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「ばけばけ」だからハーンはエリザベスのいるアメリカに帰らなかった…「漂泊の魂」に反して日本に留まったワケ

  • 2025.12.24

ヘブン(トミー・バストウ)が想いを寄せるイライザ(シャーロット・ケイト・フォックス)が登場した「ばけばけ」(NHK)。作家の工藤美代子さんは「史実ではエリザベス・ビスランドという作家がヘブンのモデルであるハーンより先に日本を旅した」という――。

※本稿は、工藤美代子『小泉八雲 漂泊の作家ラフカディオ・ハーンの生涯』(毎日文庫)の一部を再編集したものです。

初アルバムの発売前にライブを開催したシャーロット・ケイト・フォックス、2015年8月18日、東京都渋谷区
初アルバムの発売前にライブを開催したシャーロット・ケイト・フォックス、2015年8月18日、東京都渋谷区
10年ぶりに彼女と文通を再開する

ラフカディオ・ハーンとエリザベス・ビスランド。10年ぶりにふたたび開始された2人の文通で、ハーンは彼女にアメリカでの仕事の斡旋を依頼しました。これに対してビスランドは誠実に答えるのですが、ハーンの筆致はまたたくまに卑屈になってしまいます。


「実際、私はあなたをわずらわせる権利などありませんし、また、そんなことを思ってもいません。ただ妖精の女王に祈っているというだけのことです。親切にも聞いてやろうとなさるのでないかぎり、あなたが耳を傾けてくださる必要はありません。」
「あなたは、旧い知人を小さな白髪の不快な“老人”と思ってみるべきなのです。」

1902年7月2日付けの手紙ですが、ハーンの彼女への屈折した感情が言葉の背後に浮び上がって見えます。

そして、ここで一つ思い出さなければならないのは、ハーンが基本的には白人の女性にあまり良い感情を抱いていなかったということです。それは友人のチェンバレンへの手紙の記述を見てもわかると思います。ところが、ビスランドにだけは、心を開いて何でも語っています。それはなぜだったのでしょう。

ハーンと彼女が共有していた本質

もしも大胆な仮説が許されるなら、私は彼女とハーンの間には、ある共通項があったと思うのです。それが2人を結びつけたのです。では、その共通項は何かというと、漂泊の魂なのです。

ジャーナリスト兼小説家のエリザベス・ビスランド
ジャーナリスト兼小説家のエリザベス・ビズランドの写真。1891年〔写真=エリザベス・ビズランド『In Seven Stages:A Flying Trip Around the World』(ハーパー・アンド・ブラザーズ)/PD US/Wikimedia Commons〕

19世紀末のアメリカは、知と富を手に入れ、世界中のあらゆる地点に人間が散ってゆきました。それは何も男性にだけ起きた現象ではなかったのです。女性もまた、空間へのコントロールを得ようとしていました。

エリザベス・ビスランドは南部の大農場主の娘に生まれ、文筆で身を立てるべく10代の終わりにニューオーリンズに来ました。ハーンと出会ったのはそこの新聞社でした。彼女が21歳の時のことですが、どうしたわけかハーンは彼女が16歳くらいだったと記憶しています。

ハーンがニューオーリンズを去るより早く、ビスランドはニューヨークへ行ってしまいます。持ち前の才気と美貌で、たちまち『コスモポリタン』など一流の雑誌に原稿を書くようになりました。そしてハーンが日本へ発つより先に彼女は世界一周の旅に出ています。これは、当時アメリカでトップクラスの女流ジャーナリストだったネリー・ブライと、どちらが早く世界一周ができるかを競う出版社の企画だったのです。結局4日間の差でビスランドは負けます。しかし、世界一周の途中でハーンより以前に横浜の土を踏んでいるのは興味深い事実です。

上流階級夫人となって漂泊はやめた

その後、ビスランドはイギリスへ渡り、しばらくルポルタージュを寄稿したりするのですが、ニューヨークから海を渡って求婚をしに来たウェットモアと結ばれます。結婚してからも仕事を続けてはいますが、キャリアウーマンというより裕福な上流階級の婦人の生活を送りました。

世界一周に出たエリザベス・ビスランド
世界一周に出たエリザベス・ビスランド(写真=ニューヨーク公共図書館アーカイブ/PD US/Wikimedia Commons)

したがってビスランドもハーンと同じく、結婚生活の安定によって、旅を続ける必要がなくなってしまったのです。しかし彼女の自伝的な小説を読むと、満たされない心を抱いて漂泊を続けた若き日の様子が描かれています。しかも主人公の職業を旅回りの女優としているところも、はなはだ暗示的です。

ハーンは、まるで空を飛ぶように絶えず空間を移動させていた若き日のビスランドの陰画ともいえる青年時代を送ったのではないでしょうか。それをふたりともお互いに心のどこかで知っていたのでしょう。だからこそ、ハーンは例外的にビスランドとの絆を保つことができたのだと思います。

いかに一方的にハーンがビスランドに心を寄せていたかは、書斎に写真を飾ったり、生徒に授業中にその名前を復唱させたりしていたのでもわかりますが、その上、1901年に出版した『日本雑記』は「エリザベス・ビズランド・ウェトモア夫人へ」という献辞が入っています。

エリザベスの代表作はハーンの伝記

しかし、ニューヨークにいた頃でさえビスランドは、近寄りがたい存在でしたから、まして大富豪の妻となった彼女はハーンにとっては、まさに遠い「妖精の女王」だったのです。

ところが皮肉なことに、ビスランドがアメリカの文学史に名前を残すとしたら、それはラフカディオ・ハーンの伝記と手紙を編集した作家としてでした。1929年の1月に、彼女が67歳で他界した時、その死を報じる新聞はいずれも申し合わせたように、ラフカディオ・ハーンの才能を最初に認めた人間の一人であり、彼の手紙をまとめて出版した作家として紹介しています。

若き日のビスランドはハーンとは比べものにならないほど有名で、マスコミの寵児だった時期もありました。ハーンが飢えの恐怖と戦いながら原稿を書いていた時、彼女は華やかな社交界で多くの信奉者に囲まれていました。そして、あるジャーナリストが「どんな娘でもプロポーズされたらノーとはいえない」と形容したほどの、学歴、財産、容姿、すべてをかね備えた男性と結婚したのです。

エリザベス・ビスランド著『ラフカディオ・ハーンの生涯と手紙』(1906年初版本)
エリザベス・ビスランド著『ラフカディオ・ハーンの生涯と手紙』(1906年初版本)、ニューヨーク公共図書館所蔵

しかし、作家としての彼女には10冊以上の著書もあるのですが、代表作と呼べるものはなく、わずかにハーンの友人であり彼の書簡の編纂者としてのみ名前をとどめるに過ぎなかったのです。そこに人生の皮肉を見るのは私だけではないと思います。

セツは夫を日本につなぎ留めた

いっぽう日本の女性は、ビスランドのように空を飛ぶ勢いで、太平洋を渡ったりはしません。逆にハーンを大地に引き止める力となっていました。

もともとハーンは東京で暮らすのは気が進まなかったのですが、セツ夫人の強い希望だったといいます。さらに夫人は「いつまでも、借家住いで暮すよりも、小さくとも、自分の好きなように、一軒建てたい」とハーンにいい、西大久保に家まで建てます。これでもう、ハーンは完全に地面に定着したことになります。

2人の間には3人の息子と1人の娘が出来るのですから、もちろん定着して当たり前なのですが、ハーンのそれまでの人生を考えると、ずいぶん変わったものだと思わざるを得ません。

工藤美代子『小泉八雲 漂泊の作家ラフカディオ・ハーンの生涯』(毎日文庫)
工藤美代子『小泉八雲 漂泊の作家ラフカディオ・ハーンの生涯』(毎日文庫)

ハーンの気持ちの中に全く葛藤がなかったとはいえません。アメリカへ帰れる可能性をビスランドにも打診しています。子供に熱心に英語を教えたのも、そのためでした。しかし、ハーンがどう夢想しようともう小泉八雲としての空間の移動はかなわぬ境遇になっていたのでした。

1896年の2月に日本に帰化する手続きが完了したハーンは、小泉八雲としてセツの戸籍に入りました。

これでハーンの放浪の日々もいよいよ終わりを告げたことになります。東京時代のハーンの生活は妻と3人の子供たちのいる家庭を大切にした学究的な日々となりました。たとえ、旅への憧れがあったとしても、現実的には不可能だったでしょう。セツの家族まで含めると所帯があまりに大きくなってしまったのです。それはまるでハーンという漂泊の魂を持った大木を、しっかりと地面から支える根とでもいえたかもしれません。

工藤 美代子(くどう・みよこ)
ノンフィクション作家
1950年、東京都生まれ。18歳でチェコのカレル大学に留学。帰国後に70年大阪万博の通訳。72年の札幌五輪のコンパニオンをつとめる。73年にカナダに渡りコロンビア・カレッジを卒業。93年に日本に帰国。昭和史、皇室関係のノンフィクションを執筆。『工藤写真館の昭和』で講談社ノンフィクション賞受賞。主な著書に『悪名の棺 笹川良一伝』『絢爛たる醜聞 岸信介伝』『母宮貞明皇后とその時代 三笠宮両殿下が語る思い出』『美智子皇后の真実』など。

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