1. トップ
  2. 恋愛
  3. 「ばけばけ」結婚に失敗し「もはやどんな女性も愛せない」と絶望…ハーンが最初の妻を激しく非難した言葉

「ばけばけ」結婚に失敗し「もはやどんな女性も愛せない」と絶望…ハーンが最初の妻を激しく非難した言葉

  • 2025.12.10

「ばけばけ」(NHK)のモデル、ラフカディオ・ハーンはギリシャに生まれ、アイルランド、英国を経て、アメリカで24歳のときマティという女性と結婚。作家の工藤美代子さんは「離婚したことでもわかるとおり、この結婚はマイナスの面が多かった」という――。

※本稿は、工藤美代子『小泉八雲 漂泊の作家ラフカディオ・ハーンの生涯』(毎日文庫)の一部を再編集したものです。

24歳で奴隷の娘と結婚するが…

あらゆる結婚がそうであるように、この結婚もハーンにブラスとマイナスの両方の結果をもたらしました。そして、プラスの面の方が多ければ、結婚生活は維持されるわけですが、残念ながらそういう結果にはなりませんでした。

ちょうどマティとの交際が始まり、結婚まで至る期間というのは、ハーンがジャーナリストとして、めきめき頭角を現す時期とぴったり一致します。「タン・ヤード事件」のレポートを初めとしたエネルギッシュな取材と執筆活動は若々しい力にあふれています。そこに私はマティの影響を見る思いがするのです。

彼女は、ハーンがジャーナリストとして最も興味を感じていた、社会の底辺に生きる人間の一人であったのと同時に、霊感を持って、超自然現象を身近に語る女性でした。だからブードウー教の信者たちから霊媒とみなされていたという文献もあります。いわば白人社会におけるロジックに背を向け、理性よりも感性で運ばれる時空問に身を置く彼女の存在が、ハーンをしてさらに奇怪な、あるいは残酷な事件を生き生きと綴らせる原動力となっていたとしても不思議ではありません。それは二人の結婚のプラス面だったのではないでしょうか。

アリシア・フォーリー(通称マティ)の若い頃
アリシア・フォーリー(通称マティ)の若い頃(『知られざるハーン絵入書簡-ワトキン、ビスランド、クールド宛1876-1903 桑原春三所蔵』より)
新聞記事の執筆に妻の影響が?

これは1875年9月26日付のシンシナティ・コマーシャル紙に載ったハーンの記事の一部です。


ある日の夕暮、わたしは用を言いつけられて、二階にある寝室のひとつに上がって行きました。そして、真白な服を着た、背の高い若い女の人が、黙って鏡の前に立っているのを見たのです。夕日が血のように赤く染まって沈んだあとのことで、かすかな薔薇色の輝きがまだ薄やみの中に漂っていましたから、物の輪郭などもはっきりしていて、よく見えました。家の人達は皆、階下で夕食をとっているはずです。それで、初め部屋に入った時わたしは、鏡の前の婦人は、どなたかわたしが到着を知らされていなかったお客様に違いない、と考えました。ちょっと立ち止まってその人を見ましたが、こちらに背を向けているので顔は見えません。並はずれて背が高く、黒い髪は鏡の上の暗い影とひとつになって見分けがつかないように思われます。そうだ、鏡をのぞいてみよう、と思いつきました。そこで鏡を見ますと、映っているのは、沈黙したままの白い長身の姿です。が、顔も頭も見えません。わたしがその白い人影にさわろうとして近寄ると、人影は、まるでろうそくの炎が消えるように、鏡に吹きかけた息が薄れて行くように、すっと消えてしまいました。
(河島弘美訳)

後年にハーンが書いた『怪談』をすでにしのばせるようなストーリーといえるでしょう。

ハーンは新聞社をクビになり転職

しかし、ハーンがどれほどセンセイショナルな事件を扱ったとしても、または、それがセンセイショナルであればあるほど、書き手に要求されるのは、冷静な観察眼や、理性的な文章、教養の蓄積でした。その点において、ハーンとマティのギャップはあまりにも大きかったといえます。

さらに当時のアメリカには、黒人女性との結婚を容認する空気は皆無でした。二人は住むアパートを探すのさえ苦労しました。職場でも風当たりは強く、ハーンはせっかく得た新聞社の正社員の地位も失って、以前より安い給料でライバル紙に移籍します。ハーンとマティの仲が決定的な破局を迎えるのは1877年の夏頃だと推測できます。なぜなら、この年の10月にハーンはシンシナティを去って、ニューオーリンズへ向かうからです。

新聞社「シンシナティ・エンクワイラー」の古いイラスト
新聞社「シンシナティ・エンクワイラー」の古いイラスト(写真=iStock.com/ilbusca)

彼がふたたび漂泊の旅に出たのは、マティとのこじれた関係に憔悴しょうすいしきった結果といわれています。事実、それが、いかに精神的な重荷となっていたかは、この前後にハーンが父親代わりともいえるワトキン宛てに出した手紙に、はっきりと記されています。

「高慢ちきでわがまま」と妻を批判

「マティのことでは、あなたには想像もつかないほど私は苦しんできました。そして、彼女が身を滅ぼしてゆくのを放っておくのは私には耐えられません。これまでの言行にもかかわらず、私は彼女を愛しています――もはやどんな女性も愛せないと思えるほど、深く愛しています。なぜか、彼女が堕落すればするほど、私は彼女をいとおしく感じます。悪いのは自分であり――そもそも結婚したのが間違いだった――救ってやるつもりが、以前よりも堕落させただけだった。結婚さえしなければ、地獄に落ちるにせよ、彼女の苦しみはずっと少なかったでしょう」

この手紙はさらに続いて、「高慢ちきでわがまま」な彼女がいかに堕落しているかが、詳細に綴られています。そして最悪の事態になって、彼女が警察署に留置されたり、身体を売ったりするようになるのではないかと危惧さえしています。それから、多少は良いことも思い出そうとします。

「小さな悲しい思い出がつぎつぎと心に浮かびます。可愛い歌を教えてくれたこと、小さな物語を聞かせてくれたこと、私が落ち込んだときには力になろうと努めてくれたこと。もちろん彼女は私の助けになどなりませんでしたが、できるかぎりのことを彼女なりに精一杯やってくれました。」

シンシナティ時代のラフカディオ・ハーン
シンシナティ時代のラフカディオ・ハーン(小泉八雲)、1873年(写真=エリザベス・ビズランド著『ラフカディオ・ハーンの生涯と手紙』(1906年)よりシンシナティ・ハミルトン郡公共図書館所蔵)
対等な夫婦にはなり得なかった

こうした文章はハーンとマティの関係がなぜうまくゆかなくなったかを私たちに教えてくれているように思えます。ハーンにとって彼女との結婚は「救ってやるつもり」のものだったのでしょう。また「彼女は私の助けになどなりませんでしたが」という言葉は、いかにも相手を目下に見ているトーンがあり、二人がついに最後まで対等な男と女として夫婦にはなり得なかったのがわかります。

工藤美代子『小泉八雲 漂泊の作家ラフカディオ・ハーンの生涯』(毎日文庫)
工藤美代子『小泉八雲 漂泊の作家ラフカディオ・ハーンの生涯』(毎日文庫)

ハーンはワトキンにマティが町を去って田舎へ行くよう説得してくれと頼みます。けれども、結局マティはシンシナティにとどまり、永遠に町を去ったのはハーンの方でした。ハーンの手紙に書かれたマティは、確かに彼を悩ませる、自堕落な女だったかもしれません。

しかも、ハーンの死後、1906年になって、突然マティはハーンのかつての妻として遺産を請求する訴えを起こしました。これは当時、アメリカの新聞に大きく報道されて話題となりました。この裁判は、そもそも1874年には黒人と白人の結婚は法的に認められていなかったのと、その頃の記録が火災で消失して確認の方法がないとの二つの理由でマティの敗訴という結果で終わりました。

2人とも再婚相手とはうまくいった

マティがその生涯をシンシナティで閉じたのは1913年の11月です。59歳と10カ月の寿命でした。死因は両足の切断のためという記録が残されています。ハーンと別れた後のマティは1880年頃に靴職人のクラインタンクと再婚しました。そして二度目の夫と彼の死まで20年以上を連れ添います。

59歳まで生きたハーンの最初の妻・アリシア・フォーリー(通称マティ)
59歳まで生きたハーンの最初の妻・アリシア・フォーリー(通称マティ)(David H.Waterbury「Woman in the World of Lafcadio Hearn」より)

また14歳の時に産んだ息子のウィリーは成人してからは印刷所を経営しながら黒人社会の精神的なリーダーとして活躍し、多くの恵まれない黒人の子供たちを引き取り世話をしました。その中には後にシンシナティの市長となった少年もいたといわれます。晩年のマティは息子夫婦に引き取られ穏やかな日々を過ごしました。ふと思うのは、ハーンもマティもまだ未熟なまま結婚してしまったのではないかということです。

ハーンも後に日本に来て、セツ夫人と巡り会い幸福な家庭を築きます。ハーンもマティも相手によっては良き妻や良き夫になれた人たちだったのです。若さゆえにお互いに相手を傷つけた二人でしたが、その責任は等分にあったのではないでしょうか。

工藤 美代子(くどう・みよこ)
ノンフィクション作家
1950年、東京都生まれ。18歳でチェコのカレル大学に留学。帰国後に70年大阪万博の通訳。72年の札幌五輪のコンパニオンをつとめる。73年にカナダに渡りコロンビア・カレッジを卒業。93年に日本に帰国。昭和史、皇室関係のノンフィクションを執筆。『工藤写真館の昭和』で講談社ノンフィクション賞受賞。主な著書に『悪名の棺 笹川良一伝』『絢爛たる醜聞 岸信介伝』『母宮貞明皇后とその時代 三笠宮両殿下が語る思い出』『美智子皇后の真実』など。

元記事で読む
の記事をもっとみる