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その休息、本当に休めてる? 身体のSOSを無視した私に起こったこと

  • 2025.12.28
In Bed

「うう、なんかすごく気分が悪い」──21ドルのテキーラレモネードを前にして、私はパートナーに叫んだ。私たちはウェスト・ハリウッドのクラブにいて、リアリティ番組「リアル・ハウスワイフ」シリーズに出演していたメレディス・マークスがDJを務めていた。「汗が止まらない」──無理もない。興奮した観客たちにもみくちゃにされていたのだから。とりあえず私は体の不調を無視して遊び続けることにした。

その後イースト・ロサンゼルスのストリップクラブに行ったのだが、高熱を出したときに見る奇妙な夢の中にいるような感覚に襲われた。天井からぶら下がったダンサーが、ウィーザーの「ハッシュ・パイプ」に合わせて揺れている。私の体の何かがいつもと違い、おかしかった。何故こんなにも時差ボケが続くのだろう、と私は自問した。イギリスからロサンゼルスにやってきてすでに12日が経っているのに。

ロンドンに戻っても具合は良くならず、以前と同じように働いて、友達に会い、外食をして、予定をテトリスのように次から次へと詰め込む日常生活に戻っても不調は続いた。ある日、中華料理店でテーブルを挟んで母の顔を見つめながら、副鼻腔がズキズキと痛むのを感じた。「すごく気分が悪い」と、立ち上る湯気の中で私はウェストハリウッドのクラブで発した同じ言葉をまた口にした。「風邪がなかなか治らなくて。何週間もこの調子だけど、もうずっと続いているように感じる」。そのころの私は毎晩汗だくで目が覚め、何度も着替えなくてはならないほどだったのだ。

そして5週目が過ぎ、私は完全にダウンしてしまった。筋肉痛、喉の痛み、そしてたった10歩歩いただけで、スピンバイクのクラス後のような疲労感に襲われ、死ぬのではないかとすら思った。「体の機能が停止している。もう長くない」。息も絶え絶えにそうパートナーに訴えた。幸いなことに、本当にくたばることにはならなかったが、私が感じた「体の機能が停止している」という感覚はある意味正しかった。医師からはおそらくウイルス感染後疲労症候群だろうと言われ、安静を言い渡された。それも、ただの「安静」ではなく「絶対安静」を。

思えば、私の体は休むように警告を発していたのに、私が無視していたので体がとうとう強硬手段に出たのだ。「どのくらいで治りますか?」と聞くと、電話の向こうで医師は一瞬沈黙した。「数週間、数カ月、場合によってはそれ以上かかることもあります。どれだけしっかり休めるか次第です」。数カ月?! 私は耳を疑った。私には楽しむべき人生がある。素敵なレストランに行く予定もあるし、ニューヨークへの2泊3日の旅行も待っているというのに。こんな状態でどうやってパーティーシーズンを楽しめというのだろう?

大人しく体を休め始めた最初の2週間は本当に辛かった。ベッドの中でのた打ち回り、まるで痛む内臓が詰まったただの袋になったかのような感じだった。何時間もTikTokを見ていたため、頭痛がするわ、目が乾くわ。聴覚過敏もひどく、遠くの飛行機の音でさえも頭を切り裂くようだった。「もし、このままずっと良くならないとしたら?」──パートナーを何度も問い詰め、飽き足らずにChatGPTにも同じ質問をぶつけた。帰ってきた答えは自己啓発的なたわごとで、休むことの重要性を繰り返すばかり。こんなに休んでいるのに! 私は憤って、寝返りを打ちながらこれまでに私を不当に扱った全員を心の中で呪った。何日も横になっているのに、これが休んでいると言えないとでも?

息をつくことは生きていく上で欠かせない。だが、多くの人は息をつく暇さえない。

The Bed by Henri de Toulouse Lautrec

でも、私は本当の意味で休んではいなかった。健康な人はソファに座ってNetflixを観ることを“休息”と考える。だが、“真の休息”(慢性疾患を抱える人たちやアクティビストのコミュニティが呼ぶところの“ラディカルレスト(根本的な休息)”)は、はるかに奥が深く、ゆっくりしたものだ。「何もしない」ということは、脳への負担を完全に取り除くことを意味し、忙しなく動き回ることに慣れている人にとってはとても難しい。電話が疲れるなら電話を断ち、テレビを見るのが疲れるのならテレビを断つ。実際、私が休めていると実感したのは、暗い部屋でアイマスクを着けて、時折スピーカーから聞こえる瞑想ガイドを聴きながら、全身の筋肉が完全にリラックスしたときだけだった。ラディカルレストは一種のスキルであり、習得する必要がある。

すべての予定が中止になり、仕事では約束していたことを何ひとつできなかった。幸運にも私は会社員で、このような一時休養が可能なイギリスに住んでいる。だが、フリーランスや扶養家族のいる人たちにとって、すべての予定を白紙にしてひたすら休むのは難しいことは想像に難くないし、慢性疾患を抱える人たちにとってはなおさらだ。日々の細々としたことを代わりに請け負ってくれた、思いやりのあるパートナーに恵まれていることもラッキーだった。神経質な完璧主義者の私にとって、リビングに掃除機をかけたり、決まった方法で食事を用意できないことは耐え難いことだったが、私は諦めることを学んだ。それ以外に選択肢はなく、自分の性格やあり方そのものに反して、ほかの人に物事を任せてこそ回復できるかもしれないと気づいたのだ。

回復は非常にゆっくりと訪れた。私は忍耐強くなり、日単位ではなく週単位で進歩を測るようになった。「ペース配分」という概念を覚え、何かした後にはすぐに休憩。体力の限界を超えないようにした。次第に体力の限界値は大きくなったが、ときどき電源が切れたようになり、再び体力が戻るまでしっかりと休まなければならなくなった。このような段階を経て、私は文章が書けるまでに体調が戻った。以前は常に感じていた疲労感も1日の終わりに感じるだけになり、ついには散歩できるまでに回復。ラディカルレストは効果的だったのだ。ただ、私がその意味を理解するのに長く時間がかかっただけで。

現代社会は、本来身体が必要とする休息を取ることを認めない。私たちは“ハッスルカルチャー(仕事を人生の最重要事項とみなし、忙しさを美徳とする文化)こそが道徳的に正しく、成功とは24時間にどれだけ多くのことをこなすかにかかっていると教え込まれてきた。「身体をちゃんと休ませてあげる」という考えは、決して革新的なものではない。障害者のコミュニティ、福祉サービスの削減に反対する人々、「何もしないこと」は実際には生産的な行為なのだと主張する人たちが何十年にもわたって訴え続けてきたことだ。ジェニー・オデルは、著書『何もしない』(2021)ので「一人になること、周りを傍観すること、そして他者と共生することは、それ自体が目的であるだけでなく、命があるすべての人がもつ不可侵の権利として認識されるべきだ」と述べている。また、著名な詩人で『Rest Is Resistance (原題)』の著者であるトリシア・ハーシーは、休息そのものの重要性を力説している。

休養することに対して、周囲が理解してくれないことがある。理由と具体的な期間を述べても、首を傾げる人が多い。一時的かごく短期間な休養だと思われたり、週末に休んだのだから必要ないのではと思われるのだ。体調を気遣いはするが、なぜこんなにも休む必要があるのかと疑問に思う。こういった周囲の反応をもどかしく感じるのは簡単だが、イライラしないように心がけること自体もある種の休息になる。善意で気遣ってくれる人たちのせいで、ストレスを感じたりするわけにはいかないのだ。きっと以前の私なら同じことを言ったり考えていただろうし。

十分な休養を経て、私の体調は回復に向かっているが、本当の意味で体を休めることを学んだ私にとって、回復することはいろいろな意味で今や二の次だ。休息とは、以前の私が理解していたものではない。どのようにすればちゃんと休めるか、まだ完全にはわかっていないが、私を含むすべての現代人がもっと気をつけるべきことだと思う。私の友人であるアイオニ・ギャンブルは、2022年の著書『Poor Little Sick Girls (原題)』で、慢性疾患を抱える者として、休息と社会の関係について私よりもはるかに的確かつ深い視点で考察している。

「現代社会の暮らしに見る緊迫感は、往々にして茶番に過ぎない。自分は忙しく、何か重要なことをしているような気にさせるが、多くの人は息つく暇さえないのだ」と。息をつくこと。それは私たちひとりひとりができる、最も重要なことであり、重要である以上に、生命を維持するために欠かせないことなのだ。

Text: Daisy Jones Translation: Motoko Yoshizawa

From VOGUE.CO.UK

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