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長屋暮らし/絶望ライン工 独身獄中記 第61回

  • 2026.1.21

『絶望ライン工 独身獄中記』を読む

東海道川崎宿から川を渡った向こう岸、六郷大橋の辺りに男の棲み処があった。

長屋の店子で唯一の独り者であり、六畳の部屋に薄い布団を敷いて寝起きした。

日が昇る前には起き出して、竈に火を入れ飯の支度を始める。

女房に先立たれた気の毒な男やもめを演じてはいるが、実のところ結婚というものをした事がない。

東北の田舎に年老いた父母を残し、街道沿いで暮らしてもう二十年になる。

気が付けば齢四十を超え、醜く太った男に若い時分の面影はない。

今朝も麦を混ぜて飯を炊き、鍋に湯を沸かして味噌汁を作った。

汁の実は刻んだ葱、味の師も流儀もなく全て我流であった。

茶碗に飯をよそい、味噌汁と漬物で神妙に食う。

独り者の食事は実に孤独である。

静かな六畳間にぱりぱりと漬物を齧る音だけが聞こえた。

茶碗を水に浸け、釜を覗くとまだ飯が残っている。

ぎゅうと掴んで握り飯を拵え、竹の皮で包んで昼に使う弁当にした。

明るいうちは仕事をせねば暮らしは立ち行かぬ、男は通いの職人である。

東海道を品川の方にしばらく歩くと工房があった。

流れ者の自分を拾ってくれた親方には頭が上がらねえや。

そんな気持ちであるから職場には真面目に通った。

男は鏡職人である。といっても鏡台や姿見を作るわけではない。

もっぱら研磨、所謂「磨き職人」であった。

やみくもに磨くのではなく、馴染みの得意先が引いた図面通りに磨く。

それにはzygoのレーザー干渉計と和算アルゴリズムを用いて研磨面を定量的に測定する必要があったが、あいにく工房にそんなからくり天秤はなかった。

燭台に灯した蝋燭の明かりを頼りに、外観検査のみでなめらかな鏡面に仕上げていく。

こうして磨かれた12インチシリコンウエハは、半導体として江戸に流れて算盤の材料になると聞く。

「おい、今夜ちょいと付き合わないか。例の店で煮込みでも食おうぜ」

昼時に風呂敷を広げ、握り飯を頬張っていると職人仲間に声をかけられた。

酒の誘いである。といっても女のいる店じゃあ値が張っていけねえ。

職人稼業の僅かな日当で楽しく飲むなら裏通りの「晩杯屋」がお決まりである。

酌をする女はいないが、酒も肴もなかなかに旨かった。

へい、つきあいましょ。

それだから仕事上がり、二人は連れ立って暖簾をくぐる。

「おやじ、酒だ。アツくしてくれ。それと煮込みに玉子入れておくんな」

飯台に腰掛けはなく、客は立ったまま酒を飲む。

この頃流行り始めた「立ち呑み屋」というやつだ。ちょっとした料理や刺身、干物、漬物などを出して酒を飲ませる。

酒は一合八文、煮込みといわしの丸干しは五文で食べることができた。

職人の日当は三百文、ひと月働けば二両であるから長屋暮らしの貧乏職人にはまったくありがたい店である。

運ばれて来た酒をアチチと飲り、煮込みに唐辛子を振って食う。

銚子を並べていわしを齧り、他愛もない話をして二人は大いに飲んだ。

店を出て大橋を北と南にそれぞれ別れ、夜風に浮かれてフラフラ歩く。

蕎麦でも食って帰ろうか。一膳飯屋に寄るのもいいな。それか噂の──

甘いタレで炊き込んだ牛の肉を、飯の上に乗せて出す店が街道沿いにあるらしい。

鶏卵落として食べるのが粋ってもんだぜ、いっぺんやってみな。

そう職人仲間に聞いた事を思い出した。たしか「よしのや」とかいう飯屋だ。

夜道を宿場町の方まで歩くと、向こうに明るい提灯がたくさんぶら下がっているのが見えた。

川崎まではまだ遠い。この明かりの正体は鉄火場である。

銀色の玉を弾いて釘目を通す。玉が入ると羽板が回る。

それに書かれた絵柄を揃えて当たりだとか、ハズレだとか騒いで金を賭ける遊びだ。

男は以前、軽くアソぶつもりが一両取られて痛い目を見た。

それ以来賭場には近寄らぬが、どういう訳が今夜は不思議と勝てる気がする。

吸い込まれるように小屋に入って玉を借りる。パチン、パチンと弾いて羽板を回す。

くるくる回って止まったのは絵柄ではなく、「七七七」と並ぶ文字だった。

小屋を出る頃には財布がずしりと重い。一分銀が三枚も増えていた。

今夜はツイていやがる。どれ、岡場所でも行ってみるか。

飲む、打つと来たら次は女と決まっている。

橋を渡り、川崎の方まで半刻ほど歩く。賭場で稼いだあぶく銭は、その日のうちに使うに限るのだ。

そうして辿りついた色町・川崎堀之内。

右も左も遊郭がぎらぎらと並び、年増の女将がこっちへおいでと客引きしている。

「お客さん、ツイてるよ。今夜は新しい子が入ったんだ。ちょいと見ていっておくれ」

すすめられるまま妓楼の格子を覗くと、若い娘が座っている。

小麦色の赤毛に大きな黒目、肉付きのいい腿から腰のふくらみ。ひと目で男は気に入った。

お前、うちに来るかい。貧乏長屋の暮らしだが、一緒に愉快に暮らそうぜ。

身請け料は存外に高く、財布がカラになった上借金まで作ったが、男は後悔していない。

東海道川崎宿から川を渡った向こう岸、六郷大橋の辺りに二匹の棲み処があった。

長屋の大家の許しを得て、六畳の部屋に薄い布団を敷いて寝起きした。

男の暮らしは変わらない。明け方起きては働きに出て、夕暮れトボトボ帰って来る。

ただ近頃どういうわけか、めっきり付き合いが悪くなった。

仲間の誘いを断って、寄り道もせずにまっすぐ帰って来るのである。

なんてったってお前がいるからなァ、なあお珠。

珠と呼ばれた小さな相棒が、ワンと返事をした気がした。

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