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家庭の外に居場所があるのは後ろめたいことなのか【新米ママ歴14年 紫原明子の家族日記 第21話】

  • 2017.5.2
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夫が成功者となって、夫婦関係が破綻する。

世の中的にはあるあるだし私の個人史的にもあるあるだが、一説によるとこの原因のひとつに、妻の“嫉妬”があるらしい。

(……嫉妬?)初めて聞いたときには全然ピンと来なかった。

何しろ夫婦というのは二人で一組。お互いの成功を自分のことのように喜び合うことができて、そしてときに相手の成功を自分の成功と勘違いして鬱陶しく思われることもあるような二人である。

成功に伴い大金を手にした夫が夜の繁華街に入り浸り家に帰って来なくなる、成功に伴いモテだした夫がヤリチンになる、成功に伴い自信をつけた夫の言動が次第に俺様化していく、というようなステップを経て、妻の側に寂しさや憤りが生まれたとしても、それは決して嫉妬ではないんじゃないだろうか。

もし妻が夫と同じ仕事をしていれば起こり得るだろうが、私の場合は専業主婦だったこともあり、自分の中に嫉妬の感情があると感じたことはなかった。

ところが自分が仕事をするようになって、仕事での成功が、単にお金と名声だけを運んでくれるものではない、ということを知ると考えが一変した。

かつての私には、無自覚な嫉妬があったのかもしれないと思うようになった。知らなかったから、それが嫉妬だと気がつかなかっただけなのかもしれない、と。

というのも、夫の成功に伴い嫉妬の対象となるのは、資産や名声やキャリアではないのだ。そうではなく、それらを持っているものだけに開かれる扉。家庭の外の、心地よい居場所の数なのだ。

成功して社会的評価を上げた者は、社会のいろいろな場所(銀行や証券会社やキャバクラや女性宅など)で歓迎される。ここにずっといていいよ、と無条件に受け入れられる居場所が複数できる。一方で妻の方はというと、成功者の妻という肩書きで暖かく迎えられる機会もなきにしもあらずだが、実際のところ生活はそう変わらない。ましてや専業主婦ならば、どんなに夫が成功しようと、自分が安心して滞在できる居場所は家庭だけ、という場合も決して少なくない。

安心して滞在できる場所というのは、言ってみれば、自分という存在を支える屋台骨だ。複数あればそれだけ安心だが、一本しかなければ当然心細く、その一本が折れてしまえば自分が沈む。

ひとつの家庭の中で、家庭の中にしか居場所がない者と、家庭の外にも複数居場所がある者が暮らせば、その環境への依存度の違いから、自然と温度差が生じる。複数の強固な屋台骨に支えられた方の強さや、余裕が、それがないものには、ただただ羨ましく思え、それを持たない自分が孤独に感じられるのだ。

そしてこれ、必ずしも夫婦関係に限らず、親子間でも起こり得る。子どもは大人に比べて自由が利かず、たいていの場合は住んでいる場所から自動的に定められた、自分が選んだわけでもない学校に毎日通わされている。

彼らを支える屋台骨は、ある時期まではどうしても、家庭だけ、ということが多い。そんな中で、親が家庭の外に、家庭と同じくらい心地良く過ごせる、歓迎される場所を持っているというのは、子ども心にも嫉妬の対象になり得るだろうと思う。

たとえばひとり親の恋愛を子どもがすぐに受け入れられないのだって、理由のひとつは、それが家庭の外で育まれる、親だけの屋台骨に見えるからだろう。仕事仕事で親が家を空けがち、という場合にも、寂しさとともに、心のどこかに、家庭の外に屋台骨があることへの嫉妬が生まれている可能性がある。

私自身、離婚して、働き出してから、個人としての私を心から歓迎してくれる居場所を、以前よりたくさん持つようになった。だから生きやすくなったし、明るい気持ちで過ごす時間が増えた。だけど一方で、子どもに対して、たまに少し罪悪感を持つことがある。

自由のない子どもを、足場の不安定な場所に残して、自分の足元だけを強固にしているようで、後ろめたいと感じることがある。けれども先日、ある友人がこんなことを言ったのだ。

「大切な仲間なら一緒に連れていけばいいんだよ」

家庭に限らず、今自分が心地よいと思える居場所には必ず、その場を一緒になって作り上げてくれている大切な仲間がいる。ふとしたきっかけで、自分がそこから一歩、足を踏み出そうとしたとき、跡に残される仲間の心にはどうしたって影が落ちる。

ずるいな、と思うかもしれないし、羨ましいな、寂しいな、と思うかもしれない。でも、だからって足を引っ込めちゃいけない。大切な人たちを守りるためには、ちょっとやそっとじゃ折れて沈まない強い自分が必要で、そのために屋台骨を強化するのだ。自分を支えを、意図して増やすのだ。それによって大切な誰かが傷つくというのは本末転倒だから、一緒に連れていくしかない。……とはいえ、当然ながら、私が私の仕事や友人関係から得られる屋台骨は私だけのものであって、親子というだけで自動的に子どもたちにとっても居心地の良い場所になるとも限らない。

けれども、少なくとも足場にはなり得るんじゃないだろうか。ここじゃない、何か違う、と思っていていい。そうした違和感を持ち続けながら、子どもたちがいつか、自分の力で、自分だけの屋台骨を見つけられるようになれば。そうなるように、そうなる日まで、子どもたちを一緒に連れて行こうと思うのだ。

イラスト:片岡泉
(紫原明子)

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