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「井田さんのラフを拝見すると、いつも涙が出るんです」著者の“好き”を詰め込んだ『家が好きな人』の制作秘話【井田千秋×担当編集インタビュー 前編】

  • 2026.1.25

緻密で温かみのある生活描写が持ち味のイラストレーター・マンガ家、井田千秋さん。2023年に刊行された『家が好きな人』(実業之日本社)は累計発行部数20万部を突破し、日本はもちろん海外でも多くの読者を獲得している。

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そんな井田さんが初の作品集『おさまる家 井田千秋 作品集』(実業之日本社)を刊行。作家と編集者の関係に迫る連載「編集者と私」第4回では、井田さんと担当編集者・鎌倉楓さんに登場していただき、二人三脚で歩んできた日々、そしてこれからのことをうかがった。

井田さん特別描き下ろし! 井田さん×鎌倉楓さん
井田さん特別描き下ろし! 井田さん×鎌倉楓さん

イラストと文字が1枚の絵になった唯一無二の作風

──はじめに、井田さんがイラストレーター・マンガ家の道に進んだ経緯を教えてください。

井田千秋さん(以下、井田):大学卒業後はIT系企業に就職し、絵とは関係のない仕事をしていました。もともと絵を描いたりマンガを読んだりするのが好きで、会社勤めをしながら趣味で続けるつもりでしたが、働き始めるとやっぱりそれも難しくて。気づけば趣味がまったくなくなっていました。

そのまま25、6歳になり、30歳が近づくにつれて「このままでいいのかな」「好きなことをしないまま年を重ねて、この仕事をずっと続けるのかな」と思うようになって。そこで、まずは趣味を取り戻そうという気持ちで、また絵を描き始めたんです。

最初のうちは1日10~30分ほど、コピー用紙にペンで簡単な落書きをするところから始めましたが、続けるうちになんとなく作品らしきものができてきて。そうなると、人に見てもらいたくなり、pixivに投稿したり、SNSを始めたり、展示やコミティアに出たりと少しずつ活動が広がっていきました。そのうち、少しずつ欲が出て「絵を仕事にできたらいいな」と考えるようになって。そんな中、会社で異動の話が出たので、いいタイミングだと思い、退職を決めました。

──次が決まっていない状態での退職だったんですか?

井田:そうなんです。なので、まずは描かないことには始まらないと思い、目についたグループ展やイベントにはすべて申し込んで、それを締め切りに作品を描き続けました。そうやって作品を増やし、同人誌を作り、SNSも始めて……と1年ほど活動していたところ、初めて個展を開くことになったんです。そこで思った以上にお客さまに来ていただき、温かい反応をいただいて。「覚悟を決めて取り組もう」と思い、イラストレーターとして開業届を出しました。

──鎌倉さんは、井田さんの作品をどのタイミングで知ったのでしょうか。

鎌倉楓さん(以下、鎌倉):コミティアで拝見しました。温かくて素敵な絵柄はもちろんですが、私は何よりも井田さんの言葉が大好きで。雑念がなく、こちらに寄り添うような言葉で心にスッと入ってくるんです。書き文字もきれいなうえに、独特の味があるんですよね。文字も含めて1枚の絵として完成されていて、唯一無二。ぜひ一緒にお仕事をしたいと思い、お声がけしました。

井田:ありがたいです……。私はブログをたまに書くくらいで、文章をしっかり書くようになったのは同人誌がほぼ初めてでした。

──イラストと文章を組み合わせた作風は、どのように生まれたのでしょうか。

井田:最初のうちは、描きためた絵を1冊にまとめて同人誌を作っていましたが、コミティアにはマンガやエッセイを描いている方がたくさんいらして、読み物に憧れを抱いていました。マンガはハードルが高かったのですが、絵に文章を添えるイラストエッセイなら挑戦できるかもしれないと思ったのがきっかけです。ちょうどアナログからiPadに移行した時期でもあったので、デジタル作画の練習も兼ねて同人誌『たとえばの話』を作りました。

──緻密で繊細な絵柄をデジタル化するには、苦労も多かったのではないかと思います。デジタルへ移行しようと思ったきっかけは?

井田:アナログで描いていた頃にも、まずモノクロからカラーイラストへと移行する時期がありました。水彩絵の具で色をつけるようになったのですが、失敗も多くて。「これだけ時間がかかると、お仕事にするには難しい」と思い、デジタル作画に魅力を感じるようになりました。

そのタイミングで、iPadで絵を描く機能が充実してきたので挑戦することに。私の場合、アナログではザラザラした水彩用紙に製図用の細いペンを引っかけるように描き、かすれたような表現をしていました。ですが、デジタルで同じようなかすれ具合を表現するのは難しくて。そこで、無理にアナログを再現するのではなく、iPadでしっくりくる描き方、描きやすいブラシを探すようになったんです。その試行錯誤の場が、『たとえばの話』シリーズでした。

作家が好きなものを形にしてもらう

──鎌倉さんが井田さんにお声がけした時、作りたい本の具体的なイメージはあったのでしょうか。

鎌倉:弊社には「リュエル(ruelle)」というレーベル内にコミック&イラスト集を刊行するGraphicomiX(グラフィコミックス)というシリーズがあり、そこから出版できたらいいなと思っていました。ただ、このシリーズは基本的に作家さんに好きなものや得意なものを描いていただくというコンセプトです。そこで、まずは井田さんにお会いしてみようと思いました。

お会いする前は、井田さんのスタイル、この素晴らしさをどうすれば読者に伝えられるか、すごく悩みましたね。いくつか案を考えてはいたものの、やはり井田さんのお人柄や好みを知ってから一緒に考えたいなと思って。そこで実際にお会いしたら、井田さんが作品そのままの素敵なお人柄で、すごくしっくりきました。その際、「マンガはどうですか?」とお聞きしたところ、「実は描きたいと思っていたんです」と言ってくださったんですよね。

井田:「何でも大丈夫です。描きたいものを最優先して本を作りましょう」という空気を、最初にお会いした時からすごく感じていました。もともと『リュエル』のファンだったので、ぜひこのレーベルでマンガを描きたいとお話ししました。

鎌倉:そこから話が進み、まずは井田さんがやりたいことを同人誌にまとめてみることに。そこで出来上がったのが、同人誌版『家が好きな人』でした。初めて拝見した時、あまりにも素晴らしくて涙が出てきて。私、今でも井田さんから上がってくるラフを拝見すると、涙が出てしまうんです。「ぜひこれでいきましょう」ということになり、単行本化しました。

井田:お話をいただいたものの、アイデアをまとめるのが難しくて。そもそもマンガを描いたことがなかったので、「自分に描けるマンガってどんなものだろう」「ずっと部屋や生活の絵を描いてきたけれど、それをマンガにするってどういうこと?」と悩んでしまったんです。とにかく一度実験的にまとめて、「こういうイメージでいけそうです」とプレゼンできる形にしないと進められないと思い、同人誌版を作りました。

──鎌倉さんからオファーを受ける前にも、商業出版のお話はあったのでしょうか。

井田:そうですね。実は2冊目のマンガ『ごはんが楽しみ』(文藝春秋)は、鎌倉さんより少し前にお話をいただいていました。あちらは「コミックエッセイを描きませんか?」というご依頼で、『家が好きな人』とは違うジャンルでしたが。

コミックエッセイも、ご依頼をいただいてすぐ挑戦したのですが、難しくて一度ストップしてしまいました。その間に『家が好きな人』を描いたことで、自分の中でマンガに対する親しみが増し、描くのが楽しいと思えるようになったんです。そこから、あらためてコミックエッセイに進んでいったという流れです。

それ以前にも、アナログイラストの絵本などのお話をいただいていましたが、なかなかチャンスを生かすことができなくて。自分の中で「こういうことをやりたい」というはっきりしたイメージが持てずに頓挫してしまったり、アイデアをいただいても私に技術がなかったりして、挫折を重ねていました。そんな中、鎌倉さんからお話をいただいたので、今度こそちゃんと形にしたいという思いも強かったんです。

鎌倉:私としては、とてもラッキーでした。

──タイミングが良かったというのもありますが、井田さんがやりたいことを最優先したからこそ、『家が好きな人』が生まれたんでしょうね。

井田:そうですね。鎌倉さんはもちろん、実業之日本社全体に同人誌文化を大切にする空気があるのだと思います。作家が熱量を持って前のめりで制作に取り組める環境を、すごく丁寧に整えてくださるんですよね。同人誌と違い、間に編集さんが入ってサポートしてくださるのも、ほどよい緊張感があってありがたかったです。

鎌倉:ありがとうございます。私の上司も、「作家さんが嫌々作ってもいいものはできない」という考え方で、私もその教えを受けて育ってきました。ですから、私も作家さんが好きなことを形にしてもらうことを大事にしています。そもそも私が口を挟むよりも、作家さんのほうがずっとセンスがありますよね。もちろん、それが作品にとって良くないと思えば、意見をお伝えしますが、好きなことを描いていただいたほうが絵も生き生きとしますし、それが読者にも伝わると思っています。

「私はこんなものを描きます」という名刺代わりの1冊に

──先ほど「ほどよい緊張感」というお話がありましたが、すべてをひとりで手掛ける同人誌と違い、商業出版では編集者が伴走します。それによって新たに生まれたもの、井田さんの中から引き出されたものはありましたか?

井田:『家が好きな人』は同人誌版で方向性を固めたものの、120ページ近い1冊をどう構成するか悩みました。ネタ切れしないか、途中で飽きてしまわないかという不安もあり、鎌倉さんに相談したところ「オムニバス形式でいくつかのお部屋を描くのはどうか」という話が出てきたんです。

そこで5軒分のアイデアを考えていったところ、鎌倉さんから「これからひとり暮らしを始める人を登場させてもいいかもしれませんね」とご提案いただいて。5章の「アキラさん宅」は、そこから生まれたエピソードです。まっさらな状態から暮らしが始まっていく様子を描くことができました。

 『家が好きな人』より
『家が好きな人』より

同人誌は自分勝手に作れるのが魅力でもありますが、『家が好きな人』では制作中に第三者の感想をいただけるのも新鮮でした。私が描くのは、生活のささやかなこと、ごく個人的な暮らしのことばかりです。わざわざマンガにするようなことでもないですし、読者からどんな反応が返ってくるか、世に出すまでわかりません。鎌倉さんから「ここが良かったです」と具体的に言っていただけると、安心して進められました。

──鎌倉さんは、井田さんに寄り添う際に意識したことはありますか。

鎌倉:いえ、何も考えていません(笑)。井田さんの描くものは本当に素晴らしくて、「こうしたほうがいいです」と修正案を出すこともなく、「最初に読ませていただいてうれしい。こんな幸せな仕事があるのか」という感じなんです。5章のアイデアも、私だけのものではありません。社内の意見も取り入れましたし、井田さんのお力で描かれたものだと思っています。

──『家が好きな人』は、それまでの作品と比べて住む人の物語性がより強く打ち出された作品だと感じました。1冊描いてみていかがでしたか?

井田:もともとキャラクターよりも“家”が主役で、家の中を妄想するのが楽しくて絵を描いてきました。マンガを描くことになった時も、「マンガという表現を借りて今までやってきたことを描いてみよう」というのが出発点でした。

家を描くとなれば、そこには当然住人も出てきます。起承転結のあるストーリーを作るのは私には難しいので、住人が部屋でどう過ごすのか、動きを追うことにしました。ご飯を食べる、寝るといった日常の動作をカメラで追い、それをコマ割りしてマンガにする。そうなると、キャラクターの表情、習慣、しぐさを自然と描くことになり、人物像をより具体的に、よりミクロな視点で解像度高く想像するようになっていきました。

──この人はどんな家に住み、どんな家具に囲まれ、どんな服を着ているのか。住人の生活を丸ごと想像する感じですね。

井田:それがすごく楽しいんです。家を描く時はいろいろなアプローチがあるのですが、たとえばひとり暮らしを始める女の子なら、やっぱり初めてのひとり暮らしだし、まだ若くてお金もそんなにないから、コンパクトなワンルームに住んでいるかなと想像していきます。そこから間取りを考え、「この中にどうやって家具を置くかな」「いきなり高いソファはちょっと勇気が出ないよな。でもベッドは欲しいな」「ベッドでスペースを取ってしまうとダイニングテーブルを置く場所がないな。小さいテーブルをこの辺に置くか」と暮らしぶりを妄想しながら、物を増やしていくんです。

ある程度イメージできたら作画に入りますが、絵を描きながらも「やっぱりここにこういう物が欲しいな」「ここにティッシュがあると便利だな」と足していって。描きながら妄想がどんどん膨らんでいく、楽しい作業ですね。

鎌倉:そうやって描いているからこそ、何度読み返しても発見がありますし、隅々まで観たくなるんですよね。本当に素晴らしい本ができたなと、私も自信をもって送り出すことができました。井田さんの代表作のひとつになったと思いますが、いかがでしょう。

井田:この本ができたことで、自分の方向性が定まりました。それまではおうちの絵を描くのが好きという漠然としたイメージだけがふわふわあって、私はどういう仕事をしていけばいいのか、何が得意なのか、道筋が見えていなかったんです。「私はこういうものを作ります」という名刺代わりの1冊ができ、やっとスタートラインに立てたような気がしました。

本が好きな人は家も好き

──現在、累計発行部数は20万部に達しています。どのような形で人気に火がついたのでしょうか。

鎌倉:段階的にじわじわ広がっていった印象です。最初に火がついたのは発売前。井田さんがSNSに投稿したマンガが次々にバズり、そこで知ってくださった方がたくさんいました。発売後もメディアに取り上げていただきましたし、弊社でも新聞広告を積極的に行いました。それもあって、読者層も幅広いですね。小学生から70代まで、お手紙をいただいています。

井田:書店さんの力も大きいですね。商業出版ならではだなと思いますし、いつも本当に心強いです。

鎌倉:もともと井田さんのファンだった書店員さんも多く、発売直後から大きく展開していただきました。重版後も継続して応援してくださっていて、本当に愛していただいているなと感謝しています。

──書店員さんに支持される理由として、「井田さんが描く家には本がたくさんある」という点も大きいのではないでしょうか。

井田:確かに、「どの家にも本棚がある」という感想をいただいたことがありました。私が家の風景を想像すると、当たり前のように本棚が思い浮かぶんですよね。指摘されるまで意識していませんでしたし、逆に「そうか、本棚を置かない方もいらっしゃるのか」と気づかされました。

鎌倉:過去の同人誌でも、書架を描いていますよね。私も大好きです。

井田:本が好きな人は、家も好きですよね。家にこもって本を読むからでしょうか。図書館みたいな家、壁一面に本棚のある家には憧れがありますし、私が描く時もその気持ちが反映されるのだと思います。

鎌倉:『家が好きな人』4章のミドリさんの家に憧れます。

 『家が好きな人』より
『家が好きな人』より

──井田さんの作品には、海外でもたくさんのファンがいるそうです。どのような反響が届いていますか?

鎌倉:『家が好きな人』はすでに12言語で発売が決定され、ヨーロッパでも人気です。フランスやスペインでは、「女性マンガ」ジャンルのランキングで上位に入っています。こたつなど、日本独特の文化が受け入れられるのかなと思っていましたが、人気が高くてありがたいですね。新刊の『おさまる家 井田千秋 作品集』も、日本語・韓国語・タイ語・中国語繁体字の4言語で同時発売になります。

井田:SNSに投稿したイラストに座椅子を描いた時、海外の方から「これは何?」「椅子なのに足がない。え、床に座るの?」と不思議がる反応がありました(笑)。「これは座椅子と言って、日本では床に座る文化があるんです」と説明したのを覚えています。

海外の読者さんからは「COZY」という表現で感想をいただくことがあります。「こぢんまりして落ち着く空間」というような意味だと思いますが、そういう雰囲気を好きな方が国を越えてたくさんいるんだなと感じています。

取材・文=野本由起

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