1. トップ
  2. “危険”なストーリー設定のもとで変則的に浮かび上がる、旅の本質『コンパートメントNo.6』【小説家・榎本憲男の炉前散語】

“危険”なストーリー設定のもとで変則的に浮かび上がる、旅の本質『コンパートメントNo.6』【小説家・榎本憲男の炉前散語】

  • 2025.12.28

小説家で、映画監督の榎本憲男。銀座テアトル西友(のちに銀座テアトルシネマ)や、テアトル新宿の支配人など、映画館勤務からキャリアをスタートさせた榎本が、ストーリーを軸に、旧作から新作まで映画について様々な角度から読者に問いかけていく「小説家・榎本憲男の炉前散語」。第10回は、2021年に第74回カンヌ国際映画祭でグランプリを獲得し、アカデミー賞国際長編映画賞でもフィンランド代表として選出されるなど、賞レースにおいて強い存在感を示した『コンパートメントNo.6』(21)を取り上げ、“異質な旅”がなぜ人々をひきつけたのかを読み解いていきます。

【写真を見る】映画としては異質ながらも、旅そのものの本質を捉えた『コンパートメントNo.6』

“異質な旅”を描く『コンパートメントNo.6』

ストーリーは主人公の旅だと比喩的に語られることが多く、僕もよくそんな説明をします。

旅そのものを物語にしたものも少なくありません。特定の場でドラマが展開する演劇とは異なって、移動によって変化する光景をリアルに捉えることのできる映画は、旅を題材にすることを得意にしています。

第二次世界大戦後、大戦で疲弊した欧州を経済的に救済するためにマーシャルプランという経済援助政策がアメリカによって実施され、こうした戦後の経済状況のもとで、アメリカの映画会社はヨーロッパでの興行収入を本国に持ち帰ることができなくなりました(フローズンダラー)。ただし、ヨーロッパで使うのならよいということにもなり、ハリウッドの映画人らは次々とヨーロッパに赴き、ヨーロッパで撮影をしました。ちょうどカメラやフィルムが技術的に向上している最中だったので、ヨーロッパの美しい風景を背景にさまざまな名作が撮られることになったわけです。この制作方法を“ラナウェイ・プロダクション”と呼ぶことは映画評論家の山田宏一氏に教わりました。ジョン・フォードは『静かなる男』(52)を撮るために、意気揚々とアイルランドに出かけたそうです。『ローマの休日』(53、ウィリアム・ワイラー監督)や『旅情』(55、デヴィッド・リーン監督)もこの方法で撮られた名作です。

ローマでロケ撮影が行われた、オードリー・ヘプバーン主演の『ローマの休日』 [c]Everett Collection/AFLO
ローマでロケ撮影が行われた、オードリー・ヘプバーン主演の『ローマの休日』 [c]Everett Collection/AFLO

先日、ようやく『コンパートメントNo.6』を観る機会を得ました。タイトルからして旅の映画であることがわかります。ロサ・リクソムによる原作は、フィンランド文学賞を受賞したほかこれまでに13ヶ国語で翻訳されているようです。監督はフィンランドのユホ・クオスマネン。本作にて、カンヌ映画祭のグランプリを獲得したほか、アカデミー賞のフィンランド代表に選出されたり、ゴールデン・グローブ賞にノミネートされています。なので、この映画の優れた点については、さまざまな批評家によってさまざまな角度から論じられているはずです。が、旅の映画としては極めて異質な点が面白いと思った僕は、このコラムでは、この異質さをストーリーの観点から語ってみたいのです。

なりゆきで始まった主人公の旅

旅の映画は、当然のことですが、ほとんどが旅立ちからはじまります(中には『エイリアン』のようにすでに旅の途中から映画がはじまるものもありますが)。そして、旅立ちにはいくつかのタイプがあるのです。「誘われて旅立つ者」「自らの意思で出発する者」「現状に嫌気がさして旅に出る者」「いやいやながら出発する者」「使命を帯びて旅立つ者」などと分類できます。エンターテイメント系の映画では後者の2つ(いやいや旅立つ。ある種の義務感を感じつつ旅立つ)が優勢だ(『スター・ウォーズ /新たなる希望 (エピソード4)』や『ミッドナイト・ラン』)。前者3つはアート系の映画が得意とするタイプです(『わたしに会うまでの1600キロ』)。

2005年にアカデミー賞脚色賞を受賞した『サイドウェイ』 [c]Everett Collection/AFLO
2005年にアカデミー賞脚色賞を受賞した『サイドウェイ』 [c]Everett Collection/AFLO

しかし、『コンパートメントNo.6』の旅立ちは先のパターンのどれにも当てはまりません。ヒロインはなんとなく旅に出てしまう。本作はまずは旅立ちからして異質です。主人公がなんとなく旅に出てしまうというタイプもないわけではありません。『サイドウェイ』(04、アレクサンダー・ペイン)の主人公は、結婚式を目前に控えた友人のバチュラーパーティの旅に同行します(この旅行自体がバチュラーパーティに組み込まれているようです)。ただ、主人公は、出版代理店に提出した小説が出版されるかどうかが気になっていて、乱痴気騒ぎなどする気にはなれません。このギャップがバディものとしての味わいをじわじわと効かせてきます。

ところが、『コンパートメントNo.6』における旅立ちの“なんとなくぶり”はもっとすごい。旅に出たくて出たわけでもなく、命令されて(任務を帯びて)出発したわけでもなく、出発せざるを得なかった事情があったわけでもない、ほとんどなりゆきで「旅に出てしまった」という言い方がいちばんフィットする。この「出てしまった」的な旅立ちは、哲学者である國分功一郎の「中動態」という言葉を思い起こさせます。

主人公のラウラは急遽一人旅に出ることに… [c]Everett Collection/AFLO
主人公のラウラは急遽一人旅に出ることに… [c]Everett Collection/AFLO

「なにかを見るため」という危険な物語設定

ラウラ(セイディ・ハーラ)はフィンランドからの留学生で、レズビアンでもあります。彼女は、指導教官であり恋人でもあるイリーナ(ディナーラ・ドルカーロワ)と付き合っています。この恋人に世界最北端の一般旅客駅ムルマンスクのペトログリフ(岩面彫刻だって)を見に行こうと誘われた。当人はそれほど見たくもなさそうなのですが、恋人があまりに素晴らしいと絶賛するのでとりあえず出発することに。なんにせよ、恋人と旅行に行くのは楽しいからという判断もあったのでしょうね。ところが推薦者当人はこの旅をドタキャンし、ラウラ独りが旅立つことになります。これほど「あんまりな」旅立ちを僕は映画では見たことがありません。

恋人のイリーナと旅に出るはずが、ドタキャンされてしまう [c]Everett Collection/AFLO
恋人のイリーナと旅に出るはずが、ドタキャンされてしまう [c]Everett Collection/AFLO

さらに、この映画の不思議で異質な点は、旅の目的地になにかがあるようでいて、ほとんどなにもない点なのです。もちろん、映画において、このような設定をするのは、かなりリスキーです。しかし、この徹底的に宙ぶらりんな状態に置くことによって、リアルな人間の存在を観客に実感させることが、狙いであるようにも受け取れるのです。

岩面彫刻とやらを素晴らしいと恋人が大絶賛するシーンが冒頭にあるのですが、「そうか、ならば是非見てみたいな」と観客は思うでしょうかね? はっきり言って「なんじゃそりゃ」というのが正直なところです。ヒロインだって、「見る、見てやるぞ、きっと素晴らしいものにちがいなかろうぞ」とは思っていなさそうで、「とりあえず行って見るしかないな」程度のノリで旅立ってしまう。ただ、ここで、観客の気持ちとヒロインのそれが見事にシンクロしていることも確かなのです。

天使ダミエルを主人公とした、ヴィム・ヴェンダース監督の名作『ベルリン・天使の詩』 [c]Everett Collection/AFLO
天使ダミエルを主人公とした、ヴィム・ヴェンダース監督の名作『ベルリン・天使の詩』 [c]Everett Collection/AFLO

ところで、旅の目的が「なにかを見るため」というのはなかなかヤバい設定です。こうした構造では、物語のラスト近くで主人公がそれを見たとき、主人公に何らかの変化がもたらされなければなりません。しかし、“何かを見たことによって起きる主人公の変化”は、物語の序盤においたほうがいい。それをきっかけに主人公に決定的な変化が訪れて、これまでの人生とはまったくちがう方向にコースアウトしていく。たとえば、『未知との遭遇』(77)や『ベルリン・天使の詩』(87)がそうであるかのように。これはある種の“感染”です。

静かなラストににじみ出る、旅の本質

とにもかくにもラウラは旅にでるためにシベリア鉄道に乗り込み、コンパートメント6号客室に入る。乗り合わせたのはロシア人の炭鉱労働者リョーハ(ユーリー・ボリソフ)。この男がやたらと粗暴でデリカシーに欠け、ラウラは嫌悪感を抱くものの、長い旅を続ける中でふたりの心が接近していく、というのは“お約束”ですが、問題はラストです。リョーハは労働者として働く、ラウラは岩面彫刻を見る、ふたりは旅の目的がまったくちがいます。

旅を続けるなかで、ラウラとリョーハはお互いの魅力に気づき始める [c]Everett Collection/AFLO
旅を続けるなかで、ラウラとリョーハはお互いの魅力に気づき始める [c]Everett Collection/AFLO

結論を先に言うと、ラウラはリョーハの助けを借りて、岩面彫刻を見ることができます。まあ、狩猟・漁労を営んでいた先史時代の人々が岩に掘ったものなので、行けば見られるわけです。で、彼女になにが起こったか。この映画を観る人によって解釈が異なるかもしれませんが、ここではなにも起らなかったのです。エピファニー(説明不要な啓示体験)は起きない。旅の目的地が当初予想していたものとはちがってショボかったというのは、ないことではないのですが、そのような劇的な肩透かしもない。

その岩面彫刻を見るシーン、

「終わり?」とリョーハは訊く。

「終わり」とラウラは応える

ものすごく淡白で、クライマックスのシーンとしてまったく機能してないところが逆に新鮮です。

【写真を見る】映画としては異質ながらも、旅そのものの本質を捉えた『コンパートメントNo.6』 [c]Everett Collection/AFLO
【写真を見る】映画としては異質ながらも、旅そのものの本質を捉えた『コンパートメントNo.6』 [c]Everett Collection/AFLO

しかし、彼女は変化している。シーンは突如として切り替わり、リョーハと猛吹雪の中を歩くシーンで、彼女の喜びが横溢します。この旅で彼女が得たものは、岩面彫刻という芸術ではなく、リョーハが車中で描いてくれたヘタクソな彼女の似顔絵だった。旅に出て、他者と出会い、それを受け入れる。彼女に起こった変化は、ドラマチックな演出ではなく、ごくごくおごそかに静かに語られる。この映画が観客を魅了するのは、変則的でいて、旅そのものの本質を描き出しているから――そんな気がしました。

文/榎本 憲男

元記事で読む
の記事をもっとみる