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「ああいう女方、いると思いました」女方役者・河合雪之丞が、映画『国宝』を観て「すごい」と感じた俳優とは?【ベスト記事2025】

  • 2025.12.30

2025年1年間で特に人気を集めたCREA WEBの記事を発表! あの映画やドラマのヒットの理由から、気の利いた手土産、そして、じっくり読みたい注目の人のインタビューまで。たっぷりお楽しみください。(初公開日 2025年12月6日 ※記事内の情報は当時のものです)


中学卒業後、一般家庭から歌舞伎の世界へ。

ここでは、映画『国宝』の主人公さながらの半生を送ってきた女方役者・河合雪之丞さんの著書『血と芸 非世襲・女方役者の覚悟』(かざひの文庫)を一部抜粋してお届けします。

大ヒット映画『国宝』を観た雪之丞さんの感想は?(全2回の2回目/最初から読む

◆◆◆

『国宝』がこれほどヒットしている理由も、血のない人間だけでなく、御曹司に生まれた人間の苦悩も描かれていることにあると思います。巷では歌舞伎の嫌な部分も映っているからこそ、これまでになかった作品とも言われているようです。もっと言うと、リアルだから嫌な部分があるのではないかということ。さらにその嫌な部分を追求すると、私のような名題下あがりが思う嫌な部分と、御曹司の感じる嫌な部分、両方があの映画には描かれている、そこが優れているのではないでしょうか。

『国宝』公式Xより

『国宝』は「血」をテーマにしていて、血筋、つまり梨園の中にいる俊坊と、門閥外ながら人間国宝に上りつめる喜久雄の話です。歌舞伎の映画やドラマというと、たいてい血筋の人とそうでない人がいて、血筋の人はなんでも持っていて、後者は持っていない。でも、御曹司が油断している隙に悩み多き門閥外が正当に努力して成り上がる、みたいな話はあったような気がします。そういう筋立てにもっていきがちなところ、御曹司の苦悩がちゃんと描かれていました。

喜久雄が俊坊の血を飲みたいというシーンに思うこと

世間的には、血のない人間が不遇で、血のある人間が優遇されるのが歌舞伎界というふうにとらわれがちではあるのですが、現実的には、血のある人たちも大変で、もしかすると彼らのほうが辛いのではないかとさえ思います。

想像もつかないような責任を背負って生まれてきて、決して生活や進路の決定は自由とは言えない。本人もそうですし、親の立場としても、3つか4つの子供に「お前は歌舞伎を今後一生やっていきたいか」っていう判断をさせなければならないのです。将来をもうそこで決めさせるか、もしくは聞きもせずに、そのままやらせるかに分かれますけど。

『血と芸 非世襲・女方役者の覚悟』(河合雪之丞 著、かざひの文庫)

歌舞伎を好きか嫌いかによっても話は変わってきますが、もし嫌いだったら大変です。だからそんな年端もいかない子供に、この先の人生を左右する判断をさせなければいけないことは、親にとっても子供にとっても、かなり酷ともいえるかもしれません。それに、やるという意思確認をして舞台を踏んだとしても、今後はご先祖の名前に傷をつけちゃいけないとか、そういうしがらみのある生活がまた始まるわけです。子供の頃は、友達と遊ぶのも我慢して辛い稽古に時間を割かなくてはいけないし。だからその血縁に生まれたら、もう後は幸せな人生です。と、いうわけでもないと思うんです。

映画の印象的なシーンで、喜久雄が俊坊の血を飲みたいというシーンがありましたけど、私は名題下の役者がみんな、御曹司の血を飲んで安心したいと思わないのでは、と考えてしまいました。家に脈々と受け継がれている芸を傷つけたらいけないとか、ご先祖さまの顔に泥を塗っちゃいけないと思いながら、役者を続けるのは非常に責任が重い。それこそお父さんは役者でも、お子さんが「僕は歌舞伎役者にはなりません」と宣言して、サラリーマンになる人もいるわけです。初舞台を踏んでも、その道に進まない方もいます。つまり、歌舞伎役者が全員、梨園に生まれることを望んではいないし、順風満帆でもないという話です。

それぞれの悩みがある

じゃあ名題下から入った人は、何に悩むかということですが、まず主演なんて絶対できないということは最初からわかっているから悩まない。しいて言うなら、あの人やこの人より自分の役が悪い。同年代や後輩のほうがいい役だから気に入らない。そういう単純な嫉妬の類でしょうか。名題下の悩みはそういうことだと思います。

だから御曹司の「主役を勝ち取るための葛藤とか努力」に比べれば、腰元のセリフが一個多いとか少ないとかの争いは小さく聞こえるかもしれませんが、それは本人たちにとっては切実な悩みです。出番が少ない、セリフが少ない、それなのに仕事が多い。それは覚悟していたことだと思うのですが、そういうことが重なったときに「どうせ名題下だから」と不貞腐れてしまう人もいるということです。

歌舞伎の御曹司・俊介(横浜流星) (『国宝』公式Xより)

こういうふうに、一般家庭から名題下に入ってくる人たちと、御曹司と、次元は違うかもしれないけれど、悩みはそれぞれある。だから比べようがないんです。それぞれの苦労というのがありますから。

いつかは見せ場がある役をとか、いつかは歌舞伎座でいい役をやりたいと思って養成所に入ってくる人はいない、という話はしましたが、歌舞伎の立廻りが好きで、立廻りを極めたいと思うがために、名題披露しない方もいらっしゃいます。なぜなら名題昇進して披露をすると、立廻りに出られなくなってしまうからです。だから世間的には、誰もが看板俳優を目指して研修生になっているのではないし、歌舞伎のシステム上、そういうことにはなれないし、それをわかってやっている人が大多数なのです。だから「梨園の外の人はみんなかわいそうに」という風潮があったとしたら、それは違いますと言いたいです。

普通だったら「ありえない」

それから『国宝』を観て、15歳やそこらの少年が、大名跡の部屋子になって、大きな役をやる。そんなのありえない、という方もいると思います。でも今回、私の半生を振り返ってみて、そういえば幹部さんの床几を出していたけれど、数年後に床几を出してもらう側になったとか、トンボを返っていた花四天だった私が、その真ん中で踊っていた方の役をさせていただけるようになったなとか。そういう「ありえない」ことが起こっているとわかりました。だから、こんなことありえない、という人は間違っていません。確かに、普通だったら「ありえない」のですから。

もしも、15歳ぐらいの中学生の子が「いつか歌舞伎座の真ん中に立ちたいという夢があるんですが、叶いますか?」と聞いてきたら、私は「限りなくゼロに近いけど、もしかしたらあるかもね」と答えます。「もし限りなくゼロに近いんだったらやりません。諦めます」って言うんだったら、それでいいと思います。言ってあげたほうがいいと思う。そんなこと言うと、歌舞伎役者を目指してくれる子が減ってしまうかもしれないけど。「でも雪之丞さんは実現しましたよね」って言われても、それは例外だからと説明します。世間から見れば、そんなことってあるのって思われるけど、それは私がすごいとかでは全くなくて、師匠と出会えたことがすごいという話なんですから。

私たちは藁にもすがる思いで、どんな手法を使ってでも出世しようと思ったことなど一度たりとてありません。旦那が引き上げてくれたから、それだけなのです。出世なんかできない、いい役なんてできないという前提ですから。

部屋子から主役へという流れは雪之丞さんと重なると言われますし、境遇としてはすごく似ているところはありますが、そういうところが異なります。

映画に関して、重箱の隅を突くことはもちろんできますが、それはこの映画がそもそもフィクションだから。それに時間の関係で小説では描かれていることもカットせざるをえなかったことも山ほどあるみたいですしね。

例えば『二人道成寺』まで踊ったような人が、急に親代わりの師匠が亡くなって腰元の一番端の役をやらされることは絶対にないだろうなとか。昭和の時代にあそこまで上りつめた役者、それも御曹司が歌舞伎を辞めて地方の芝居小屋を回るようなこともないだろうし、中村鴈治郎さんが演じられた吾妻千五郎のところに、喜久雄が部屋子の立場で挨拶に行ったときに「今度あの役をやらせてくれませんか」と言うシーンで、「○○屋のおじさん」と呼びかけるのですが、弟子筋の人間は、あそこでそういう呼び方はしません。御曹司同士はいいんだけど、弟子筋は幹部俳優になったとしても言えないと思います。

舞台に立つ喜久雄(吉沢亮) (『国宝』公式Xより)

刺青が入っている役者が人間国宝になれるか?

あと「背中に刺青が入っている役者が国宝になれるか」などと言う人はいますが、人間国宝になれるかどうかはともかく、古いお弟子さんで刺青が入っている方は何人かいました。今のタトゥーみたいなおしゃれなものではないもっと本格的な、蜘蛛の巣と蜘蛛の彫り物とか。舞台ではどうしていたんでしょう。腕まくりをする役でなければいいのでしょうか。お武家さんの役だとしたら衣裳で見えないし、着肉を着込んでいてもわからないし、逆に素行の悪い役だったら入っていてもいいですしね。

とにかく、役者の皆さんがよく歌舞伎の世界を体現した映画だなと思います。本当に、過去に歌舞伎界を描いたドラマや映画はいくつかあったと思いますけど、その中でもトップクラスに入る作品でした。さすが、原作の吉田修一さんが黒衣で成駒家さんについて取材しただけのことはあります。

特に主演のお二人については、1年半のお稽古であれだけのことをよくやったと思います。アップが多いからお化粧の感じもよく見えましたが不自然ではなかったし。

全国のいろんな劇場がロケ地になっていたのもいいな、と思いました。国立劇場の小劇場の楽屋とか、先斗町の歌舞練場とか、永楽館とかも、今の『国宝』効果で賑わっているというし。

「あの女方はすごくリアルでした」

シーンでいうと、冒頭の雪の中で散る永瀬正敏さんもかっこよかったです。ああいう映像美にこだわっていたところも、この映画が観客の心を掴む要因のひとつだなと。あと万菊さんを演じた田中泯さんはすごかった。ああいう女方、いると思いました。昔の大御所の女方を彷彿とさせる感じ。あの女方はすごくリアルでした。

「万菊さんを演じた田中泯さんはすごかった。ああいう女方、いると思いました。昔の大御所の女方を彷彿とさせる感じ。あの女方はすごくリアルでした」(『国宝』公式Xより)

あとは寺島しのぶさんが演じた俊坊のお母さん、丹波屋の女将さんも真に迫るものがありました。なぜって、俊坊は喜久雄と出会ったときには、もう親子で『連獅子』を踊っていて、これからどんどん芸を磨いて丹波屋の跡取りとして順調に育っていたわけです。それなのに喜久雄が登場することによって、それがある意味壊されていく。母親としての理屈、歌舞伎の家の女将さんとしての描かれ方は納得できますし、実際にそういう立場である寺島さんが演じることで余計にリアルさが増していました。

私も女将さんと同じで、なぜだろうと思ったのは、俊坊と喜久雄の芸立ちの差があまりないのに、なぜ喜久雄を選んだのか、ということです。息子を鼓舞するために、切磋琢磨するために引き上げたのかと思いましたが、大事な名前まで継がせてしまうのですから、そういうことではなかった。よっぽど、俊坊にはないものを喜久雄が持っていたのでしょうか。戦前は、芸の存続を重視していたので、「俺の芸を継がせるのにふさわしいのはこいつだ」と、実子ではなく弟子筋から指名したということが多かったようですが、昭和の半二郎さんもそういう意思があったということなのか、少し考えさせられました。でも母親の立場で考えると、あまりにも残酷です。

最後、喜久雄が人間国宝になったときはどういう思いだったのかな、とは考えました。最後に踊ったのは『鷺娘』ですけど、『鷺娘』は、人間に恋をしてしまった鷺の精が、女の恨み心、甘く楽しい恋の喜び、そして苦しさや葛藤がまず踊りによって表現されます。でも人間と動物が恋に落ちるのは許されないし、恋を貫き添い遂げようとすれば、畜生道に落ちるのは必定で、閻魔大王や鬼たちの地獄の責め苦が待っている、そういう踊りなので。

喜久雄は結局いろんな人に助けられてきたし、女性だって踏み台にしてきた。それで「自責の念」に駆られたりしたのかなとか、『鷺娘』と重ねるとそういう思いはあります。

テーマとして、単純に御曹司と血のない人の格差の話を書き上げたかったのか、人間の機微みたいなものを描きたかったかが、私にはまだちょっとわかっていませんが、これだけ社会的影響力を与えているわけですから、単純に格差社会を書いた作品ではないと思うので、小説を読んだりしてそこを探りたいと思います。

文=河合雪之丞

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