1. トップ
  2. 小説家・立松和平が訪ねた染織家 ─ 越後上布・中島清志さん

小説家・立松和平が訪ねた染織家 ─ 越後上布・中島清志さん

  • 2026.2.10
撮影=大倉舜二

各地にある染織の産地や個人の作り手によって私たちが袖を通す着物は生み出されています。土地に根づき、風土を生かして脈々と続いている伝統ある手仕事の現場は、色々な意味で厳しい状況にあると言わざるをえません。染め織りひと筋に歩んできた先輩たちを作家の立松和平さんが取材、熟練の染め織り人を辿ってきた道のりを識(し)り、日本が生んだ着物を生み出す人々の心を明かしてゆきます。

※雑誌『美しいキモノ』1999年春号〜2002年冬号の連載記事を復刻しました。

第15回 越後上布〈新潟県〉 ─ 中島清志さん

文/立松和平

糸の流れ、心のゆくえ

雪深い越後の女たちが、 一冬かけて績んだ糸は黄金よりも高価なもの

ある夜、ともに酒盃を傾けていた友人が、突然私にいった。

「夢があるんだ。生涯で一度でいいから、越後上布で着物をつくって、袖を通してみたい。いっしょにつくらないかい」

不意のことに私は驚いてしまった。友人は歌舞伎座でも重要な位置を占め、役者ではないのだが、上等な着物に普段から接している人物である。その男が、生涯の夢が越後上布で着物をつくることだという。いっしょにつくらないかといわれた私は、二人が越後上布を着てならんで歩いている姿を想像してみたりもしたが、夏物の越後上布を着てさてどこにいけばいいのだろうと考えてしまった。

越後上布は普段着といえば普段着で、格式ばる必要はまったくないものの、生き方が問われる着物のような気がする。なぜならば、つくり手がそれだけの人生を込めているからである。苧麻(ちょま)づくりからはじめて、越後上布が織り上がるまで六十工程あるといわれている。その工程が一つでもできなくなると、越後上布は完成することはできない。

その六十工程はどれも辛抱のいる高度に熟練の必要な作業であるが、なかでも苧績(おう)み、つまり麻の繊維である青苧(あおそ)を爪で裂いてごく細い糸にする作業は、気が遠くなる。湿った青苧を口に含んで粗く裂き、裂けたところに爪をかけてすうっと引くとさらに裂け、なお細い糸になる。その太さが、一反分で同じでなければならない。裂いた糸先を一本ずつ捩りあわせて太さを均一に一反分をつなぎ通すのは、至難の術である。雪深い越後の女たちは、ほぼ一冬かかって一反分の糸を積む。これは、目方でいえば黄金よりも高価な糸である。

今につながる完璧な古代の技術。人に難儀を強いるからこそ、こんなにも美しい

新潟県南魚沼郡塩沢町の駅の近くに工房兼住居を構えて仕事をする中田屋織物有限会社の中島清志さんは、精緻で美しい織物をつくる人であるのだが、作家という気位の高さよりも、職人の誠実さを感じさせる人物である。

越後上布そのものが誠実な織物で、なるほどこういう人が制作をしているのだなと話していて安心できる。途中の工程はとばすことができず、一目一目手を抜かず均質に仕上げるのだから、性格の安定した、実直といえる人でなければ、越後上布を織り上げることはできない。

越後上布は十五年前(当時)には年間二百反の生産が目標であったが、現在は着尺で五十反前後である。同時に重要無形文化財に指定されている小千谷縮布(おぢやちぢみふ)は、平成十三年度は着尺で三反だ。小千谷縮布は上布と同じ苧麻糸を使うのだが、緯糸に強い撚りをかけ、しわしわにし、これをシボをつけると呼ぶ。一尺二寸まで広く織って、普通の着物の幅にする。中島さんが製作しているのは、越後上布、古代越後上布と、本塩沢などの絹ものであるが、今回は特に越後上布についての取材をさせてもらった。中島さんは一言一言を選び、いかにも職人らしい誠実なものいいをする。

「苧麻自体が生きもので、気候に合わせて仕事をしなければなりません。糸に気持ちを合わせ、糸と仲良くならなきゃいかん。奥が深いから、のめり込んで入っちゃう。命取りにならないようにしないと」

「魔性ですか」

越後上布の美しさを充分に知っている私は、思わず言葉をだした。中島さんはふっと微笑してつづけるのだ。

「古代からつながってきた技術で、技術そのものは完璧にできてますね。機具(はたぐ)、小道具は改良の余地がないね。改良して楽をしようとしても、元に戻っちゃうね。糸に合わせて仕事するから、機械にはできない。後の人に伝承していかなければならないんだけど、これが難しいんだね。昔は雪が深くてほかになんにもできないところでやったんだから、案外恵まれてたんじゃないかね」

「雪で車も通らない」

屋根まで潜ってしまいそうな雪景色を思い描いて、私はいった。

「男は藁細工、織る人の手伝い、御飯つくり。女は機織り。今は条件変わって、やりにくくなったね」

生活が難儀なほうが越後上布にはいいと、中島さんはさり気なくいったのだ。越後上布は人に難儀を強いる布だ。だからこんなにも美しいのである。

工房の一角では、娘の中島律子さんが居座(いざ)り機(ばた)で越後上布を織っていた。居座り機は高機(たかはた)と違って原始的といえ、機に身体を縛りつける形になる。シマキという腰にまわしたベルトで経糸を張る。足には紐を結び、足踏みして綜絖(そうこう)を開口する仕組みになっている。緯絣糸は、筬(おさ)で軽く打ち込み、つづいて大杼(ひ)で強く打ち込む。衝撃を自分の腰に向かって打つ恰好である。たえずシマキを引っぱっていなければ経糸も緩む。全身を使い、ことに腰が痛くなってくるだろう。一度居座り機につくと、宅配便がこようと、動くことはできない。気候がよくて調子がいい時、七時間で十数センチ織ることができるという。だが律子さんの手元を見ていると、あまりにも遅々とした歩みである。

「だんだん調子よくなっていくと思うんですよ」

経糸、緯絣糸の長さと本数を揃え、機にかけるための綾を作る「伸ベ」の作業。糸に無理がかからないように篠竹製の経箸に通して、経台にかけていく。右奥にあるのが、効率をぐんと上げた撚りかけの機械。 撮影=大倉舜二

私たちの心の中を察したのか律子さんがいうと、すぐ父の声がかけられる。

「最初も最後も同じでなければならないよ。二ヶ月、三ヶ月期間があるわけだから、いつも気持ちを大切にしないと。気分が変わってはならないよ。糸と仲良くして」

「目標は二ヶ月ですけど、三ヶ月かかるんじゃないでしょうか。織りが順調な時はいろいろ考えごともしますけど、糸が切れると、気持ちはそっちにいっちゃいます。自分だけにしかわからない心残りがあっても、一反になって広げてみると、どこだったかはわからない……」

娘は私たちに向かってのようでもあり、自分自身に向かってのようでもあり、父に向かってでもあるようないい方をし、機屋でもある父は私たちに向かって話してくれる。

「農家の人は織り上がると、神棚に一日二日上げておきますよ」

人類がつくりだした究極の布。越後上布には、歴史と未来の両方が織り込められている

越後上布は、「越後上布、小千谷縮布」と重要無形文化財に技術指定されている。磁器の柿右衛門や色鍋島今右衛門など十三指定されているうち、織物では他に宮古上布、喜如嘉の芭蕉布、久留米絣、結城紬(この後、久米島紬が2004年に指定)である。

中島清志さんの越後上布を手に触れさせてもらった。細かな亀甲絣が織り出され、絣くびりから染めから織りから、糸をつくる苧績み以外のすべての工程をこなす中島さんの美意識と技術と個人史と、越後上布自体の持つ歴史と未来と、それらすべてが一枚の布に織り込められているのである。こんなに美しい布は、人生を懸けなければ織り上がるものではないと、誰でも一目見れば思うだろう。越後上布は人類がつくりだした究極の布ではないだろうか。工房から居間にきて、中島清志さんの話を聞いた。

「織物ならば、一筋にいいものをめざすのが根本です。問屋さんとか、着てくれる人のおかげですから。一度、大阪の五十代ぐらいの奥さんから、工房に行きたいと電話もらったんです。越後上布を求めたので、制作者に会いたいと。新潟空港にきて、旅館に寄って、越後上布に着替えてきてくれたんです。感激しましたね。そういう人がいると思うと、ものづくりもていねいにしなければなりません。自分でつくったものは、すべてわかります。着ている人とすれちがうと、自分も涼しくなります。先代が残してきたんですから、これを誰か継いでくれないか、それが問題ですね」

新潟県南魚沼郡塩沢町のあたりでは、苧麻から加工された手績みの糸で織り上げる高級な麻織物が伝わってきた。越後特産の縮布と上布である。塩沢の商人鈴木牧之の『北越雪譜』は天保八〜十二(一八三七〜四一)年に刊行され、当時ベストセラーになった書物なのだが、雪晒(ゆきざら)しなど独特のつくり方をする麻布のことが細かく述べられている。昭和十年八月三日に塩沢町に生まれ、中田屋織物有限会社の四代目の中島清志さんの仕事は、その深い伝統の上にのっている。

商売とものづくりの二本柱を背負い、責任ある立場で無我夢中でやってきた十九歳の時
中島さんの制作品。上段の中、ベージュ地に葡萄唐草模様の反物は、最近取り組んでいる経にラミー糸を使った古代越後上布。細かい絣柄を織ることが可能に。他が重要無形文化財の越後上布。右端、白地の十字詰亀甲絣は、1300本の経糸の内、211本が絣糸になっている。 撮影=大倉舜二

「中学卒業して、十六歳から修業してます。朝六時に起こされて、居間から茶箪笥から掃除して、それから仕事に入りました。大工になりたいなと思っていたけど、親父に機屋へいけといわれて。はじめは糸結びの仕事で、次に撚り掛けをした。織物は撚りが大切で、地風(風合い)は撚りからきます。撚りが原点で、その上に柄がのる。

当時は冬になると工場に人が多くなり、十人ぐらいになったかな。機を教えてた。機を知らないと嫁にいくにも困るって、花嫁修業だな。つらいこともあったかな。盆、暮れ、お祭に小遣いもらうだけだ。逃げだしたこともあったな。現場の責任者のおばさんに泣かれたこともあったなあ。実家に帰って、二、三日泊まってくる。どこにもいくところないから。親は何もいわなかったなあ。いつの間にか帰って、そんなことをくり返しているうち、養子にするとかなんとか話があった。三代目には子供がなかったから。

三年ぐらいたって三代目の親父が亡くなり、その翌年おばさんが亡くなった。十九歳の時、買い継ぎに商いに行った。買い継ぎとは、問屋と機屋の間を結ぶ仕事だよ。出機に下ごしらえしてだす。絹が多かったな。当時は塩沢御召といってたけど、今は本塩沢といいます。緯糸に強い撚りをかけてシボをだす。

無我夢中でやってきました。商売しなくちゃならない。責任ははたさなくちゃならない。十九歳で力がないのに、すべてやってきました。師匠もいないのに、全部覚えてきた。見て、研究して、覚えて。独学が多いんです。どうすればよいか工夫するんです。越後上布は完成されているから、工夫の余地は少ないけど、奥の深い織物だから、つくっているのが一番楽しい。

緯糸の絣くびりの作業。緯糸に墨つけした絣の位置を糸でくくっていく。くびりの力の入れ具合ひとつをとっても熟練の技が必要だ。当初は織物工場だった昭和16年に建てられた木造の工房は、今は中島さんの創作の場である。 撮影=大倉舜二

いろいろ下積みが多かったな。昭和三十一年頃だったな。問屋さんにいく時は、玄関の戸開けて挨拶すればそれでいいんだ。次は玄関に上げてもらえばそれでいいんだ。お茶をだしてもらったら、取り引きしてもらえるんだ。そう先輩からよくいわれた。

先輩のいうことはよく聞いたね。この年になって、そういうこといってくれる人がいなくなって淋しいね。

昭和三十六年頃から、多少よくなってきたかなあ。問屋に反物を卸すようになって。山登りが好きで、日曜日になると、晒し場(雪晒しで仕上げをする)の人とふたりで日帰り登山をした。そういう楽しみを持てたことがよかったねえ。

昭和五十年頃、オイルショックの後で、着物離れの声がでてきたなあ。まだその上にあぐらをかいていたねえ。可愛がられていた卸先の問屋の社長にいわれた。景気のいい時には抑えておけ、大きくするなって。

昭和六十一年頃からバブル経済がつづいて、五年ぐらい越後上布の受注がつづいた。今でも忘れもしない。うちの方針は、大きくならない。最低の規模でやる。追い詰められた中でこなしてきたということがよかったのかもしれないね」

一代記とでもいう話を、中島清志さんは気負いもなく、淡々と話してくれた。そばにいる奥さんと娘さんに向かって語っているように、私は感じた。夫として父親として、男は心の中のことを話す機会はめったにないものである。

「どんな時代でも、苦にしません。原料のからむし畑つくりから、苧麻づくり、全工程やればできます。それぞれに専門家はいるけど、それぞれは極秘です。技術を継いでいかなくちゃならないんだから、うちは企業秘密はありませんよ」

中島清志さんがこういうと、奥さんが横から口をだす。

「まあ我慢強いというか、なんでも自分でやらないと気がすまない」

「自分で正しいと思うものは通す」

口調はまことに穏やかなのだが、中島さんは決然という。このことを正面から、なんの衒(てら)いもなく、ごく普通にいえる親父は、現代日本に何人いるのだろうかと、私は思ってみる。

最大の難題は後継者の育成。父が辿ってきた「麻」との道を今、娘も歩み始めている

中田屋織物では、越後上布は最盛期に年間三十反仕上げた。今は越後上布は七反から八反、塩沢紬、本塩沢、越路絹絣などの絹物は三百反から四百反である(当時)。重要無形文化財の越後上布をできるだけつくりたいというのが、中島さんの希望である。

「これから後継者がどうなっていくか、どうやって引き継いでいくか、難問ですね。好きで入っただけでは駄目で、生活できなければなりませんから。分業されていたのが、だんだん一人で多くやらなければならなくなってきた。糸づくりの苧績みは、高齢化が進んで、勤めにでられない人に教えています。むいている人見つけて、教えて、頼んでいます。一冬で一反分しか苧績みはできません。はじめから全部やったら、一年で着尺一反織り上がればいいほうですから」

後継者と目されている昭和三十八年五月二十二日生まれの娘は、この長い伝統を正面から受けとめようとしている。

「まだ、ただやっているだけで。責任が重いですから、覚えなければ仕方ないでしょう。やり方を覚えても、熟練しないとしようがないですし。糸道、糸の流れ、工程の流れ、麻と絹は扱い方が違います。絹のほうがいうことをききやすいんです。どこまでいったら一人前か......」

娘が問うと、父が答える。

藍地に井桁と松竹梅の越後上布を居座り機で織るのは娘の律子さん。8年前に東京から実家に戻ってきてから織り始めたとは思えない仕事ぶりだ。「染織作家になるというより、父の後を継ぐということに興味があります」 撮影=大倉舜二

「一人前なんてないんじゃないか。亡くなってから、あの人はよくやったと評価がでるんじゃないかな。私もまだ一人前じゃない。工程の流れがあって、お客さんがあって、それで評価が定まるんだから。一人前になったら終わりだ。一人前にならんほうがいい。麻は絹にくらべたら奥が深い。湿気、温度で麻は変わる。冬のほうが仕事はしやすい。冬の雪が自然で、糸がよくなる」

麻は人間に労苦を強いると私が横から口を挟むと、父はいう。

「それができないと、麻に負けたことになる」

「とにかく一歩一歩できるところからやるしかない」

娘がいい、父が受けとめる。

「ぶつかってくればいい。そこでこっちが応えられるか。人生はそういうもんでしょう。父親としては期待してるけど、負担にしてもらいたくないな」

越後上布を後世に伝えていきたいと、熱烈に願っている父は、娘の人生について考えないわけにもいかず、微妙で、複雑な立場である。

立松和平

撮影=大倉舜二

たてまつ・わへい◯ 1947年栃木県生まれ。早稲田大学政治経済学部在学中より執筆活動に入り、処女作『途方にくれて』を雑誌『早稲田文学』に投稿。『自転車』で第1回早稲田文学新人賞。80年『遠雷』で野間文芸新人賞を受賞、以降精力的に作品を発表。93年『卵洗い』で坪田譲治文学賞、97年『毒─風聞・田中正造』で毎日出版文化賞、07年『道元禅師』で泉鏡花文学賞。『美しいキモノ』では「染めと織りと祈り」(1999年春〜2002年冬号)も連載、温かな視点で好評を博す。行動派の作家として知られ、晩年は自然環境保護問題にも積極的に取り組む。2010年逝去。

撮影/大倉舜二

『美しいキモノ』2002年秋号より

◯着物にまつわるお便りを毎月お届け。

元記事で読む
の記事をもっとみる