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「70代になると色々とガタが来る」人生の終わりを意識した三浦友和が明かした“夢”とは?【ベスト記事2025】

  • 2026.1.3

2025年1年間で特に人気を集めたCREA WEBの記事を発表! あの映画やドラマのヒットの理由から、気の利いた手土産、そして、じっくり読みたい注目の人のインタビューまで。たっぷりお楽しみください。(初公開日 2025年9月11日 ※記事内の情報は当時のものです)


三浦友和さん。

穏やかなトーンで、ひとつひとつの質問にじっくりと答えてくださる三浦友和さん。プライベートでは同じく芸能界で活躍中のおふたりの息子さんを持つ父親でもあります。

後篇では、前篇に引き続き、映画『遠い山なみの光』での役作りや戦争への想い、そして、三浦家での息子さんたちのとの関係性などについて伺いました。


自分の息子には「やりたい仕事なら、10年は頑張れ」と

三浦友和さん。

――今年は第二次世界大戦後80年という節目の年でもあります。先ほどの話にもありましたが、映画『遠い山なみの光』で演じられた緒方は戦後に生きづらさを感じた男性だと思います。今回の舞台となった長崎という土地に対しての想いを教えてください。

我々世代は今の若者よりはやはり想いが深いかもしれないですね。僕の父は出征していませんが、僕の父親世代はみんな兵隊に取られています。残酷な話もたくさん聞いてきましたから、戦争自体、近しいところにあると思います。

広島はもうずいぶん前ではありますが、原爆資料館も訪れましたし、長崎もロケなどで訪れています。そういう意味でも決して遠くないところに存在しています。

――役作りで特に意識されたことはありますか?

緒方は戦後に変わってしまった世の中を見て、自分のことを反省する瞬間もたくさんあったと思います。自分がやってきたことはなんだろうと振り返って、ものすごく後ろめたさを感じているんです。

息子を戦争に送り出し、一度は「お国のために死んで来い」といった父親です。息子はそんなふうに送り出した父親を絶対に良くは思っていない。

決していい関係とは言えない息子夫婦とはあえて別のところで暮らしていたのに、緒方はある目的で長崎に帰郷し、彼らの家をわざわざ訪ねていく。「なぜそこにいるのか」ということを観ている方に感じていただけるような芝居がしたいと思いました。

――三浦さんにはご子息がふたりいらっしゃると思います。息子さんたちとの関係性を築くのに、大切にされていることなどはありますか?

時代が違うから、まったく考え方も違いますよね。僕らは僕らで、我々の父親世代とも考え方がまったく違う。ある意味、反面教師にしてきましたから。かつ、自分で自由に選んでこの仕事をやってきている。妻もそうでしたから。

だから、息子がこの仕事をやりたいと言ったときは反対も出来ないですし、「最低でも10年はやれよ」ということだけ伝えました。10数年経っても頑張っているから、いいんじゃないですかね。それ以外のことは何も望まないですし、何も言ってないです(笑)。

運にも縁にも恵まれた人生 でも、それが分かるのは後になってから

三浦友和さん。

――三浦家の家訓、のようなものはありますか?

ないですね(笑)。そんな立派なものがあったなら、そもそもこういう生き方を自分がしていないんじゃないかな。

――「やりたいことをやりなさい」という教えだったんでしょうか。

というよりも、僕自身もやりたいことをやってきたという覚えもなくて(苦笑)。なんとなく、やりたいことがないからこの仕事に入っちゃった、みたいな部分がありましたから、「やりたいことはやったほうがいいよ」とも人には言えないですしね。

自分の生き方が揺れていたんです。でも、いろんなご縁や運に恵まれて、ここまでこの仕事で生活できているということが奇跡だと思っています。本当に、運と縁に恵まれないとダメだから。

そういう意味では、息子たちは難しい世界に入ったなと思っていますよ、今でも。

――年齢を重ねられて、“役者”という職業について向き合い方が変わってきた、ということはありますか?

向き合い方は自然に変わっていきました。デビューしてもう50数年になりますが、最初の10年は右も左も分からずにいて。望んで入った世界ではなかった……というと言い方が悪いですが、あっという間にデビューが決まって、あっという間に何となく顔と名前が知られて。映画青年でも演劇青年でもなかったのに、“俳優”という仕事を“柄”だけでやらせてもらっていました。本当に恵まれていたんです。それはあとから気がつくんですけれど。

なので、若いころはあまり真剣に考えてなかったと思います。そこから段々と真面目にやろうと思っていくのですが、それでもまだ、仕事の中では自分のことしか考えていない時代が長かった気がします。

――いくつくらいから、その考えに変化が現れましたか?

30代、40代を経て、50代くらいですかね。その頃から、実は僕の仕事は“この作品を作っているうちのひとり”だということに気がついたんです。本当に当たり前のことなんですが、この現場にいるスタッフ、キャストを全部合わせて、その中のただひとりなんだってね。

出演者ではなくて、俳優でもなくて、その作品に関わっているひとり、という考え方にどんどん変わっていくんです。ようやく、そんなふうに思えるようになりました。

三浦友和さん。

――CREAの読者層は30代女性の割合が多いです。三浦さんからそれくらいの年齢の女性に生き方のアドバイスはありますか?

結婚している方も、していない方もいらっしゃいますよね。仕事をしている方も、専業主婦の方もいらっしゃるでしょう。どちらも素晴らしい仕事だと僕は思うんです。社会で働くこともそうだし、主婦の方もそうだし。自分のやっていることに誇りを持てるような、いろんな方との関係性を築いていくのがいいんじゃないかと思います。それは会社の人かもしれないし、家族や友人かもしれないし。

――先ほど「ご縁に恵まれた」と仰っていましたが、それはやはり“関係性”を大切にしてきたからこそですね。

運や縁というものは、後で気づくんです。仕事でも結婚生活でもそうですが、本当に良い人に恵まれたというのは後で気づく。それまでお互いに「いい関係でいよう」と努力をしてきた結果かもしれませんが。おそらくね。

――最後にひとつ、教えてください。これから先の人生で、個人として叶えたい夢はありますか。

ないなぁ(笑)。そんなふうに考えたことがない。恵まれてるんでしょうね、本当に(笑)。

でも、絶対にいつか終わりが来るのだということは、60歳を過ぎたころから考え始めました。還暦を迎えたころにはまだお袋が元気だったので、「60歳になっちゃったよ」って話したら、「まだまだこれからよ」って言われて。

それは今こうやって年を重ねてきて、身に染みて分かりました。60代はまだ全然元気なんです。でも70代になると色々とガタが来る。お袋は95歳まで生きたけれども、80歳超えて元気で仕事をしていられたら素晴らしいなと思っていて。その年齢までこの仕事ができる体力と頭が残っているといいなあと思います。それが夢かな。

三浦友和(みうら・ともかず)

1952年1月28日生まれ、山梨県塩山市(現・甲州市)出身。1972年のTBSドラマ『シークレット部隊』で俳優デビューし、1974年には映画『伊豆の踊子』で山口百恵さんの相手役に抜擢され、第18回ブルーリボン賞新人賞を受賞。その後も、『台風クラブ』、『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズ、『沈まぬ太陽』、『アウトレイジ』など数々の話題作に出演し、日本映画界の第一線で活躍し続けている。2012年には紫綬褒章を、2023年には旭日小綬章をそれぞれ受章し、その芸術的功績が国からも高く評価されている。

文=前田美保
写真=佐藤 亘

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