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【大ヒットの理由】吉沢亮、横浜流星共演『国宝』 “約3時間の大作”が体験させてくれるもの【ベスト記事2025】

  • 2025.12.30

2025年1年間で特に人気を集めたCREA WEBの記事を発表! あの映画やドラマのヒットの理由から、気の利いた手土産、そして、じっくり読みたい注目の人のインタビューまで。たっぷりお楽しみください。(初公開日 2025年6月28日 ※記事内の情報は当時のものです)


興行収入21億円を突破、大ヒット中の映画『国宝』。任侠の一門に生まれた喜久雄(吉沢亮)の歌舞伎役者としての生き様を、歌舞伎界のプリンス・俊介(横浜流星)との関係を軸に描いた人間ドラマだ。上映時間が3時間近い大作にもかかわらず、公開とともに評判になり、ついに公開3週目にして週末映画動員ランキングでトップに立った。

なぜここまで『国宝』はヒットしているのか? その理由を映画に精通したライター西森路代さんが読み解きます(作品の一部ネタバレが含まれます)。

舞台に立つ喜久雄(吉沢亮)。俳優陣は歌舞伎シーンも吹き替えなしで挑んだ。『国宝』公式Xより。

長崎で任侠の家に生まれた喜久雄

大ヒット公開中の『国宝』は、「視線」や「見る」「見られる」ということが印象に残る映画だと思った。主人公の喜久雄の背中に入っている入れ墨のミミズクが、ときおり観客をじっと凝視しているような目を向けることからしても、そのような視点で作られている部分はあるだろう。

喜久雄は、長崎の任侠の家に生まれ、上方歌舞伎の名門の当主・花井半二郎(渡辺謙)が家を訪れていた際に、父親(永瀬正敏)が抗争に巻き込まれ亡くなってしまう。

そのとき、父は戦う自分の背中を喜久雄にしっかり見届けるように告げる。喜久雄は、父の死の瞬間までを、瞬きもせずに見届けるのであった。もちろんそこに悲しみはあったのだろうが、その光景が強く心に焼き付いていたのではないだろうか。その日、長崎には珍しく雪が舞っていた。

喜久雄の芸名は「花井東一郎」。師匠の半二郎が命名した。『国宝』公式Xより。

父の死の直前、喜久雄が「積恋雪関扉」(通称「関の扉」)を演じていたのを見て魅了されていた半二郎は、身寄りのなくなった喜久雄を自分の元に呼び寄せ、同い年の息子・俊介と共に、歌舞伎役者になるための修行をさせることになる。「積恋雪関扉」は、雪景色にありながら桜が満開であるというシチュエーションの演目で、この映画を象徴するようであった。

喜久雄の業を見抜いた人間国宝

この映画を私が「見る」「見られる」作品であると意識したのは、人間国宝の女形・小野川万菊(田中泯)に喜久雄と俊介が挨拶に行く場面である。喜久雄を見る万菊の、鋭くもあり、また独特の湿度のある目線が忘れられない。「蛇に睨まれた蛙」という言い方があるが、まさにこのような状況を言うのだろうと思った。

喜久雄と俊介を魅了した小野川万菊の「鷺娘」。『国宝』公式Xより。

このとき、万菊は喜久雄の美しさを「きれいなお顔だこと」と称えつつ、役者になるのであれば、それが邪魔になり、その顔に自分が食われてしまう可能性があることを告げるのである。これは、万菊が同じように自分の美しさに食われてしまいそうになったことを示していたのだろう。

「見る」、「見られる」ということには視線のありなしが関係するが、人間の内面や変化を状況として把握するときに、視線がまっすぐ相手の顔を捉えておらずとも、しっかりとその本質を見ているということもあるだろう。

「歌舞伎なんて、ただの世襲だろ」

喜久雄とのことをまっすぐではなく、斜に構えて見ていたのは、竹野(三浦貴大)である。竹野は歌舞伎の興行を手掛ける会社の社員をしており、喜久雄を見て、「歌舞伎なんて、ただの世襲だろ。あんたは所詮よそ者。今は一緒に並べてもらっても、最後に悔しい思いして終わるのはあんただぞ」とけんかをふっかける。

喜久雄と対照的な歌舞伎の御曹司・俊介(横浜流星)。『国宝』公式Xより。

このシーンを見ていると、なにか竹野にも、世襲や血というものに縛られているか、もしくはそれを持たないことにコンプレックスを抱いているのか、彼自身にも血にまつわる忸怩たる思いがあるのだろうかと想像させるものがあった。もっとも、三浦貴大が三浦友和と山口百恵の息子であると考えれば、この場面を見るときに、なにか考えがよぎるのも無理はないことであるのだが……。

俊介の父であり、喜久雄を見出した花井半二郎(渡辺謙)。『国宝』公式Xより。

万菊にしても、竹野にしても、若い喜久雄に対して呪いをかけているようにも思える。万菊は、「美しさ」は「芸」を殺してしまうかもしれないこと、竹野は「血」に「芸」は勝てないものかもしれないということを、若い喜久雄に植え付けた。

「血」という言葉の呪い

こうした呪いをかけるものは、なにも万菊と竹野だけではない。喜久雄に魅せられて歌舞伎の世界に引き入れた半二郎ですら、息子の俊介と喜久雄が一緒に「二人道成寺」を演じる際、俊介に対しては「何があってもあんたの血が守ってくれる」と語り掛けるが、喜久雄に対しては、稽古を一日も休まなかったことを指摘し、「あんたがふりを忘れても体がちゃんと踊ってくれる」と声をかけるのだ。

「二人道成寺」を演じる喜久雄と俊介。『国宝』公式Xより。

後になって考えてみると、「血が守る」ことよりも、自分の体に日々の稽古が血肉となっていることを指摘してくれるほうが、確固たる自信になるのではないかと思えてしまう。半二郎は喜久雄に決して呪いをかけようとしたのではないようにも思える。しかし、自分にないものを求める気持ちの大きさから、自分で自分に呪いをかけてしまうことは往々にして存在する。

半二郎が「血」という言葉にさほどの意味をそのときは込めていなかったのではないかと思うのは、その後も、自分の代役を息子ではなく喜久雄にやらせたり、半二郎の名を喜久雄に継がせ、自分は半二郎から白虎を襲名すると決めたりするからである。

喜久雄と俊介は10代のころから切磋琢磨してきた。『国宝』公式Xより。

しかし、自分がその襲名披露の舞台上で病のために倒れたときには、やはり実の息子の名前を呼んでしまうのは、皮肉なものであるし、もっと言えば、半二郎の名前は継がなかったものの、父が倒れた病と同じ病で俊介が倒れてしまうということには、「血」というものの皮肉さを感じさせるものがあった。

台本になかった「どこ見てたんやろな」

こうして、呪いをかけられたことで、歌舞伎のためなら何もかも差し出すと悪魔との契約までしてしまう喜久雄であったが、その契約が祟ったのか、しばらく表舞台から去り、歌舞伎役者・吾妻千五郎の娘であり、歌舞伎界の「血」を持つ彰子(森七菜)とともに地方巡業の日々を送る。このとき、彰子と喜久雄の間に血の通った会話もなければ、視線があうこともないのが印象的だ。

巡業中に観客とトラブルを起こした喜久雄が、屋上で途方にくれている際、彰子が喜久雄に「どこを見ているの?」と言ったのが忘れられない。彰子が喜久雄をちゃんと見ていないと言えない言葉であるからだ。彼女がこの数年間、どんな思いで喜久雄を支えて来たのかと思うとせつなかった。

喜久雄が見ていたものは……。『国宝』公式Xより。

その言葉を受けた喜久雄は「どこ見てたんやろな」と涙を流しながらも、しかしどこかふっきれた様子を見せる。このセリフは、台本にあったものではなく、吉沢亮の口から自然と出てきたものだというが、このシーンがあったことで、よりこの映画が「見る」「見られる」ことが軸にあるように思えたのであった。

歌舞伎の「血」を継がない者同士の継承

直後、喜久雄は万菊に呼び出される。その知らせを持ってきたのは、最初は彼を凝視していなかった竹野であった。竹野は喜久雄の姿を目で凝視するということはなかったが、その代り、彼の行動や芸の変化など、目には見えない部分を見ていた人だと思う。

竹野は万菊のいる粗末な宿まで喜久雄を連れていく。殺風景な一室で過ごしている万菊は、それでも何か満足しているような様子を見せていた。

「ここには美しいものが一つもないだろ。妙に落ち着くんだよ。なんだかほっとすんのよ。もう良いんだよって誰かに言ってもらえたみたいでさ」と喜久雄に話しかける。万菊は喜久雄に初めてあったとき、その美しさを称え、同時にその美しさに苦しめられることもあると告げたが、それは自分と重ね合わせていた部分があったのだろう。

美術など細部の再現度の高さも話題。『国宝』公式Xより。

万菊は、自分の使っていた扇子を喜久雄に渡し、喜久雄は踊る。これは、メタファーとして、何かを引き継ぐということが色濃く出ている場面だろう。万菊もまた、彼の晩年からしても、歌舞伎界の「血」を継がない人であり、「血」を継がない者同士の継承がここで行われているのを見た。

「血」に関する「呪い」など、この映画の中には、本当は存在していなかったのかもしれない。

喜久雄自身の「血」

この映画にはほかにも喜久雄のことを深く見ていた人はたくさんいるが、もちろん少年時代から共に歩んだ俊介もそのひとりであった。また、最後に現れた綾乃(瀧内公美)もそうだろう。彼女は父親の喜久雄とほとんど交流せぬまま育ち、雑誌のカメラマンとして、人間国宝となった歌舞伎役者の父と再会する。

『国宝』公式Xより。

父親から愛情を受けられなかったことに対する複雑な思いはありながらも、父の芸に対しては「なんやお正月迎えたような、ええこと起こりそうな、なんもかも忘れて、こっちおいでって誘われるような、見たこともないとこ、連れてかれるような、そんな気持ちになって、気ぃいつたらめいっぱい拍手してた」「お父ちゃん、ほんまに日本一の歌舞伎役者にならはったね」と声をかけるのだ。

映画の中には、喜久雄を「見て」のさまざまな賞賛があったが、この率直な綾乃の賞賛がもっとも喜久雄の人生を「祝福」しているように思えた。

「何をしたいか」喜久雄の答えは…

喜久雄はまた自分が何をしたいかと問われたときに、「景色が見たい」と言っている。こうした発言は、東京ドームをいっぱいにしたアーティストなどからも実際に聞くことである。私はそのとき、単に人がいっぱいいて、ペンライトが輝くその景色が圧巻なのかと思っていたが、『国宝』を見ていると、それだけではないものを感じた。

きっと、演者が自分の満足できる演技をして、それに魅了された無数の観客の興奮した気持ちが演者にダイレクトに伝わってくるとき、我々には想像もできないような得も言われぬ瞬間があるのだろう。

「国宝」公式Xより。

喜久雄が映画の最後に舞台から観客を見て、見たかった景色を見たのだと思える表情をした瞬間で映画は終わる。その景色は、桜が舞っているようにも、雪が舞っているようにも見えた。彼の父親が長崎の自宅で亡くなるその景色を思い出させるものもあった。

しかし、原作の中の綾乃は、父である喜久雄にこのような「祝福」はしないし、人生の苦さがもっと描かれる。

とすると、映画の結末には少々できすぎたもののように感じられる人がいるのも事実だろう。ただ、それは清々しい気分で映画館を後にできるものでもある。芸に魅せられ取り憑かれた人間の恐ろしさも感じさせながら、それでも前向きになれるような結末が、多くの人を気軽に映画館に向かわせているのも事実ではないだろうか。

文=西森路代

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