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「果物のコンプライアンス」ワクサカソウヘイ(文筆家)

  • 2025.12.22

編集部注目の書き手による単発エッセイ連載「DIARIES」。今回は、構成作家としてコントライブなどでも活躍されている、文筆家のワクサカソウヘイさんです。動物や旅についてのユーモラスなエッセイが魅力のワクサカさんが今回テーマに選んでくださったのは、「果物のコンプライアンス」。タイトルからは想像もつかない、胸が苦しくなるようなノスタルジーでいっぱいになる一編です。

いちごは、潰すものではなかったか。

いまでは信じられない話であろうが、私がまだ子どもだった頃、いちごはスプーンで潰して食べることが当たり前だった。いちごの模様が刻印された、底の平らな専用のスプーンが、どこの家庭の食器棚にも必ず常備されている時代があったのだ。

水を弾いてキラキラと光る、大粒のいちごたち。それをボウル型の皿に入れて、砂糖をまぶして、牛乳に浸して、専用スプーンでぐりぐりと押し潰す。ぐちゃぐちゃのシェイク状になったそれを、咀嚼もせずに喉の奥へと流し込む。なんて、野蛮なのか。なんて、乱暴なのか。いちごからしたら、山賊に捕まってしまったような気分であろう。しかし当時は、誰もがこの方法でいちごを食べていたのである。

専用のスプーンといえば、グレープフルーツ。これもまた、いまでは考えられないような扱いをされていた果物だ。

まず、半分に切る。そして断面に、たっぷりと砂糖を盛る。それから先がギザギザとした専用スプーンを取り出して、果肉をほじくって無言で口へと運ぶ。蟹ではない、グレープフルーツの食べ方だ。

いちごにしても、グレープフルーツにしても、砂糖を加えられている点が、なかなかに不憫である。そのままで勝負できるはずの実力を、信じられていない。コンテンツの魅力を、低く見積もられている。砂糖にまみれながら、いちごもグレープフルーツも、きっと傷ついていたはずである。しかしあの頃、果物の心情に対する配慮は大きく欠けていた時代であったのだ。「これっておかしいんじゃないですか」、そんな言葉を口にすること自体が間違っているとされた時代であったのだ。

かつてスイカの傍らには、絶対的に食卓塩の瓶が置かれていた。「甘さを引き立てるため、赤い果肉には白い塩を振りかけるべきである」というのが当時の常識だったのである。しかしいま、その常識は絶滅寸前のものとなっている。スイカが糖度を高めた結果なのか、それとも塩をかけることによって現れる甘味は虚構のものだとようやく悟ったからなのか。あと、キャンプ場ではスイカを川で冷やすことがままあったが、あの光景も近年は見かけなくなった。念のため断言しておきたいが、川でスイカは、全然、冷えない。人類はその真実に辿り着くまで、何十年もかかってしまったのだ。時が移ろう中で、「果物のコンプライアンス」は、ひっそりと何度も見直されてきたのだ。

そうやって、果物の過去と現在を想う中で、浮かんでくるのは「リンゴのうさぎ」だ。

高校の昼休み、弁当箱の蓋を開ける。するとそこには、赤い耳を持つ「うさぎ」が私を待っていた。皮にV字の切れ込みを入れられた、くし形のリンゴである。

母の手間がかかったそのリンゴを齧ると、じゅわっと塩水の味が口の中に広がって、それからリンゴ本来の生ぬるい甘さが、慌てて追いかけてくる。取り立てて、美味しいものではない。しかし「リンゴのうさぎ」は、コンプライアンスを維持するようにして、毎日必ず添えられていた。高校生になった息子の弁当に「リンゴのうさぎ」はないでしょ、と気恥ずかしさをいつも感じていたが、それを口にして母に伝えることはなんだか間違っている気がして、黙って受け入れていた。

あのうさぎを見なくなって、どれほどの月日が経っただろうか。

いま、一人でリンゴを食べようとする時でも、誰かにリンゴを食べさせようとする時でも、そこに赤い耳の切れ込みを入れることなど、絶対にしない。だって、めんどくさすぎる。

うさぎにするどころか、くし形に切ることすら、自分のコンプライアンス基準においては昨今、推奨していない。リンゴは、横向きで薄く輪切りにするのが正解である。芯の部分が星の形に見えることから「スターカット」と呼ばれるこの切り方であれば、わざわざ皮を剥く必要はないし、廃棄する芯の部分も最小限で済む。コストパフォーマンス的にも、タイムパフォーマンス的にも、理にかなっている方法だ。

この現代において、「リンゴのうさぎ」というのは、古すぎる考え方であると言わざるを得ない。

旧態依然とした常識は、新たなコンプライアンスによって、洗い流されていく。

先日、久しぶりに実家の様子を見に行った。

しばらく会っていない間に、母はずいぶんと年老いていた。かつてリンゴの皮を器用にうさぎの耳へと変えていたその手は、皺だらけとなり、いまでは自分の茶碗を持つのも少し頼りないようだった。

台所で夕食の片づけを手伝っていると、食器棚の奥から、あの「いちご専用スプーン」が出てきた。柄の部分が少し黒ずんでいる。もう二十年以上も出番はなかったはずなのに、よく捨てられていなかったものである。よく見たら、「グレープフルーツ専用スプーン」もある。懐かしいねえ、と母が笑う。その目尻の皺に、過ぎ去った日々の厚みを見る。

激動の時代であった。シャインマスカットの鮮烈なデビューによって、我々は皮を剥いて食べるブドウのことが億劫になった。スーパーマーケットにはカットされたフルーツが並ぶようになり、パイナップルをまるごと買う機会は激減した。「果物」として登場したアボカドは、やがて「おかず」としての地位を確立した。旧態依然とした常識は、新たなコンプライアンスによって、洗い流されていく。そのうち、私たちは皮ごとメロンを食べるようになるかもしれない。柿をバターで焼くようになるかもしれない。ドラゴンフルーツを日常の食卓に受け入れるようになるかもしれない。川で再びスイカを冷やすようになるかもしれない。常識とは、常に変わりゆくからこそ、常識なのである。

食後のデザートは、リンゴにしようか。そう言って私は包丁を握る。

いつもであれば「スターカット」だが、しかし少し考えてから、縦に八等分して、芯を切り落とした。母に、「リンゴのうさぎ」を切ってやろう。

皮にV字の切れ込みを入れる。不器用な指先がおぼつかず、皮の厚さが均一にならない。耳の形がいびつになる。めんどくさい。本当に、めんどくさい。あの頃、母はこんなにもめんどくさい作業を、毎日やっていたのか。

はい、どうぞ。不格好なうさぎたちを皿の上に載せて出すと、あら、上手に切ったじゃない、と母は喜んだ。

楊枝で口に運んでみる。アナログな甘みと酸味が、口の中に広がる。うん、美味しいリンゴだね、と母は言う。まあね、そうだね、なんて適当に返事をしながら、こうやって母と食卓を囲む機会は、もしかしたらもう数えるほどしか残っていないのかもしれないな、なんてぼんやりと思う。しかしそれを口にして母に伝えることもまた、なんだか間違っている気がして、ただ移ろってしまった時間の流れだけを飲み込んだ。

ワクサカソウヘイ

文筆家。1983年東京都生まれ。エッセイから小説、ルポ、脚本など、執筆活動は多岐にわたる。著書に『今日もひとり、ディズニーランドで』『夜の墓場で反省会』『男だけど、』『ふざける力』『出セイカツ記』など多数。また制作業や構成作家として多くの舞台やコントライブ、イベントにも携わっている。
X:@wakusaka

文=ワクサカソウヘイ

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