒れてしまう」

彼の名はファッション業界によって世に知られるようになったが、野心はそれだけに留まらなかった。1980年代からフランス文化の象徴であり、政治的パワーブローカーでもあった彼は、政治的左翼に惜しみない支援を続けた。1980年代半ばにベルナール=アンリ・レヴィとともに立ち上げた雑誌『Globe』を通じて、1988年の社会党フランソワ・ミッテラン大統領再選に大きな役割を果たした。ともに文学を愛するミッテラン大統領とベルジェは、親しい友人となった。つい最近も、エマニュエル・マクロン大統領支持を早い時期から表明していたひとりである。

また、シャンブレー・シンディカレ組合長、インスティテュート・フランソワ・デ・ラ・モード学長、そしてパリ装飾美術館理事を務めた。オペラ愛好家でもあり、1988年にはパリ国立オペラ座会長に就任した。「非常に教養が高く、洗練され、素晴らしい鑑識眼を持ち、音楽やオペラの専門知識も豊富、同時に事業の才能もある」。ベルジェを任命したジャック・ラング文化相は、ニューヨークタイムス紙にそう語った。「民間企業の人間であり、文化にも造詣の深い人物を起用するのがいいと思ったから」

1998年、サンローランとベルジェは、ロンドンのナショナル・ギャラリーで、2人の名を冠し、フランス絵画だけを集めた展示棟のスポンサーとなる。2人は、アート、書籍など、アンティークの熱心な収集家でもあった。ドキュメンタリー映画『イヴ・サンローラン』(2010)には、2人が交際していた期間に収集した700点以上の美術品が2009年のクリスティ・オークションにかけられるエピソードがある。その中には、オールド・マスターの絵画やルネサンス期のブロンズ像なども含まれていた。

イヴ・サンローランの遺産を後世に伝えることは、ベルジェの情熱であり続けた。パターンとスケッチは全て保存するようにして、世界各地で展示会を開いた。2000年にはピエール・ベルジェ=イヴ・サンローラン財団を設立。パリの北にある古い倉庫で、推定5,000点を所蔵するサンローラン・アーカイブをオープンした。

イヴ・サンローランの名を冠した2つの美術館も手がけ、今年10月に開館予定。ひとつは、パリでサンローランが30年近く働いたクチュールハウスのあった場所に、もうひとつはマラケシュにあり、近くにはサンローランの作品に多大な影響を与えたベルベル人の民族衣装を紹介するマジョレル庭園もある。

自身の抱く大志について彼はかつて、こう述べていた。「火を作り出す者のすぐそばまで行き、それを見つめ、証人となること。そして何よりも、道が切り拓かれようとしているのを目の前で黙って見ているわけにはいかない」(アリシア・ドレイク著『The Beautiful Fall』)。生涯をかけて、ベルジェはまさにそれを貫き通した。

参照元:VOGUE JAPAN

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