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「下級生への暴力なんてなかった」元ヤクルト・松岡弘が証言する、高校時代の星野仙一が怖くても慕われた理由

  • 2025.12.27

現役時代には「燃える男」と称され、監督時代には「闘将」と呼ばれた星野仙一が天に召されてすでに7年が経過した。昭和、平成を代表する野球人である一方、優しさと厳しさ、飴と鞭を巧みに使い分けた人心掌握術は、現在の観点から見れば、行きすぎた「根性野球」「精神野球」といった側面がクローズアップされたり、選手たちへの鉄拳制裁が問題視されたりすることもある。

一体、星野仙一とはどんな人物だったのか? 彼が球界に遺したものとは何だったのか? 彼の実像を探るべく、生前の彼をよく知る者たちを訪ね歩くことにした。彼らの口から語られる「星野像」は、パブリックイメージ通りである一方で、それとは異なる意外な一面もあった。「星野仙一」のリアルに迫りたい——。連載第4回は、岡山・倉敷商業高校の一学年後輩である松岡弘に話を聞いた。【松岡弘インタビュー全2回の1回目/第2回へ続く】

倉敷商業高校後輩・松岡が語る「星野先輩」

「下級生への暴力なんて、まったくなかった。点を取られたりすると、怒りの感情を全然隠そうともしないから、“怖い先輩だな”とは思っていたけど、その感情はすべて自分に対するもので、他人に向けられることなんてなかったよ」

倉敷商業高校時代の星野仙一について、松岡弘が振り返る。1967(昭和42)年ドラフト5位でサンケイアトムズに入団し、長年にわたってヤクルトスワローズのエースとして活躍した松岡は、同校の1学年後輩として「先輩・星野」の蒼き日々をともに過ごした。

「決して不良とか、ガキ大将というわけじゃない。だけど、人がいじめられているのを見ると黙っていられないタイプで、何かあれば真っ先に飛び出していく。野球部の部長や先生たちも、何かトラブルがあっても、“星野に任せておけ”という感じだった。校内では有名人だったし、人気者だったから、結構モテたはずだけど、女の子には目もくれずに野球一筋。そんな印象がありますね」

高校入学当初、松岡は内野手だった。本人曰く「同級生10人の中で10番目の選手だった」という。しかし、高校2年の夏に転機が訪れる。松岡の代のエースである矢吹昌平が、投手生命を左右する大アクシデントに見舞われたのだ。

「誰もが、監督の弟である矢吹のことをエースと認めていました。でも、通学中の伯備(はくび)線で大けがをしてしまった。この通学時間帯はいつも超満員でものすごく混んでいる。清音駅の近くで大きく曲がるんだけど、そのときにお客に押されて窓ガラスに右手をついたらガラスが割れて右手の腱を切ってしまった。それでなぜか僕がピッチャーをやることになってしまったんだ」

それは、星野たちの代が引退し、松岡の代による新チームが発足した直後のことだったという。それまで、「まったく投手に興味がなかった」という、後のエースピッチャー誕生の瞬間となった。

「それが、当時高校3年だった星野さんが、夏の岡山県大会で敗れてチームを去った直後の話。だから僕は星野さんと一緒に投球練習をしたことはないんだよね」

1964年、高校3年、星野の「最後の夏」

1964年、星野が高校3年、松岡が2年の夏に時計の針を戻したい。この当時の規定では、岡山大会を勝ち抜いただけでは甲子園出場はかなわず、鳥取県の高校との代表決定戦を制する必要があった。

「僕らの倉敷商業は、準決勝で米子東高校にサヨナラ勝ち。そして決勝で米子南高校と対戦することになりました。この試合は今でも忘れられないよね」

準決勝の米子東高校戦を一人で投げ抜き、同時に延長10回にサヨナラタイムリーを放ったのが、エースで四番の星野である。決勝で対戦する米子南高校には、前年秋の練習試合において16対0、7回コールドで大勝していた。このとき星野は10奪三振を記録している。

「このとき、僕はまだピッチャーになる前で試合には出ていないけど、星野さんがひたすら投げていた印象があるね。彼の場合、決して他人に任せることはしない。常に、“オレに任せろ”の人だから。とはいえ、岡山大会からずっと投げ続けていたから、さすがに疲れは隠せなかったよね……」

松岡の言葉にあるように、試合序盤こそ快調なペースで投げていたものの、1対0とリードして迎えた4回裏1死後、安打と四球で一、二塁のピンチを作ると、ここから3連打を浴びて3失点。一気に逆転を許してしまった。この間、ムキになってストレートだけを投げ続けていたという。変化球を投じることは、星野にとって「逃げ」だったのである。

「その後、倉敷商業は1点を返したけど、そのまま2対3で負けてしまった。決して、泣き崩れたり、暴れたりしたような印象はないな。でも、小刻みに身体を揺らしながら、噛みしめるように泣いているのはよくわかりました。試合後、星野さんが3年のチームメイトたちに謝っていた姿はよく覚えていますね。“甲子園に連れて行けずにすまなかった”って、みんなに謝っていたな」

この日の出来事を振り返った『朝日新聞デジタル』(2018年6月28日配信)、「星野がいた夏、1964年 夢への直球狙われた」という記事から、一部抜粋したい。

《翌朝、伯備線で米子を離れた。倉敷駅に着くと、ロータリーには出迎えの大勢の市民が待ちかねていた。「よく頑張ったっ」。無数のねぎらいの言葉がホシらに送られた。

「何が頑張ったじゃ。勝たにゃ何にもならん。腹が立つ」

照れ隠しかもしれないが、後に「闘将」と呼ばれることになるホシはそう強がった。》

誕生3カ月前に、父・仙蔵が他界

松岡が述懐する。

「僕の手元に、試合直後の写真が残っているけど、やっぱり疲れ切っているのがよくわかるよね。そりゃそうだよ。あの人の場合、“自分が何とかしなければ……”という思いで、ずっと人の面倒ばかり見ているんだから。このときも、“全部、オレが悪かった。オレが活躍していれば、オレが何とかしていれば……”って、考えていたと思う。疲れ切って当然のことだったと思いますね」

翌65年、星野は島岡吉郎監督率いる明治大学に進学し、1年遅れた66年から、松岡は三菱重工水島で野球を続けることになった。ここでいったん、両者の人生は別れたものの、なおも「星野との接点」は続いたという。

「高校卒業後、三菱重工水島で野球を続けることを決めたんだけど、ここの青葉寮の寮母さんが星野さんのお母さんだったんだよね。もともと、星野さんのお父さんは工場長をされていて、お父さんが亡くなった後も、お母さんは寮母として住み込みで働いていました」

松岡の言葉にあるように、星野の父・仙蔵は三菱重工水島航空機製作所の所長を務めていた。だが、仙蔵は星野が生まれる3カ月前の46年10月に、脳腫瘍でこの世を去っている。つまり、星野は父の顔を知らずに育ったのである。

母の敏子は長女、次女、そして仙一の3人を女手一つで育てた。朝は豆腐屋、昼間は三菱重工の寮母、そして夜は知人の経営する飲食店で皿洗いをした。三菱重工水島入社後、松岡は星野の母と出会った。

「本当に一生懸命働いていましたよね。その姿を星野さんも見ていたはず。母親は懸命に働いて、お姉さんたちが愛情込めて育てた。お姉さんとは何度か対談をしているんだけど、“小さい頃から面倒見がよかった”って教えてくれたよね」

そして松岡は「あるエピソード」を披露する。

「近所に住む同級生が難病を抱えていた。星野さんは、その子を背負って学校まで一緒に行って、授業が終わると練習所まで彼を背負っていって、練習後には自宅まで送り届ける。それをずっと続けていたといいますからね」

星野に関する資料をたどっていると、このエピソードは頻出する。小学6年生の1年間、星野は毎日、筋ジストロフィーを患っていた同級生を背負って通学していた。卒業後、そして大人になってからも両者の交流は続き、彼が早世するまで星野は面倒を見たという。松岡は続ける。

「高校卒業後、星野さんが明治大学に入学してからはたまに会うぐらいだったけど、プロに入って今度はグラウンドで会う機会が増えた。でも、プロになってからも星野さんは何も変わっていませんでしたね」

明治大学卒業後、星野は68年ドラフト1位で中日ドラゴンズへ、松岡は一足先に67年ドラフト5位でサンケイアトムズに入団。ともにセ・リーグチームのエース投手として相まみえることになった——。

松岡弘「後編」に続く)

Profile/松岡弘(まつおか・ひろむ)
1947年7月26日生まれ。岡山県出身。星野と同じ倉敷商業高校から三菱重工水島を経て、67年ドラフト5位でサンケイアトムズ(現・東京ヤクルトスワローズ)入団。快速球を武器にローテーション入りを果たし、やがてエースとして君臨。78年には広岡達朗監督の下、チーム初となるリーグ制覇、日本一の胴上げ投手となり、同年、沢村賞を獲得。85年シーズンを最後にユニフォームを脱ぐ。通算191勝190敗41セーブ。星野とは高校時代の先輩後輩の間柄であり、生涯にわたって交流が続いた。

Profile/星野仙一(ほしの・せんいち)
1947年1月22日生まれ。岡山県出身。倉敷商業高校、明治大学を経て、68年ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団。気迫あふれるピッチングで、現役通算500試合に登板し、146勝121敗34セーブを記録。現役引退後はNHK解説者を経て、87~91年、96~2001年と二期にわたって古巣・ドラゴンズを率いる。02~03年は阪神タイガース、07~08年は日本代表、そして11~14年は東北楽天ゴールデンイーグルスで監督を務める。17年、野球殿堂入り。翌18年1月4日、70歳で天に召される。

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