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「星野仙一には総理大臣になってほしかった…」元ヤクルト・松岡弘が今明かす、“故郷の大先輩”の巨大すぎる器と帝王学

  • 2025.12.27

現役時代には「燃える男」と称され、監督時代には「闘将」と呼ばれた星野仙一が天に召されてすでに7年が経過した。一体、星野仙一とはどんな人物だったのか? 彼が球界に遺したものとは何だったのか? 彼の実像を探るべく、生前の彼をよく知る者たちを訪ね歩くことにした。彼らの口から語られる「星野像」は、パブリックイメージ通りである一方で、それとは異なる意外な一面もあった。「星野仙一」のリアルに迫りたい——。連載第4回は、岡山・倉敷商業高校の一学年後輩である松岡弘に話を聞いた。【松岡弘インタビュー全2回の2回目/第1回を読む】

「高低」を意識していた松岡と、「横幅」を重視した星野

1967(昭和42)年、ドラフト5位でサンケイアトムズ入りしていた松岡弘に遅れること1年、星野仙一が中日ドラゴンズに入団したのは翌68年ドラフトのことだった。

「プロで再会したとき、高校時代と比べると身体が大きくなっていたし、表情は柔らかく、優しくなっていた気がしましたね。だけど試合に入ると一変して、一気に厳しくなる。それは高校時代のままだった。だから、対戦するときはハンパなく怖かったよ。打席に入るときも、マウンドの僕に向かって、“おい、マツ。わかってるな”って言うわけよ。要は“厳しいコースに投げるな、甘いボールを投げろ”って言うことですよ。逆に僕が打席に立つときには、“お願いしますよ”って、冗談で言ったりしてね(笑)」

星野は69年から82年まで、14年間の現役生活において146勝(121敗34セーブ)を記録した。一方の松岡は68年から85年までの18年間で191勝(190敗41セーブ)という成績を残している。1970年代、両者はともにチームのエースとして切磋琢磨した間柄だ。松岡から見た「投手・星野評」を尋ねる。少しだけ考えた後に、松岡は言った。

「一人の投手として見た場合、正直言えば負けているとは思わなかったし、星野さんも自分が勝っているとは思っていなかったはず。ただ、星野さんには誰にも負けない闘争心があった。1球に賭ける強い思いがあった。彼は146勝かもしれないけど、1勝、1勝の重みはとても大きかったし、僕の勝利の何十倍もの重みがあったと思う。何しろ、そのすべてが《魂のボール》だったから」

そして、松岡の話は技術面へと及んだ。

「星野さんの身長は178センチぐらいだったと思うけど、身体のバランスがすごくよかった。腰回りが安定していて、下半身と上半身のバランスがすごくいい。逆に僕は186センチで、ある程度の高さがあったから上から投げ下ろすことで高低を意識した。一方の星野さんは高低ではなく、シュートやスライダーと横幅を意識していた。ピッチングスタイルは正反対だったね」

公称180センチの星野と186センチの松岡。当人による比較は、「なるほど」と感じさせるものだった。

「自分の立場をわきまえろ」という星野の教え

星野と松岡との交流は現役引退後も続いた。その主な舞台となったのが、両雄にとっての故郷・岡山である。松岡が口にしたのは、石破茂内閣時代に財務大臣、内閣府特命担当大臣(金融担当)、デフレ脱却担当大臣を務めた衆議院議員・加藤勝信の名前と、「キュウロクカイ」という耳慣れぬ言葉だった。

「加藤勝信さん、知ってるでしょ? 勝信さんのお父さんが加藤六月さんで、岡山出身なんですよ。それで、現役時代から六月さんと星野さんは交流があって、岡山県の野球関係者による《球六会》という集まりを開いていたんだよね。僕ももちろん、加藤先生にはお世話になっていて、一緒に食事をしたり、ゴルフをしたり、選挙の応援に行ったこともある。食事はいつも超一流の店で、ゴルフ場もなかなか予約の取れない超名門コースだったな」

松岡の口から飛び出したのは、第10代、20代の農林水産大臣などを歴任した、故加藤六月の名前だった。かつて加藤六月の後援会誌に「加藤さんは私の父親のようだ」と寄せたという星野を通じて、松岡も「球六会」のメンバーとなった。会の主役は加藤であり、星野だった。政界の大物を相手に堂々とふるまう星野の姿を見て、松岡は「さすがだなと感じていた」という。加藤の死とともにすでに会は解散しているが、この活動を通じて星野から学んだことがある。

「星野さんはいつも僕に、“自分の立場を常に忘れるな”と言っていたな。今日はどうしてここにいるのか? 自分の立場はどうなのか? 自分を中心とした会なのか、そうでないのか? 常に自分の置かれている立場を忘れてはいけない。そんなことを何度も、何度も言われたものだよね」

加藤六月を筆頭に、岡山県政を担う政治家がたくさん臨席している。野球界においても、地域の野球振興に尽力した地元の実力者が多く参加している。だからこそ星野は「常に自分の立場をわきまえるように」と松岡に説いた。

「僕らはプロの世界で、多少なりとも実績を残すことができた。でも、プロには行けず、選手としての実績がない人も、球六会にはたくさんいる。だから、決してうぬぼれるな。先輩を立てて、自分は一歩下がれ。そんなことをいつも注意されました」

それは、上下関係を重んじ、「オヤジ転がし」と称されることの多い星野ならではの信念だった。本連載の田淵幸一編において、不愉快な人物との交流について「これはビジネスなんだ。どんなに嫌いなヤツでも、顔に出したらダメだ」と叱られたと、田淵は発言している。それは星野ならではの哲学であり、処世術であった。

故郷で見せる「秋晴れ」のような穏やかな笑顔

高校時代に出会い、プロではエースとして投手戦を演じ、現役引退後は「球六会」を通じての交流が続いた。生前の星野はサインを求められた際に「夢」という文字を添えていた。松岡から見た「星野の夢」について尋ねると、「星野さんの夢か……」と、考え込んだ。

倉敷商業時代の松岡弘

ともに、米子南に敗れ、あと一歩で甲子園を逃した倉敷商業ナイン

「ある年の球六会で、星野さんに“政治家になって、この日本を変えてくださいよ”と言ったことがあるんだよ。僕としては“総理大臣になってほしい”とまで思っていたほどだったから。だけど、そのときは知らん顔されたけどね(笑)」

少しだけ笑って、松岡は続けた。

「星野さんが望んでいたことは、“野球界を変えたい、もっとよくしたい”という思いだったんじゃないのかな? コミッショナーになりたかったのかどうかはわからないけど、プロだけじゃなくてアマチュアも含めた野球界全体。ひょっとしたら、日本だけじゃなくて海外の野球も含めて、リーダーシップを発揮したい。そんな思いがあったんじゃないのかな?」

どうして、そう思うのか? その理由を尋ねると、松岡は首をかしげた。

「どうしてだろうね(笑)。でも、星野さんはあっちこっちいろんなところに行くのが好きだったし、どこに行っても、“自分のことよりも他者のために”って、中心となって活躍していた人だったから」

前編で述べたように、小学生の頃には難病の同級生を背負って毎日登下校していた。倉敷商業高校時代には、学校内で揉め事が起こると率先して解決の道を模索したという。ここで松岡は「中村武志」の名前を口にした。

「ドラゴンズの監督だった頃、中村武志が常に鉄拳制裁を受けていたというよね。でも、当時の中日関係者、選手たちの中で星野さんのことを毛嫌いしている人はいないよ。99パーセントは星野さんのことを好きだもん。中村武志だって、“今でも尊敬している”と口にしているよね。星野さんは正義感あふれる人で、決して“自分のため”という人じゃなかった。だからきっと、ユニフォームを脱いでからも、“野球界のために”という思いで動き回ったんじゃないのかな?」

インタビューの終了時間が迫ってきた。これまで多くの関係者に尋ねてきたように、松岡にも「星野仙一をひと言で表すと?」と質問を投げかける。少しだけ考えた後に松岡は力強く言った。

松岡弘が考える星野仙一とは?――“秋晴れ”

「例えるならば、星野さんは《秋晴れ》のような人だったよ。現役のときも、監督時代も、常に闘志をむき出しにして戦っていたけど、岡山で見る星野さんは決してそうじゃなかった。すがすがしい笑顔で、澄み切った秋の空のような穏やかさで、僕たちと接してくれた。普段は見せることのない、ほっこりした笑顔を僕らには見せてくれたんだ」

懐かしい故郷の空気が、星野の心を解きほぐしてくれたのだろうか? それは、世間が抱いている「星野仙一像」とは明らかに異なっていたという。最後に松岡は言った。

「そんな笑顔、想像もできないだろ(笑)。でも、岡山で過ごすオフの星野さんのすがすがしさ、くつろいだ笑顔は秋晴れのようだったんだから。今は、お墓の中で秋晴れのような気持ちでゆったりと過ごしてほしいよね」

高校時代から慕い続けていた後輩からの心のこもったねぎらいの言葉だった——。

(次回、中村武志編に続く)

Profile/松岡弘(まつおか・ひろむ)
1947年7月26日生まれ。岡山県出身。星野と同じ倉敷商業高校から三菱重工水島を経て、67年ドラフト5位でサンケイアトムズ(現・東京ヤクルトスワローズ)入団。快速球を武器にローテーション入りを果たし、やがてエースとして君臨。78年には広岡達朗監督の下、チーム初となるリーグ制覇、日本一の胴上げ投手となり、同年、沢村賞を獲得。85年シーズンを最後にユニフォームを脱ぐ。通算191勝190敗41セーブ。星野とは高校時代の先輩後輩の間柄であり、生涯にわたって交流が続いた。

Profile/星野仙一(ほしの・せんいち)
1947年1月22日生まれ。岡山県出身。倉敷商業高校、明治大学を経て、68年ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団。気迫あふれるピッチングで、現役通算500試合に登板し、146勝121敗34セーブを記録。現役引退後はNHK解説者を経て、87~91年、96~2001年と二期にわたって古巣・ドラゴンズを率いる。02~03年は阪神タイガース、07~08年は日本代表、そして11~14年は東北楽天ゴールデンイーグルスで監督を務める。17年、野球殿堂入り。翌18年1月4日、70歳で天に召される。

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