1. トップ
  2. レシピ
  3. やっぱり信長は別格の天才だった…信玄・謙信には絶対できない「たった4年で居城を引っ越し」の恐るべき合理性

やっぱり信長は別格の天才だった…信玄・謙信には絶対できない「たった4年で居城を引っ越し」の恐るべき合理性

  • 2026.2.22

なぜ織田信長は天才と呼ばれるのか。歴史評論家の香原斗志さんは「非凡な合理主義と先進性を持ち合わせていたからだ。最新の調査でわかった小牧山城の姿を知るとよくわかる」という――。

織田信長像
織田信長像(写真=狩野元秀/長興寺所蔵/東京大学史料編纂所/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
当時ではかなり異例だった信長の「拠点移動」

NHK大河ドラマ「豊臣兄弟」の第6回「兄弟の絆」(2月15日放送)で、美濃(岐阜県南部)の斎藤氏の家臣で鵜沼城主の大沢次郎左衛門(松尾諭)が、織田信長(小栗旬)の前に引き出された。この場所は、そのころ信長が居城にしていた小牧山城(愛知県小牧市)の主殿である。

永禄3年(1560)5月19日、桶狭間合戦で今川義元(大鶴義丹)を倒したとき、信長は清須城(愛知県清須市)から出陣していた。つまり、この時点では清須城を本拠地としていたが、第5回「嘘から出た実」(2月1日放送)で、居城を小牧山城に移転させた。

永禄5年(1562)に尾張(愛知県西部)をほぼ制圧すると、信長の次の目標は斎藤氏(この時点での当主は龍興)が君臨する美濃の攻略に移った。そこで翌永禄6年夏ごろ、清須の北東約11キロメートル、尾張平野のなかに浮島のようにそびえ、美濃方面を一望できる標高86メートルの小牧山に居城を移したのである。

もう少し先まで言及すると、その4年後の永禄10年(1567)8月、信長は悲願の美濃攻略を達成。斎藤氏が居城にしていた稲葉山城(岐阜市)を自身のあらたな拠点とし、城下の地名を井ノ口から岐阜にあらためると同時に、城の名も岐阜城とした。さらには、それから8年半ほどを経た天正4年(1576)2月、今度は安土城(滋賀県近江八幡市)に移っている。

「だからどうした?」と思う読者もいるだろうが、こうした拠点の移動は、ほかの戦国大名にはみられない信長の際立った特徴なのである。たとえば、武田信玄は躑躅ヶ崎館(山梨県甲府市)から、上杉謙信は春日山城(新潟県上越市)から、毛利元就は吉田郡山城(広島県吉田町)、北条氏政は小田原城(神奈川県小田原市)から居城を移すことなど、決してなかった。

では、この信長の特徴は、なにを意味しているのだろうか。

最短4年で本拠地を移した

あらためて信長の居城の移転について整理しておこう。織田一族の争いから一歩抜け出し、那古野城(名古屋市)から、それまで守護所(尾張国の守護の拠点)だった清須城に移ったのが弘治元年(1555)で、その8年後の永禄6年(1563)に小牧山城に移転した。その4年の永禄10年(1567)には岐阜城に引っ越し、さらに8年半後の天正4年(1576)からは、安土城を本拠とした。

2017年1月3日、小牧市歴史館
2017年1月3日、小牧市歴史館(写真=Bariston/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

こうしてみると、信長が早くて4年、長くても8年余りで居城をより西方に移していたことがわかる。そこには、京都により近く、という意志もうかがえるが、それ以上に、信長のほかの大名にはない先進的かつ合理的な戦略が見えてくる。

その戦略は、清須城から小牧山城への移転を考察するとよく理解できる。最初に、信長が居城にしていた当時の清須城が、どんな城だったのかを概観しておきたい。

発掘調査で、二重の堀に囲まれた約200メートル四方の敷地が確認され、これが信長の居館跡だと推定されている。室町時代における守護の館の典型的な形式で、周囲の城下町も発展していなかったと考えられている。したがって、家臣団も城下町に集住しておらず、清須にも屋敷はあったとしても、日常的には周辺に散らばる自分の領地に常住していたと考えられる。寺社もさまざまな特権を維持し、やっかいな存在だっただろう。

決して通過点ではなかった小牧山城

それなのに、信長が清須城を大改修したり、城下町を整備したりした痕跡はない。代わりに尾張をほぼ制圧した段階で、だれもが尾張の中心と認識していた清須をあっさり捨て、小牧山にまったく新しい城と城下町を築いたのである。

小牧山城は比較的近年まで、特筆すべき城とは考えられていなかった。昭和54年(1979)に刊行された『日本城郭体系9 静岡・愛知・岐阜』には、次のように記されている。

「永禄三年(一五六〇)五月、桶狭間の戦いで今川義元を倒した織田信長は、美濃の斎藤龍興と対抗するため、同六年、小牧山に新城を築き、清須から移った。尾張平野中央部にある標高八五mの小牧山は、平野を一望に見下ろす要害の地である。山を五段に分けて曲輪とし、堀と塁を造り、山麓に三重の堀と西部に総構えの長堀を設けた。/永禄十年、信長は、斎藤龍興の居城、美濃国稲葉山城を攻略して移り、小牧山城は廃城となった」

単なる通過点にすぎないような淡白な説明なのは、美濃を攻略するための臨時の城に近いと考えられていたからだ。ところが、小牧山城のイメージは最近、「信長、恐るべし」とばかりに劇的に変化している。

城の近くに家臣を住まわせる利点

まず平成以降の発掘調査で、小牧山の南側に東西約1キロ、南北約1.3キロにわたり、臨時の城とは到底思われない本格的な城下町が展開していたことがわかった。上級武士の居住区と考えられる大きな地割、下級武士団の居住区であろう短冊形の地割の密集地区、商家や職人の家が並んでいたと思われる街区など、職能ごとに居住区が整然と分けられていた。

要するに、原野にゼロから町を造成し、家臣のほか町人たちも集住させたのだ。大名の居城の周囲に家臣や町人を集住させた、江戸時代以降の城下町と同じ発想で、近世の先駆といってもいい。そこには市場が開かれ、商業や経済活動も重視された。おそらく寺社などもある区域にまとめられ、信長の権力の支配下に組み入れられたことだろう。

だが、家臣団を集住させたことのメリットが、信長にとってなにより大きかったと思われる。3年前の桶狭間合戦に際しては、自分の領内に今川義元の軍勢が進攻しても、家臣たちは各地に散っていて、彼らを集めて兵力を迅速に動かすのにどうしても時間がかかった。こうしたデメリットの解消は、信長の悲願だったに違いない。

家臣団をスムーズに移転させるために信長が弄した策が、『信長公記』に記されている。最初、清須の17キロ北東の標高300メートル近い二宮山への移転を告げ、家臣団が困惑したところで、より近くて標高は低く、清須とは川でも結ばれた小牧山に変更すると伝えたという。それなら引っ越しも楽だと家臣たちはよろこんだが、信長のねらいは最初から小牧山だった。最初に高いハードルを示し、それを下げて反対意見を封じたというのだ。

「見せるための石垣」

冷徹な合理主義による移転だったとわかるが、城の構造にも、信長がめざした権力のあり方が明瞭に示されていた。城下町から中腹まで、幅が約5メートルの大手道が250メートルにわたって真っすぐに伸び、道の両側には上級家臣のものと思われる屋敷が並んだ。そこまでは自由な往来も可能だったものと思われる。

ところが、その先は大きく右に折れ、それから山頂までは道が3回屈折し、侵入がきわめて困難になっている。信長は最高所にもうけた自分の居所を、ほかのエリアと隔絶させて絶対性を高め、圧倒的に求心的な支配体制を、城の構造をとおして示したのだろう。これもまた、信長らしい合理的主義の表れだといえる。

しかも、信長の居所にあたる主郭部は、巨石を積み上げた2~3段の石垣で囲まれていた。なかでも目立って巨石ばかりが積まれた最上段は「見せるための石垣」で、家臣に対しても敵に対しても、信長の圧倒的な力を知らしめるねらいがあったと考えられる。

この当時、こうして石垣で囲まれた城自体が、まだほとんどなかった。そんななか、中世を通じて近江(滋賀県)の守護だった佐々木六角氏の居城の観音寺城(滋賀県近江八幡市)は、全山が石垣で積み固められたという点で、先駆的な城として知られる。だが、城全体としては、山の斜面に無数の削平地がもうけられ、それらと主郭との差が小さい。これは権力構造が求心的ではなかったことの表れである。

観音寺城 石垣
観音寺城 石垣(写真=ブレイズマン/PD-self/Wikimedia Commons)

この時代、観音山城よりは主郭の求心性が高い戦国大名の城もあったが、いずれも小牧山城ほど圧倒的ではない。信長にとっては、自分自身に権力を集中させるためにも、小牧山城への移転は必須だったということだ。その目論見があったから、清須城に中途半端に手を加えるのは避けたのだろう。

権力の誇示としての城

だが、いざ美濃を手中にすると、もはや小牧山城では便が悪い。美濃攻略には好適地であっても、その後、西に支配を広げるための拠点としては相応しくない。だから信長は岐阜城に拠点を移した。拡大した権力にとって、小牧山では手狭だったこともあるだろう。

2012年2月18日、金華山の山上にある岐阜城と岐阜城資料館
2012年2月18日、金華山の山上にある岐阜城と岐阜城資料館(写真=Alpsdake/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons)

ただし、標高329メートルの金華山上に展開する岐阜城は、山上部と山麓の二元構造という、古い城の特徴を引きずっていた。そこはさすが信長で、岐阜城の構造を逆手にとって自身の高い求心性を表現した。招かれたイエズス会宣教師、ルイス・フロイスの『日本史』などによれば、山麓御殿は小牧山城と同様に巨石で取り囲まれ、信長の許可なしにはだれも入れない宮殿は4階建てで、内部は障壁画や純金製の金具や釘で飾られていた。上層階からは城下町が見渡せ、この御殿前の防御された入口までは、長い通りに家臣団の屋敷が並んでいた。

信長が岐阜城を徹底改修して、小牧山城の構造を導入しつつ、より豪華にしたことがわかる。そして山上にも、特別な許可なしには入れない御殿や天守が構えられた。フロイスは信長が岐阜城を築いた理由を、自身の権力と、ほかの戦国大名以上の力をもっていることを示すためだ、という旨を書いているが、フロイスの理解は正しいといえる。

そのさらなる発展形が安土城であったことは、いうまでもない。このように信長の先進性も、合理性も、めざした権力のあり方も、居城を移転させたことや、その城の構造を検討するとわかるのである。

香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

元記事で読む
の記事をもっとみる