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柿ピーは人生そのものだった【新米ママ歴14年 紫原明子の家族日記 第5話】

  • 2016.12.13

もう散々議論し尽くされているテーマだと思うけれども、柿ピーの柿とピーについて、私の認識で言えば、「ピー」、すなわちピーナッツは、柿の種の美味しさをより色濃く印象付けるための、あえての我慢アイテムという認識だった。

”人生楽ありゃ苦もあるさ”の楽を知らしめるためにどうしても必要なスパイスとしての苦。あるいは、世の中の光を際立たせるためのあえての影、それがピーである、と。

苦労を避けて通ってはいけない、努力なしでは成功は得られない。義務教育でそんな風に教わってきたから、柿ピーを前にしてもやっぱり、柿とピーのバランスを考え、柿、柿、柿、ピー、柿、柿、柿、ピー、くらいのペース配分を戒めのように自分に課してきた。それが正しい大人としての自分の務めであると言わんばかりに。

けれども34年間生きてみて、いろいろなことがあった。福岡の片田舎から東京に出てきて、さまざまな人たちと触れ合ううちに、あれ、思ってたのと違うかも、ということに気づき始めた。

私のように、子どものころの先生の教えを律儀に守って、目の前の苦を享受している人間は、ともすればふとしたとき、生きることに疲れたりする。疲れ切って動けなくなったり、逆に感覚を麻痺させて死んだ目で動き回ることもある。一方で、感じることを止めない人達というのは、できる限り無駄な苦を回避するし、そのために考えながら生きているのだ。そういう人達は、考えているわりにあまり疲れているようには見えない。

目の前に差し出された苦をありがたがって受け取るだけが賢い大人のやることではないのかもしれない。あの山のてっぺんまで登るようにと言われて、最短距離だからとただ闇雲にまっすぐ進む。目の前に立ちはだかる巨木や岩を馬鹿正直によじ登って突き進むのは思考停止だ。本当は、それらを器用に避けながら、無理のないルートを切り開くことこそ賢さにほかならない。

そんな世の中の真実についに気付いてしまった私の目の前に、満を持して現れた至高のおつまみ、それが「柿の種・ピーナッツ抜き」であった。

……インターネットで見つけた時、「こ、これは……!」と雷に打たれたような衝撃が走った。

今まで、なんで無用の修行をしていたんだ私は、と。

そもそも、たかが酒のおつまみ。思考力を身につけた大人なんだから、ピーははじめから回避すればよかったのだ。柿、柿、柿、柿。堂々とそれを繰り返してよかったのだ。にもかかわらず、苦々しいピーを回避しないことに、さも大義があるかのように自分を偽ってきた。愚かだった。

後ろ向きな姿勢で食べてきた無数のピー達への追悼の念とともに、ついにわが家に、6パック入りの大箱で届いた「柿の種・ピーナッツ抜き」。黄身だけで作る卵ご飯と同じくらい、ある意味でこれは大人にだけ許された究極の贅沢とも言えるかもしれない。子ども達にはまだ早すぎるのではないか。筋力を十分につける前に近道を教えるようなものではないのか。そんなことを思いちょっと悩ましくも感じた。ところが、学校から帰ってくるなり「柿の種・ピーナッツ抜き」を見た息子が、悲鳴をあげて言った。

「ピーナッツ抜き!? そんな柿ピーに存在価値なんてない!!」

えっ……私は仰天した。単に無駄な苦であるピーの価値をそんなに高く見積もっていたなんてまさか息子はドM?! 柿ピーをめぐる、わが家の思想的対立の火ぶたが切って落とされた、かに思えたが、よくよく話を聞くと、考えれば当然のことがわかった。

息子は、ピーナッツが好きだったのだ。

私の体から分裂してこの世に登場し、私の調理したもの、私の買い与えたものを食べて成長した息子が、まさかピーナツ好きになろうとは。

血が繋がっていたって、一緒に暮らしていたって、親と子は別人なのである。

(紫原明子)

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