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だから「県知事の娘」は小泉八雲と結婚できなかった…ばけばけ"佐野史郎のモデル"が直面した法律の壁

  • 2025.12.11

NHK「ばけばけ」では、江藤県知事(佐野史郎)の娘リヨ(北香那)が、小泉八雲をモデルにしたヘブン(トミー・バストウ)の心を射止めようと奔走している。実在の知事のモデル籠手田安定は、娘にどんなまなざしを送っていたのか。ルポライターの昼間たかしさんが、文献などから史実に迫る――。

ラフカディオ・ハーンの肖像
ラフカディオ・ハーンの肖像(写真=『The World's Work』/PD US/Wikimedia Commons)
モデルの県知事は「風格ある剣豪」
籠手田安定
籠手田安定(写真=島根県編『府県制の沿革と県政の回顧』、1940年/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

NHK朝の連続テレビ小説「ばけばけ」。一瞬で終わるかと思いきや約3週間繰り広げられているヘブン(トミー・バストウ)に対する、江藤安宗県知事(佐野史郎)の娘・リヨ(北香那)による恋愛攻勢。いや、史実を知っていれば本命はトキ(髙石あかり)だとわかっているんだが、それでもハラハラ。しまいには、筆者は次第にリヨに対して「なんだ、この女、お高くとまりやがって」とかムカムカしてきたので朝の視聴をやめて、夕方録画で見ることにした。

さて、佐野史郎演じる知事は独特の風格があるが、モデルになった実在の知事・籠手田安定とは随分と違う。各地の知事を歴任した籠手田の人となりはさまざまな記録に残されている。

例えば各県の県知事の人となりを紹介した『地方長官人物評』(長島為一郎 1892年)という本には、こう記されている。

人となり極めて無骨、もっとも勤王の心深し、性甚だ撃剣と嗜み到底必ず道場を設け、食前常にて面と籠手の一手と造らざるなし、籠手田の姓蓋し名詮自称なり。

ようは、籠手田の姓の通りで無骨で剣道を嗜み、常に鍛錬を怠らないというわけである。さらにこの本では滋賀県令だった時、行事の際に紋付き袴で現れた姿は、大名のようで人々の注目を集めたことも記している。明治の人なので肖像写真も残っているが、なるほど文明開化後の県知事というよりは風格ある剣豪といった趣である。

娘にはとにかく“甘い”

しかし、そんな人物なのに娘には甘い。鉅鹿敏子『県令籠手田安定』(中央公論事業出版1976年)には、こんな記述もある。

上京中には鹿鳴館での会合にもたびたび出席している。また、文明の利器の便利さも知っていた。あるいは旧記が伝えるように、二人の娘を当時珍しい、瀟洒な洋装に仕立ててハイカラがってもいる。私の手元には、幅広いネクタイを結んだ写真も残っている(注:著者は籠手田の孫)。

特に娘には甘かったであろうことを示すのが、島根での出来事だ。『山陰新聞』1890年1月24日付けには「知事邸内での舞踏会」という記事が掲載されている。ここでは、こんなふうに記されている。

ごうごうの世評を起こしたる彼の男女の頬吸ひっこの舞踏会が、今に至りて島根県知事籠手田安定君の邸内に始まる。

「男女の頬吸ひっこ」なんとも生々しい表現だが、これは頬を寄せ合って踊る西洋式ダンスのことである。当時の島根県民にとって、男女が抱き合うように踊る舞踏会は、それはもう衝撃的な光景だっただろう。

それを、よりによって県知事の公邸で開催してしまったのだ。

公用の警察船で娘たちとクルージング

しかも、この知事は普段から剣道の稽古を欠かさず、紋付袴姿で行事に現れては「まるで大名のようだ」と評される、いかにも武士然とした人物である。

そんな厳格な父親が、なぜ世間の批判を承知で舞踏会を開いたのか。

答えは簡単だ。娘がかわいかったからである。

洋装に仕立てられた娘たちが「パパ、舞踏会やりたい!」と言えば、剣豪も形無しだったに違いない。食前に必ず剣道の稽古をする厳格な父親も、娘の前ではデレデレだったのだろう。「ごうごうの世評」など、どこ吹く風である。

そのギャップに唖然としたのか、新聞記事は「天下太平、国家安康、節操堅固、道徳円万、めでたかりける次第にぞありける」と、皮肉っぽく結んでいる。

娘への甘さは、それだけではない。

別の記事(だから小泉八雲は「知事のお嬢様」を選ばなかった…朝ドラ・セツの「恋敵」が起こした前代未聞のスキャンダル)では、淑子が島根県警察の船に私用で乗ったことが議会で問題になったと記した。ところが、資料によっては私用に使ったのは一度だけではなく、県知事自らが二人の娘を乗せて、あちこちを遊覧して楽しんでいたことも記されている(『島根百年』毎日新聞社1968年)。

つまり、舞踏会どころの話ではない。公用の警察船で娘たちとクルージングを楽しんでいたのである。剣道三昧の厳格な知事の姿は、もはや跡形もない。完全に娘たちに骨抜きにされている。

八雲も籠手田には好印象を持っていた

もっとも、娘にはデレデレでも、いやむしろそんな人間味があったから当時の島根県民からの評判は悪くはなかった。例えば、維新後に荒廃していた松江城を保存しておくべきだと主張して修理した業績は現在でも知られている。

なにより、八雲も籠手田には好印象を持っていた。その印象は次のようなものだ。

この人の眼を見て私は一生この人を好きになるような気がする(『英語教師の日記』)

基本的に、あまり人を信用できない性質の八雲がそこまでいってるのだから、剣豪とはいえコワモテではなく親しみのある人物だったのだろう。

いや、むしろ逆かもしれない。見た目はどう見ても「幕末に何人も斬ってそうな」風格なのに、娘の前ではデレデレになる。そのギャップこそが、人々に愛される理由だったのではないか。

そんな姿を見れば、八雲でなくても「ああ、この人はいい人だな」と思うだろう。人間味溢れる、愛すべき父親である。

籠手田は1891年5月に新潟県知事に転任したが、この時も何千という人々が泣きながら見送ったと八雲は記している。

しかし、である。

娘への愛情と、開明派知事としての進歩的な姿勢、それは素晴らしいことだ。洋装させた娘たちを舞踏会に出し、外国人男性とも交流させるまではいい。だが、これが結婚になると当時、極めて深刻なリスクが伴っていた。

その先には、国籍喪失という冷酷な現実が待っていたからである。

外国人との結婚で「日本国籍がなくなる」時代

実のところ、明治20年代において娘が好きになった男と結婚するのはまったく問題がない。

この時代、結婚は家同士のもので、本人同士の意志は考慮されないというイメージを抱きがちだ。この時代は現代に比べると移動も少なく出会いの範囲が限られているから、自分の生まれ育った地域か、その近隣で親しくなった者と結婚することが一般的であった。もちろん、自分の属する地域の意向に縛られる面はあったが、本人同士の意識は比較的尊重されていた。

だが、これが外国人となると事情が異なる。

もっとも大きいのは、当時の結婚後の扱いである。現在の制度では外国人と結婚しても日本国籍はそのままだ。ところが、当時の法律(1873年の太政官布告)では、外国人に嫁いだ日本人女性は分限を失う=国籍を消失すると定められていた。これは、当時のフランス民法の制度を採用したもので、外国人に嫁いだのならば夫の国に忠誠を誓うべきという理屈であった。

これは、いくら開明派の知事でも、いくら娘に甘い父親でも、さすがに「ちょっと待て」となる案件だろう。

剣道三昧の武士的気質を持つ籠手田である。娘が洋装するのも、舞踏会で踊るのも、警察船で遊覧するのも許す。だが、外国人と結婚して日本国籍を失う。それは別次元の話だ。

文明開化を推進する立場と、父親として娘を守る立場。この二つが、ここで激しく衝突する。

洋装させた娘たちを舞踏会に出し、外国人男性とワルツを踊らせる。その光景を見ながら、籠手田の胸中はどれほど複雑だっただろうか。

国際結婚は珍しく、ロールモデルが少ない

しかも、この当時はまだ国際結婚がレアケースだから、ロールモデルというものがない。1873年から1887年までの間に日本人女性が外国人男性と結婚したケースは30件。そもそも同期間の国際結婚そのものがわずかに79件である。

明治時代に、外国人男性と結婚した女性の事例としては八雲とセツのほかに、鹿鳴館などの建設したジョサイア・コンドルと結婚した前波くめ、オーストリア=ハンガリーのクーデンホーフ伯爵と結婚した青山みつ、工部美術学校で彫刻指導にあたっていた、彫刻家のヴィンチェンツォ・ラグーザと結婚しイタリアで洋画家として大成したラグーザ玉などの事例が知られている。

ハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギーと妻の青山みつ
ハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギーと妻の青山みつ(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

しかし、よく考えてほしい。

これらはすべて、その後うまくいくなりなんなりの出来事があって記録が残っているわけである。

だが、当時はリアルタイムだから、そんな「後日談」など存在しない。

いや、あまり幸せとは言えない後日談で歴史に残っている事例もある。祇園の芸者としてお座敷に出ていたところを、アメリカの財閥モルガン家の放蕩息子であるジョージ・デニソン・モルガンに見初められた加藤雪は、夫と共にアメリカに渡るも一族には認めてもらえず、人生の大半をニースの別荘で過ごすことになる。夫の死後は遺産相続をめぐって争いになったり、アメリカ国籍を剥奪されたりと、別荘で悠々自適というと羨ましそうだが、決して幸せとは言いがたい人生だった。

籠手田の新潟転任後、娘は「嫁にいった」

そんな未来予測もまったくないわけだから、籠手田としてもいくら八雲が信頼できる人物でも、娘かわいさにさすがに結婚は……となるのは無理もない話だったといえるだろう。

というのも、当時の国際結婚をめぐる社会的な認識には、今から見れば理解しがたい偏りがあった。日本人男性が外国人女性と結婚することについては「優秀な血統を手に入れることができる」などと真面目に語られる一方で、日本人女性が外国人男性と結婚するケースは、女中や芸者といった特殊な立場での出会いが大半で、良家の娘が選ぶ道とは見なされていなかった。

籠手田が八雲と娘の淑子との結婚を明確に反対したという記録は残っていない。しかし、こうした時代の空気の中で、県知事という公職にある父親として、娘の結婚を認めるわけにはいかなかったと考えるのが自然だろう。

八雲と結婚すれば、淑子は日本国籍を失う。八雲がアメリカに帰国すれば、淑子も一緒に渡るかもしれない。もし八雲が病気で倒れたら? もし八雲に先立たれたら? 異国に取り残された娘は、日本人でもなく、夫の国の人間でもない……と悩んだはずだ。

しかし、籠手田の心配は杞憂であった。

籠手田が新潟県知事に転任してから後も、八雲は手紙をやりとりしている。この時に、八雲は淑子の近況も尋ねているのだが、籠手田からの返信は「嫁にいった」ことを記すものだった。

八雲も相当驚いたに違いない

これにはちょっと驚く。

八雲は敏感な人だから、淑子の好意に気付いていただろうし、それを拒絶したことに対して「悪いことをしたなあ」という思いもあって手紙で近況を尋ねたのだろう。

ところが、その返信が「嫁にいった」である。

なんだ、この切り替えの早さは!

八雲も相当驚いたに違いない。というのも、八雲は記憶を上書きできないタイプの人間だからだ。

かつてアメリカで愛したエリザベス・ビスランドが結婚したという報告を聞いた時、既にセツと結婚して幸せに暮らしているはずの八雲は、取り乱して踊り出したりしている。過去の恋愛感情を引きずり続ける性質の男なのである。

そんな八雲からすれば、「淑子さん、俺のこと好きだったんじゃないの? もう結婚したの??」と、拍子抜けどころではない衝撃だったはずだ。

要するに、思春期の少年のように「あの頃、俺はあの子を好きだった……」みたいな感傷をずっと抱えているタイプなのだ。

面倒くせえ。

というか、40歳過ぎていつまで思春期なんだよ、オッサン……。

なのに、そんな八雲を信頼して支え続けているセツは、本当に大人物である。本当にママだ! 本当にセツがいてよかった。

ラフカディオ・ハーンと妻のセツ
ラフカディオ・ハーンと妻のセツ(写真=富重利平/Japan Today/PD US/Wikimedia Commons)

昼間 たかし(ひるま・たかし)
ルポライター
1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。

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