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“不快さ”をエンタメにするアリ・アスターの強い意志。『エディントンへようこそ』の狙いとその達成【宇野維正の「映画のことは監督に訊け」】

  • 2025.12.12

もしかしたら、現在40歳未満の海外の映画監督の中で、アリ・アスターは日本で最も知名度のある監督かもしれない。その理由ははっきりしていて、一つはシンプルに『ヘレディタリー/継承』(18)、『ミッドサマー』(19)、『ボーはおそれている』(23)とこれまで撮ってきた3作品がいずれも優れた作品であるだけなく、観客の印象に強く残る作家性が刻印された作品であること。もう一つは、当たり前と思われるかもしれないが実は日本の“洋画”環境で損なわれつつある「これまですべての長編作品が国内で劇場公開されてきた」監督であり、さらにレアなことに、『ミッドサマー』以降、今作『エディントンへようこそ』まで3作連続してプロモーション来日をしている監督であることだ。

最新作『エディントンへようこそ』を引っ提げて10月に来日したアリ・アスター監督が登場!

今回の対面インタビューも、そうした取材に関する好条件を背景に実現したものであることは言うまでもない。その代償として、インタビュー自体のレア度は低くなるわけだが、彼の作品の編集におけるセオリーや撮影に対する考え方についてしっかり言語化したテキストとしてレアなものになることを心がけた(他のインタビュアーが訊きそうにない質問だけをするというのは、連続して取材をこなす監督の集中力を維持してもらうためにも必要だったりする)。

冒頭に、大島依提亜がデザインを手掛けたTシャツをプレゼント。同じものはA24公認・日本オリジナルTシャツとして販売中 撮影/黒羽政志
冒頭に、大島依提亜がデザインを手掛けたTシャツをプレゼント。同じものはA24公認・日本オリジナルTシャツとして販売中 撮影/黒羽政志

2025年のアメリカ映画を振り返った時、『エディントンへようこそ』は現代劇として共通するモチーフも少なくない、既に主要アワードを席巻しつつあるポール・トーマス・アンダーソンの『ワン・バトル・アフター・アナザー』と同じくらい重要な作品として記憶されるべき作品だと自分は考えている。冒頭で「40歳未満」と書いたようにアリ・アスターはまだ39歳。すでに巨匠ポジションを築き上げているポール・トーマス・アンダーソンや、『エディントンへようこそ』の主演にして、その両監督の作品で監督の分身的な役を演じることも多い名優ホアキン・フェニックスの世代と違って、キャリア的にもまだまだアメリカという国の現実に向き合って生きていかなければならない世代であり、無責任に子供世代(≒Z世代)へと希望を託すには若すぎる世代だ。

インタビューで印象に残ったのは「現在の多くの映画作家が、かつてのように自分たちが生きているこの社会を強く反映させた映画を作ることを避けているのは、端的に、それが不快だからだ」という発言。ワーナー売却でいよいよ本格化するであろうハリウッドの終焉と、そこにも強い影響を及ぼしている第二期トランプ政権。とりわけアメリカの映画界では蛇蝎の如く嫌われているAIの問題。ますます“不快”さが天井知らずに高まりつつあるこの世界で、一貫して“不快”なことばかりを映画というアートフォームの力でエンターテインメントとして昇華させてきたアリ・アスターの役割は、今後さらに重要なものになっていく予感がする。

※本記事は、ストーリーの核心に触れる記述を含みます。

最新作『エディントンへようこそ』を引っ提げて10月に来日したアリ・アスター監督が登場! 撮影/黒羽政志
最新作『エディントンへようこそ』を引っ提げて10月に来日したアリ・アスター監督が登場! 撮影/黒羽政志

「どうしてもっと多くの映画監督が、本当にいまの社会で起きていることについての映画を作らないのか不思議に思っています」(アリ・アスター)

——2018年にあなたの長編デビュー作『ヘレディタリー/継承』を試写で観て度肝を抜かれた直後、あなたのアカウントをTwitter(現X)でフォローしたんです。すると、あなたはすぐにフォローバックしてくれました。その後も数年間、あなたがフォローしてる唯一の日本人が自分だったのですが、コロナ禍に入ってしばらくした頃にあなたはアカウントを消しましたよね。

アリ・アスター監督(以下、アスター)「あのころは、ソーシャルメディアがますます有害なものになっていると感じてました。特にTwitterは顕著でしたね。精神的にも良い影響はまったくなく、そこから得られる前向きなものもありませんでした。いつからか、ソーシャルメディアは人に不安を生みだし増幅させるだけの存在になってしまいました」

——あなただけじゃなく、他の多くの監督もここ数年でソーシャルメディアからいなくなりました。映画監督とソーシャルメディアというのは、あまり相性の良いものじゃないないのかもしれませんね。

アスター「おそらくね」

——2020年の新型コロナウイルスのパンデミック期を舞台にした『エディントンへようこそ』は、ハリウッド映画が初めて2020年代のアメリカの政治や社会やソーシャルメディアの問題をメタファーではなく、真正面からリアルに描いた作品だと思いました。正直、あなたの新作がこういう作品になるとは予想してなかったので、そのことに驚きました。そこで訊きたいのは——。

アスター「どうしてあなたは僕が『エディントンへようこそ』のような映画を作るとは予想してなかったんですか? まずはそれを訊いてみたいですね」

——前々作『ミッドサマー』、そして前作『ボーはおそれている』と、あなたの作風が徐々に内省的になってきていることが気になっていたんです。

アスター「内省的?」

——幻想的と言い換えてもいいかもしれません。一方、今回の『エディントンへようこそ』はとてもリアリズムに寄った作品で。自分があなたの作品で特に好きなのは、『ミッドサマー』の序盤、アメリカからスウェーデンに行くまでの、あの救いがなくて意地の悪い20数分のシークエンスなんですね。『エディントンへようこそ』はあの序盤のトーンが最後まで続くような作品で、まずはそのことにとても興奮しました。

アスター「なるほど。質問を続けてください」

——(苦笑)。まず訊きたいのは、どうしてあなたはこのようなアメリカの現在を真正面から描いた作品を作ろうとしたのか、そして作ることができたのかということで。逆に言うと、現代の他の優れた映画監督たちはどうして現代社会を真正面から描けず、過去の世界や架空の世界を舞台にした作品を作っているのだと思いますか?

アスター「僕自身、どうしてもっと多くの映画監督が、本当にいまの社会で起きていることについての映画を作らないのか不思議に思っています。もちろん、現代を舞台にした映画はたくさんありますが、登場人物がスマートフォンを使っていても、その深刻な依存ぶりや、それを取り巻く新しいシステムの息苦しさまでを作品から感じることはあまりないです。単に生活の道具、舞台背景の一部として存在している。でも、私はあの装置が私たちの生活とどれほど深く結びついているかを強調したかったんです」

「あなたは明確にスマートフォンをかつての銃のように描いてますよね」(宇野)

——スマートフォン以前、以降で世界はこんなに変わってしまったのに、多くの映画作家はそれに気づいていないふりをしているということですね。

アスター「現在の多くの映画作家が、かつてのように自分たちが生きているこの社会を強く反映させた映画を作ることを避けているのは、端的に、それが不快だからだと思います。それに、いまは世の中の変化のスピードがあまりにも速すぎる。ニュースのサイクルを見ていても、一日のうちに情勢が正反対なものに変わってしまう。そこでは何かをじっくりと消化する暇がないんです。新型コロナウイルスのパンデミックについての映画があまり作られていないのも、私たちが2020年に起こったことをまだちゃんと消化できていないからでしょう。むしろ、2020年に始まったあの出来事の影響は、いまだに続いていて、悪化しているとさえ言える。だから、人はその不快な現実から目を背けて、ノスタルジアに逃げたくなるんです。懐古主義に走ったり、あるいは寓話的に過去や未来の世界に逃避して、そこに“現在と似たような状況”を作り出して、間接的にそこから何かを見出そうとする。でも、現実として私たちはいま、いままでにない瞬間を生きています。他の時代との歴史的な類似点はあったとしても、私たちが生きているこの時代はかなりユニークなもの、歴史の特異点と言える時代だと思うんです。特にテクノロジーとの関係性においてはそうですね。私たちはいま、テクノロジーが『私たちのために働いてくれる』のか、それとも『私たちに逆らって働く』のか、それが決定してしまう直前の分岐点にいるのです」

——自分はこの映画を現代を舞台にした西部劇だと思っているのですが、そこであなたは明確にスマートフォンをかつての銃のように描いてますよね。多くの映画作家が現代を舞台にした作品を撮る時、スマートフォンというツールを必要悪的な存在として消極的に描いている、あるいは極端なケースではほとんど存在しないものとして描いているなか、とてもシャープかつ正確な切り口だと思いました。

アスター「そこに気づいてもらえたのはうれしいですね」

小競り合いから対立し突如、市長選に立候補する保安官のジョー(写真左、ホアキン・フェニックス)と現市長のテッド(同右、ペドロ・パスカル) [c] 2025 Joe Cross For Mayor Rights LLC. All Rights Reserved.
小競り合いから対立し突如、市長選に立候補する保安官のジョー(写真左、ホアキン・フェニックス)と現市長のテッド(同右、ペドロ・パスカル) [c] 2025 Joe Cross For Mayor Rights LLC. All Rights Reserved.

「テッドもジョーも、きっと本人たちが考えているほどの大きな違いはないということ」(アリ・アスター)

——一般的には、『エディントンへようこそ』はダークコメディ的な作品と捉えられているように思いますが、自分はかなりシリアスな作品だと思ったんですね。本作のコメディ要素の匙加減について、どういう考えを経てこのバランスに行き着いたのでしょうか?

アスター「自分としては、この作品を強めの社会風刺を含んだダークコメディとして見てほしいと思っています。笑えるけれど、きっとその笑いは喉の奥に何かが引っかかるようなものになるはずです。かなり挑発的な作品ですからね。そして最終的には、あなたの言うようにかなりシリアスな問いを投げかけた作品でもあります。重要なのは、それが“答え”ではなく“問いかけ”であるということです。なぜなら、私自身が明確な答えを持っているわけではないので。この作品にはたくさんの“問いかけ”がありますが、なかでも大きな“問いかけ”は、『私たちはこの道をこのまま進みたいのか?』ということ。そして、『この社会の変化のスピードをいっそう加速させたいのか?』ということだと思います」

——デリケートな質問だというのは承知の上で、この作品の政治的なバランスについても少し訊かせてください。作品が始まって少なくとも1時間半くらい、つまりホアキン・フェニックス演じるジョーが明白な犯罪を犯すまでは、自分はジョーにかなり共感して物語にのめり込んでしまったんですね。それは、この作品の脚本を書いて、監督をしている、あなた自身がまさにジョーと一体化しているからでもあると思うのですが、それは見当違いな意見でしょうか?

にこやかに、時に少し考えるそぶりを見せながら答えてくれたアリ・アスター 撮影/黒羽政志
にこやかに、時に少し考えるそぶりを見せながら答えてくれたアリ・アスター 撮影/黒羽政志

アスター「僕がジョーに惹かれるとしたら、それは政治的なスタンスではなく、単純に彼のことをおもしろい人物だと思うからです。つまり、キャラクターとしては自分にも共感できる部分がたくさんあります。ただ、彼の政治的な考えは僕とは違います。僕にとって大事だったのは、彼のことを一方的に賞賛したり一方的に批判したりせず、そこに人間性を見出すことでした。彼は妻を愛している人物です。妻のことを完全には理解していないけれど、愛しているし、自分の仕事も大切にしている。自分が住んでいるこの世界のことも気にかけている。でも、彼の世界に対する見方はすごく狭いんです。この映画は、観客がまず彼に共感するように作られています。そして、そこからその共感が裏切られるような仕組みになっているんです」

——まんまとあなたの術中にはまってしまったわけですね(笑)。

アスター「(笑)」

——とはいえ、あなたはテッドよりはジョーに政治的立場が近いんじゃないかとも思ったんですが。

アスター「テッドはその職業からもわかるように典型的な政治家タイプ、つまりは計算高い人間で、偽善者です。一方、ジョーは自分の意図や考えに関して、テッドよりは正直に語る傾向がある。でも、結局のところジョーも偽善者であることが明らかになります。僕がこの映画で描きたかったのは、テッドもジョーも、きっと本人たちが考えているほどの大きな違いはないということです」

——なるほど。ペドロ・パスカルは政治的な意見を表明し、そこでアクションもしているアクターの一人ですが、彼はテッドというキャラクターの描き方について何か意見を言ったりはしなかったんですか?

潤沢な資金を持ち、町民からの信頼を集める現市長・テッド(ペドロ・パスカル) [c] 2025 Joe Cross For Mayor Rights LLC. All Rights Reserved.
潤沢な資金を持ち、町民からの信頼を集める現市長・テッド(ペドロ・パスカル) [c] 2025 Joe Cross For Mayor Rights LLC. All Rights Reserved.

アスター「まあ、すべては脚本に書かれていたことですし、プロフェッショナルな役者なので、オファーを受けてくれた段階で自分が演じるキャラクターについては納得していたはずです。確かにテッドは計算高い人物ですが、多くの痛みを抱えている複雑な男でもあります。妻との過去や、息子とのぎくしゃくした関係、とても脆い自尊心――こうした要素をペドロと掘り下げて議論するのはとても楽しい作業でした。それはホアキンとの作業も同様です。ホアキンとは、とにかくジョーができるだけ複雑な人物になるように一緒に考えました。ジョーは多くの面で道化師のような存在ですが、まぎれもなく人間的なんです。ジョーにはすごくユーモラスな側面があって、ホアキンはすぐにそのことを見抜いてくれました。そして、ホアキンにとっても、ペドロにとっても、自分が一番重要だと考えていたのは、それぞれのキャラクターを特定の価値観や思想でジャッジしないということでした。彼らはそのことにとても深い理解がありました」

カルト集団の教祖による扇動動画にのめり込んでいく、ジョーの妻ルイーズをエマ・ストーンが演じた [c] 2025 Joe Cross For Mayor Rights LLC. All Rights Reserved.
カルト集団の教祖による扇動動画にのめり込んでいく、ジョーの妻ルイーズをエマ・ストーンが演じた [c] 2025 Joe Cross For Mayor Rights LLC. All Rights Reserved.

——ラップミュージックでよく使われる言葉で、1曲の中で急に曲調が変わることを”ビートチェンジ”と言いますが、あなたの作品が現代的な作品である理由の一つは、その“ビートチェンジ”にあると思うんですね。先ほども『ミッドサマー』のスウェーデンに舞台が移る前の序盤のシークエンスの話をしましたが、あの作品では終盤にももう一段階作品の“ビート”が変わる展開があります。『ヘレディタリー』も、そして今回の『エディントンへようこそ』も、ある出来事をきっかけにしてまるでビートがチェンジするように作品のトーンが変わっていきます。

アスター「それはいい喩えですね。僕自身、映画にどこに連れて行かれるのかわからなくなる瞬間が好きです。映画が安全なものではなくなって、観客が足元をすくわれたような気持ちになる瞬間にこそ、映画の興奮があると思っています。もしすべてが予想どおりに進むなら――正直言って、特にハリウッド映画の多くはそうなんですが――すごく退屈に感じますし、ちょっとした憤りすら覚えます。映画の製作費は非常に高価で、作るのに長い時間と多くの労力もかかります。なのに、ただお決まりの展開を踏むだけの作品を作る意味はあるのかと疑問に思います。僕にとって大事なのは、観客の予想や期待を裏切ることです。必ずしも観客が望むものを与えるわけではなく、その代わりに別の何かを与える。そうすることで、作品を観た後に考える余地を与えたり、咀嚼するための材料を提供できると思ってます」

『エディントンへようこそ』は、ある事件を境にガラリと映画のトーンを変貌させる [c] 2025 Joe Cross For Mayor Rights LLC. All Rights Reserved.
『エディントンへようこそ』は、ある事件を境にガラリと映画のトーンを変貌させる [c] 2025 Joe Cross For Mayor Rights LLC. All Rights Reserved.

——予測不能なストーリーテリングについては、かなり意識的に取り組んでいるということですね。

アスター「はい。だからこそ、僕の映画は2回以上観ることが必要になることもあるんです。観客の期待を覆すように設計しているので、2度観ることで初めて完全に理解できるポイントがあります。特に『エディントンへようこそ』のような映画は、ちょっと複雑に作られていて、特に作品の前半では僕自身の信念や映画制作者としての信念を観客に向けて問いかけるように作ってます。いまの世界では、みんな一方的にメッセージを押しつけてくるので、自分でメッセージを掘り下げて、探す経験のほうが、よりおもしろいと思うんです。

「しっかりとしたテンポ——いわば“意図的なスローペース”が自分は好きなんです」(アリ・アスター)

——映画にとって直接的な意味でビートやリズムに当たるのは編集だと思いますが、あなたの作品に共通する編集のメソッドがあるとしたら、それはどんなものなのか教えてもらえないでしょうか? 本作も、あなたの作品ではお馴染みのルシアン・ジョンストンが編集を手掛けていますが、観客の生理感覚よりもほんの少し遅れて次のシーンに移行する、その独特のテンポが特徴なんじゃないかと自分は思っているのですが。

カルト教祖ヴァーノンについて、アスター監督は「ハーメルンの笛吹きのような人物」と表現している [c] 2025 Joe Cross For Mayor Rights LLC. All Rights Reserved.
カルト教祖ヴァーノンについて、アスター監督は「ハーメルンの笛吹きのような人物」と表現している [c] 2025 Joe Cross For Mayor Rights LLC. All Rights Reserved.

アスター「僕はじっくりと浸れる映画が好きなんです。観る人がその世界にゆっくりと沈み込んでいけるような作品。だから、編集でも意図的にゆったりとしたテンポを好みます。そうすることで観客が映画の中に深く入り込み、作品そのものに包み込まれるように感じてほしいんです。実際には、物語が進むにつれてそのテンポが少しずつ上がっていくことが多いです。でも作品の序盤では、まずその世界へゆっくりと“降りていく”ような感覚が大事なんです。ただし、『ボーはおそれている』では別の方法を試みました。他の作品とはむしろ逆で、序盤はスピーディに始まり、徐々に作品全体が減速していく。映画としては生理感覚や直感に反する作り方ですが、とても興味深い実験になったと思っています」

——言われてみると、確かにそうでしたね。

「しっかりとしたテンポ——いわば“意図的なスローペース”が自分は好きなんです。いまの主流の編集スタイルはテンポが速くて、カットも細かくて、映画があまり長く一つのシーンに留まらないですよね。でも、僕は映画に“呼吸”を与えたいといつも考えています。少しヨーロッパ映画的な考え方かもしれませんね。昔の日本映画も、静かで瞑想的なリズムをとても上手く扱っていると思います。『エディントンへようこそ』を“瞑想的”と呼ぶことはできないでしょうが、今回もやはり作品そのものが“呼吸をできるように”設計されています。編集を担当してくれているルーク・ジョンストンは、僕の親しい友人でもあり、とても優れた編集者です。彼と仕事をするのは本当に楽しいですね。お互いの好みが完全に一致しているので、何が“正しい”かを自然に共有できるんです」

ダリウス・コンジとのタッグを「これまでのやり方をほとんど変えることなく新しいことに挑戦できた」と語るアリ・アスター 撮影/黒羽政志
ダリウス・コンジとのタッグを「これまでのやり方をほとんど変えることなく新しいことに挑戦できた」と語るアリ・アスター 撮影/黒羽政志

——撮影では、今作で初めてダリウス・コンジと組んだわけですが、彼の錚々たるフィルモグラフィーにあなたの作品が並ぶのはちょっと意外でしたし、興奮させられました。彼の撮影のどういう部分を求めて、今回一緒に仕事をすることにしたのでしょうか?

「ずっとダリウス・コンジの仕事が大好きなんです。彼の作品はいつも本当に美しくて、僕の大好きな映画監督たちとたくさん仕事をしています。ジャン=ピエール・ジュネ、マルク・キャロ、ミヒャエル・ハネケ、ロマン・ポランスキー、デヴィッド・フィンチャー、そしてポン・ジュノ。これまでも何度か彼に会う機会があったのですが、本当に素敵な人なんですよ。優しくて、温かくて。僕たちはすぐに意気投合しました。それで、彼と一緒に仕事をすることで自分の作品の制作プロセスや映像の見え方がどう変わるかを体験してみたいという気持ちが高まって、今作でオファーをしました。彼は僕のやり方に興味を持ってくれて、とても寛大に受け入れてくれました。作品の全プロセスに積極的に関わろうとしてくれましたし、彼にとっても新しいやり方で仕事ができることにとてもワクワクしていたようです。その姿勢は、どこか子どものような純粋さがありましたね。学びたい、変わりたい、新しい経験をしたい——そういう欲求を彼はいまでも持っているんです。僕もその気持ちは同じでした。“巨匠”と呼ばれるような撮影監督と初めて仕事をして、その人物がどんなふうに照明を組み、どうやってクルーと関わっているのかを目の当たりにできたのは、本当に素晴らしい経験でした。彼は照明に対してすごく情熱を持っていて、撮影中のほとんどの時間をそこに費やします。一方、僕は構図やカメラの動きにこだわりがあるので、その部分は僕が主導するかたちになるわけですが、彼はそれをとても喜んでくれていました。ダリウスには“巨匠”にありがちなエゴがまったくなくて、とても仕事がしやすいんです。自分としても、これまでのやり方をほとんど変えることなく新しいことに挑戦できたので、とても実りのあるコラボレーションになりました」

——今日はありがとうございました。最近はプロデューサーとしての仕事もたくさんされてますが、監督としての次作も楽しみに待ってます。

「ありがとう。またお話ししましょう」

取材・文/宇野維正

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