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ジェームズ・キャメロン、『ターミネーター』のような映画は「今は作れない」

  • 2025.12.19
ジェームズ・キャメロン クランクイン! width=
ジェームズ・キャメロン クランクイン!

度肝を抜かれる撮影方法と革命的な映像表現で世界中の人々を魅了し、現在進行系で映画史に名を刻み続ける映画『アバター』シリーズ。世界歴代興行収入ランキングでは、『アバター』が第1位、『アバター:ウェイ・オブ・ウォーター』が第3位に君臨しており、興行面でも批評面でも高い評価を獲得している。そんな大成功を収めている本シリーズ第3作目となる『アバター:ファイヤー・アンド・アッシュ』が19日に公開。来日したジェームズ・キャメロンに話を聞くと、『ターミネーター』(1984)のような映画は「今は作れない」と興味深い考えが飛び出した。

【写真】キャメロンが「“ちゃんと終わりに向かう物語”だと理解して」だと語る『アバター:ファイヤー・アンド・アッシュ』場面写真

■「次があるかどうかは分かりません」

本作の舞台は『ウェイ・オブ・ウォーター』から数週間後。長男ネテヤムを亡くし、悲しみに暮れていたジェイクたちサリー家。しかし人間たちはパンドラへの侵略を続行し、さらに同じナヴィでありながら、パンドラの支配を目論むアッシュ族のヴァランが、人類と手を組んで復讐を果たそうとしていた。あらゆる種族のナヴィと人間を巻き込んだ、炎の決戦が始まる――。

もともと『ウェイ・オブ・ウォーター』と『ファイヤー・アンド・アッシュ』は、1つの物語だった。「最初は1本の映画に詰め込もうとしたのですが、うまくいきませんでした。なので脚本を2つに分け、少し構成を組み替えて、2本の映画にしました。結果的にどちらも3時間を超えてしまいましたが(笑)」とキャメロンは笑う。

とはいえ、クリフハンガーはせず、着地点を見据えた物語になっていると明言。「観客の皆さんには、本作が“この物語の完結編”であることを知っていただきたいです。『また続くんでしょう?』と思われがちですが、第一に本作で興行的に成功しない限り、次があるかどうかは分かりません。そして、もし続編を作るなら、それはまた“新しい物語”の始まりになります。なので皆さんには、これは“ちゃんと終わりに向かう物語”だと理解していてほしいです。どこにも着地しないまま終わるような物語ではありません。わたしたちはカタルシスにたどり着くように、一生懸命映画を作りました」と話す。

サリー家は、本作でさまざまな課題に直面する。長男ネテヤムの死を受け、ネイティリは「スカイ・ピープル(人間)は全員悪で、滅ぼさなければいけない」とレイシスト寸前の考え方を持つようになる。しかし子どもたちの親友的存在で、サリー家の養子であるスパイダーは、幼い頃にパンドラに取り残された人間の子ども。憎しみや悲しみが生む葛藤や矛盾に、今回サリー家は向き合わなければいけない。

「もし観客の皆さんがネイティリとスパイダーのことを好きであれば、この問題が解決してほしいと願うはずです。彼らがこの状況をどう乗り越え、どう修復するのかを見たいという欲求が生まれるはず。知っての通り、わたしはバッドエンドにしないタイプの人間です。どうやって問題を解決していくのか――ここが映画の旅路になっています」

本作は“暴力と悲しみ”が大きなテーマになっている。キャメロンは「物語における“火”は、暴力や憎しみを象徴していて、それが“悲しみの灰”につながることを象徴しています」と語り、今回から登場するアッシュ族の重要性についても話した。火山帯に住むアッシュ族は、火山の炎で故郷を奪われたことから、エイワ(パンドラの女神)を憎んでいる。

「物語の中で、キャラクターたちが喪に服したり、悲しみの期間にいることを表すために、わたしたちは彼らの鼻筋に灰の筋を付けていました。しかしアッシュ族は、体中に灰を塗っています。それは自分たちの土地を破壊され、無力さを味わった瞬間から、もう一度力を取り戻したい思いを表しているからです。ある意味でアッシュ族は悲しみを武器に変えてしまっていて、本質的には加害者になってしまっています」

「ロアクがナレーションで『憎しみの炎は、悲しみの炎を残す――』と言います。これがテーマの一部になっていて、本作では、悲しみや喪失、トラウマが今度は憎しみや暴力につながり、循環してしまう…といった点を描いています。このような“循環”は、歴史の中でも、今のわれわれの現実世界でも起きています。なので『ファイヤー・アンド・アッシュ』では、ある種、<どうしたらこの循環を断ち切れるのか?>という問いを投げかけているんです」

正解のない問いに向き合う上で、キャメロンは「暴力はいつ必要なのか?」について考えるようになったという。その結果として、撮影したにもかかわらずカットしたシーンもあったそう。

■『ターミネーター』のような映画は「作れない」 その理由は?

「主人公のジェイクは元海兵隊員です。海兵隊には『世界で最も強力な武器は、海兵隊員とライフルだ』という言い回しがあります。わたしはこの物語の脚本を20年前に書き始めましたが、当初の脚本では<ジェイクがナヴィに銃を配って使い方を教える>というシーンがありました。しかし6年前に撮影してから、『暴力はいつ必要なのか』について、ずっと考えて、最終的にはカットしました」

「つまり戦争や防衛、反撃のための戦いが正当化されるのはいつなのか? 逆に、それが攻撃的・支配的・侵略的あるいは“ただの病理”になるのはどこなのか? ということを考えたんです。映画の中にもそのテーマがかなり色濃く出ていると思います。明確な答えがあるわけではないですし、わたし自身も『これが正解だ』とは思っていません。そもそも簡単な答えなんて存在しないんです」

本作で描かれる戦いの目的は、キャラクターでさまざま。スカイ・ピープル(人間)は極めて攻撃的で、大型の武器システムを持ち、命を軽んじている“征服者”。一方で、アッシュ族は過去に受けたトラウマのせいで、攻撃的な存在になってしまう。

「アッシュ族は“銃”を欲しがります。なぜなら銃は、“力”を象徴するからです。彼らに武器が渡れば、武力を持ってしまう。これは植民地主義の時代にも起きたことで、先住民がヨーロッパの植民者から武器を与えられ、同士討ちが起き、それが結果的に完全な征服へとつながっていきました」

一方、戦士として訓練された人生を送ってきたジェイクは、仲間や家族、自分が信じるものを守るために戦いを選ぶ。

「彼には勇気も、戦いを指揮する知性もあります。でも、できるなら戦いたくない。戦えば、守ろうとしている人々の命が犠牲になると知っているからです。もう一方の極端な存在として、トゥルクン(パンドラに生息するクジラのような海洋生物)たちがいます。彼らは完全な平和主義者で、どんな理由があっても戦いません。ただし例外がいます――パヤカンです。彼は母親を“外敵”に殺されるのを目の当たりにし、反撃しました」

「つまり、簡単な答えはどこにもないんです。でもわたしが描きたかったのは“侵略のための戦争”と、“信じるもののために戦うこと”、そして“家族や仲間やコミュニティのために戦う勇気”の違いなんです。映画はその全部を描いています。ジェイクにも“簡単な答え”はありません。ネイティリにとっては単純で「全員殺せばいい」と思ってしまうでしょう。でも彼女ですら、自分の中の憎しみや敵意と向き合わなければならないんです。結局この物語は、人々がこうした“難しい倫理的問題”をどう切り抜け、自分の道を見つけるのかという話なんです」

加えて「『ターミネーター』のような映画は今は多分撮れないかもしれない」ともキャメロンは語る。具体的には、銃の暴力を称賛するような映画だ。「銃暴力や銃乱射事件が増える中で、今『ターミネーター』のような映画を撮ることは正直難しいと思っています。そういった事件が起こる現実に本当に恐怖しているし、ニュースを聞くたびに胸を痛めています」と話す。


そんなキャメロンは「映画にしかできないこと」を問われると、少し悩みながら「1つのアイデアを正確に表現できるもの」と回答。

「テレビ番組に、同じレベルの没入体験は生み出せないと思っています。映画館に行くと、より深い体験があり、より強い没入とつながりが生まれ、自然と集中します。TikTokが悪いわけではないですが、映画は短尺動画とは違うし、リモコンひとつでいつでも止められる配信作品とも違います」

「映画を見る時、わたしはよく『自分自身と契約を結ぶ』という言い方をするのですが、ほぼ瞑想に近い状態に自分を置くんです。2時間、あるいは3時間、途中で途切れない体験になると分かっていて、そこに身を委ねる。ある意味、自分自身に“より深い体験をすること”を課しているとも言えます。そうやって映画は見る人の感覚を完全に支配します。これこそが、映画にしかできないことだと思っています」

(取材・文・写真:阿部桜子)

映画『アバター:ファイヤー・アンド・アッシュ』は公開中。

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