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【中学受験小説】いよいよ迎えた運命の5日間。「慶應以外はダメよ」第二志望合格の報告に、祖母が無情に言い放つ

  • 2025.12.7

【前回まで】受験スケジュールを塾の講師と共に確認し、ひとまずホッとした美典だが、エレナが何者かに刃物で切りつけられたという事件をネットニュースで知り驚く。エレナがXの裏アカで「息子が埼玉堺の特進コース特待合格でした!」とポストしたことに恨みを抱く者の仕業だと知り、玲子は心配する一方で、無神経だと思う気持ちも否めなかった。そして何より、エレナ自身が愚かなことをしたと後悔するのだった……。

▼前話はこちら

【第二十三話】 中受本番

一月三十日

塾での最後の授業が通常より早く、十九時に終了。その後に激励会が行われるので、美典も出向いた。

いよいよ、明後日には第一志望校の入試だ。

この緊張感は、ほとんど恐怖に近い。当日を迎えたくない気持ちと、さっさと終わってほしい気持ちがせめぎ合う。沙優の精神状態もかなり不安定だった。過去問の点数にいちいち振り回され、結果が悪いと荒れた。この間なんて、答案用紙をビリビリに破き、それで収まらなかったのか、台所の流しで火をつけて水で消火していた。黒焦げでびしょ濡れになったそれが、ひどい結果の答案用紙であるとわかった時にはぞっとした。

三学期になり、感染対策のためと伝えて受験が終わるまで学校を休んでいるので、それも良くないのかもしれない。塾にいる時以外は、家族以外の誰にも会わず、家でひたすら過去問を解き続ける。大人でさえ病んでしまいそうだ。

激励会に行くと、三つの教室の仕切りが外された広い教室に六年生全員が集められていた。保護者たちは教室の後ろや廊下に並んで内窓越しに激励会を見学する。ほどなくして、啓明セミナー生全員にエールを送るムービーがはじまった。子供たちの真剣な横顔、熱く指導する講師たち。感動的な音楽とともにまとめられ、塾側の思惑どおりに感涙してしまう。周りの保護者たちもハンカチで目元を拭っていた。

ただそういう時間に浸りながらも、美典はエレナがいないかとさりげなく探していたのだが、見当たらなかった。沙優いわく、類は塾を休んでいるというし、今日も来ていないようだった。

例の事件の後、一度だけエレナと連絡を取ることができた。あのニュースが拡散された日から一週間ほど経った昼下がりのことだ。エレナと玲子との三人のグループLINEにエレナからメッセージが入った。

【ERENA】
返信できなくてごめんなさい。こんな時にわたしのことで動揺させていないか心配です。真翔くん、沙優ちゃん、頑張ってね。応援しています。

たまたま届いてすぐに開くことができたので、すぐさまエレナに電話してみると、通じた。

「美典さん、ありがとうね…… ほんと、ごめんなさい」
「謝ることなんてないよ。怖かったでしょう。エレナさんと類くんがご無事で何よりだったけど」
「いまもまだよく眠れないし、類を外に出すのもおそろしくて、二人で引きこもっているの。まだ決まっていないけど、日本を出ようかとすら考えてる」
「海外で暮らすってこと?」
「類を日本の学校に通わせることも不安になってしまって…… イギリスかスイスのボーディングスクールを調べているのよ」
「類くん、それで納得しているの? あんなに頑張ってきたのに?」

心の底から心配で美典は訊いたのだが、電話の向こうから重々しいため息が聞こえた。

「美典さんにはわからないのよ。こういう時の世間のバッシングの激しさを。類には申し訳ないって思っているけど、しょうがないじゃない」

最後のほうでエレナは涙声になり、一方的に通話が切られてしまった。こうなるともう、美典からエレナに連絡することはできなくなった。

激励会が終わり、美典は沙優とともに篠崎先生にこれまでのお礼を伝えた。

「まだ終わっていませんよ。戦いはこれからですから」

五十絡みの愛想がいいとは言い難い生真面目な塾講師は、不器用に頭をかきながら苦笑まじりに言った。

「ねえ、篠崎先生。自由が丘国際の受験者数、もうこれ以上増えないでほしいんだけど。沙優、合格できる気がしないよ」

沙優は口を尖らせる。今年の出願状況がわかるサイトを見て、去年より倍率が上がっていることを気にしているようだった。

「増減は気になるかもしれないけど、受かる子は受かるものだから」

篠崎先生は沙優にそう言ってから、次に美典を見た。

「しばらくネットから離れることをおすすめします。受験が一段落するまで、沙優さんに集中してあげてください」

篠崎先生の頭の中にも、エレナと類のことがあるのだろう。ここにいる誰もが、彼らが起こした波紋の中にいる。美典のように動揺している者もいれば、ずっとトップ生として君臨していた生徒が脱落するのを心密かに喜んでいる者もいるに違いない。

誰かが空けた枠に、誰かが入る。それが受験のシステムなのだから。

二月一日

美典は五時半に起きて、沙優を六時に起こした。緊張していた沙優だったが、それなりに眠れたようで安心する。美典はというと、浅い眠りのままスマホのアラームが鳴るのを聞いた。

朝ごはんは鮭フレークをまぶしたおにぎりと豚汁。自由が丘国際学院の受験後に優華学園へ移動する予定だ。昼食会場として多目的ホールなどが開放されているので、そこで食べるお弁当も作る。食べ慣れたものがいいだろうと、海苔ご飯に厚焼き卵と唐揚げを詰めた。

「沙優、パパが会社休んでついて行ってやれなくてごめんな」

寝癖頭にパジャマ姿という緊張感ゼロの格好で、洸平は最後の暗記に集中している沙優に話しかけた。

「大丈夫だよ。パパがいてもいなくても関係ないから」
「なんだよそれ、ちょっと傷つくな」

そう言われて、沙優は少し笑う。ピリピリしていた美典の心も和らいだ。

「優華学園は二教科だから、終わるのが十六時くらい。十七時の帰宅かな。それで、前にお願いしたように……」
「わかってるよ、合格発表を一緒に見るってことだろう。取引先から直帰して、十七時前には帰るようにする。カレーでも作っとくか」
「ありがとう。助かる」

沙優の受験の対応の中で、夫には一つだけお願いしていた。それは合格発表を一緒に見てほしいということだった。残念な結果だった場合、冷静に沙優を励ますことができるか自信が持てなかった。これまで門外漢でいた夫なら、どんな結果でも受け止められるだろう。

七時十分

沙優には背中にカイロを貼り、今年買ったダウンのジャンパーを着せる。美典は数年前に買ったマッキントッシュの暖かいダッフルコートを着る。外はまだ薄暗く、遠くの空に朝焼けが残っている。きんと冷えた外気に背筋が伸びた。

自由が丘駅に近いバス停で降りる。そこから徒歩で自由が丘国際学院中学校へと向かった。自由が丘駅から受験生と保護者が列をなし、学校の職員の方が交通整理している。坂を上った高台に、ブロックガラスが印象的な校舎が見えてくる。最初に文化祭で訪れた時には、物見遊山のような気持ちだった。とても手が届きそうにないと思っていた、憧れの人気校。いまこうして、ここに辿り着いたことに美典は胸がいっぱいになる。

沙優はバスの中でも理科の一問一答をやっていて、歩きながらもあまり話そうとしない。直前にどんな言葉をかけていいのかわからないまま、今日に至ってしまった。

頑張ってね。
応援しているよ。
きっと大丈夫。

どれも正解のようで、NGワードな気がしてしまう。

そんなことを考えているうちに、正門に辿り着いた。敷地内に入ると、校舎に向かう道と保護者の待機室になっている体育館がある道に分かれている。拡声器を持った職員が受験生を校舎のほうへ誘導していた。保護者が付き添えるのはここまでなのか。

「正門の外あたりで待ってるね」
「うん、わかった」

あっさりと行ってしまいそうな沙優を、呼び止めて、美典は娘の首に巻いたマフラーを整えてやる。

「名前と受験番号、書き忘れないようにね」
「さすがに忘れないよ。じゃ、行ってくる」
「行ってらっしゃい」

そう言ったとたん、美典は身体の深部に衝撃を覚える。胸の奥底に抑え込んでいた、静かな感情が破裂した。胃から喉を逆流してくる感情…… それは嘔吐ではなく、目から涙として溢れ出た。疼く胸を押さえながら、美典ははげしく混乱する。

これって、どういう気持ちなの?
頑張ってほしい? 一人で進んでいく娘の成長に感動?

いや違う……もっと、もっと、強い感情。

あっ、そうだ。

「……寂しいんだ」

小さくなっていく娘の背中を見ながら、美典は呟いた。

わたし、たぶんいま、『子供』でいる沙優の、最後の瞬間を見ているんだ。

美典の中に猛烈な寂しさがこみ上げた。

そっか。
もう二人三脚できないんだね。
これからは一人で、大人の世界に向かって駆けていくんだね。

母親の気持ちなど知るよしもなく、沙優はまっすぐに進んでいく。

十二時二十分

終了のチャイムが鳴った。待機場所の体育館では本でも読もうと文庫本を持ってきていたのに、一行も頭に入らなかった。

正門を出てきた沙優の表情は暗かった。

「国語ミスった…… 最悪」

得点を稼げる国語がうまくいかなかったようだ。それでも落ち込んでいる暇もなく、優華学園へと向かう。午前に四教科の試験を受けた後、優華学園では算数と国語の二教科を受験。中学受験は体力勝負だ。

十六時十分

優華学園の受験が終了した。家に着いたのは十八時前だった。沙優はもちろん、美典もくたくただ。洸平がカレーを作って待っていてくれたので、三人で夕食をとった。

優華学園もあまり手応えがなかったと暗い顔をしていた沙優だったが、ここでようやく表情が和らいだ。ママが作るカレーと味が違うけど、これはこれで好きだとか、電車が混んでいて足が疲れたとか、そんな話をした。テストの出来については触れなかった。

そしてお風呂に入らせて、髪を乾かしていると、自由が丘国際学院の合格発表の時間になった。

すべてが速すぎる。三年間かけてきたのに、瞬く間に一日が過ぎて、結果まで出てしまう。心が追いつかない。

二十時

美典は学校から渡されたQRコードを読み込んだ。受験番号とパスワードを入力。「あたしが見るから」という沙優に、スマホを託した。

「どうしよう…… 怖いよ」
「じゃあ、パパが押してやろうか」
「それは違うでしょう」

思わずむっとして、美典は洸平にツッコミを入れていると、大丈夫! と沙優が心を決めた。「いいよね? 見るからね!」

泣いても笑ってもここで出た結果がすべて。美典は両手を強く握りしめる。スマホの画面が数秒だけ真っ白になり、切り変わった。

──選考の結果、残念ながら合格に至りませんでした。

二月三日

玲子は真翔とともに慶應義塾中等部に向かうため、白金高輪駅で降りて歩いている。この学校はどの駅からも十分以上歩く。まだ朝だというのに、玲子は疲労困憊で息が上がった。

慶應義塾普通部、中等部、湘南藤沢中等部はいずれも面接と体育実技があるため、一般的な学校よりも時間がかかり、手間も多い。湘南藤沢はそもそも遠くて疲れた。何よりも精神的に張り詰めていて、この三日間で随分と心身をすり減らした。

それでも、慶應の三校の合格発表はまだなので、玲子にとってはここからが本番だった。

二日前の、二月一日

大本命である慶應普通部の一次試験を受験した。普通部は一日で四教科の筆記と面接と体育実技が行われるため、お弁当を食べて、午後にまたぐ。終了するのは早くとも十五時をすぎる。

真翔がどうしても目黒工大を受験したいというので、玲子は願書も受付初日に到着するようにして早い受験番号をゲットしていたが、当日はけっこうギリギリで、タクシーを飛ばして何とか間に合い目黒工大を受験することができた。併願校を受けることについては、玲子はずっと後ろ向きだった。一つくらい受けたほうがいいだろうと塾に押し切られ、真翔が気に入っている目黒工大の一回目、つまり二月一日の午後に受験することにしたのだが、スケジュール的にはタイトだった。

「今日でラストだから。悔いのないようにね。もちろん、普通部以外の二校は、一次の筆記試験で合格した後に面接の体育実技があるから、まだまだ気は抜けないけど」

中等部の校舎が見えてきたところで、玲子が言うと、あのさ、と真翔は言いにくそうに言う。

「確認したいんだ」
「何?」
「俺、目黒工大に合格したじゃん? ちゃんとお金を振り込んでくれるよね? おばあちゃんはあんなことを言ってたけど、お願いだよ」

縋るように玲子の腕を握ってくる真翔に、玲子は一瞥を向けて、どうしたものかと嘆息をこぼす。二月一日の午後に受けた目黒工大は、その日の二十一時に合格発表があり、なんと真翔は合格をもらえた。過去問を二年分しかしておらず、どちらも合格者最低点を上回らなかったのにもかかわらず。

真翔は狂喜乱舞し、玲子も信じられない気持ちで喜んだ。新進気鋭の人気進学校だ。倍率は去年よりも上がって、三・五倍。立派なものだ。

翔一に報告するとおおいに喜んでくれた。真翔を褒めてもくれた。

問題は義母、喜代子の反応だった。慶應義塾湘南藤沢の試験から戻ると、莉愛の相手をしてくれていた喜代子がいたので、玲子は目黒工大に合格したことを報告した。いったんはよかったと言ってはくれたが、朗らかに続けた。

『でもまさか、そこには行かないんでしょう』

玲子にとって、喜代子のその反応は想定内だった。もっと褒めてあげてもいいのに、と思ったが、当然だろう。とはいえ、真翔はショックを受けたようで、はじめて祖母に食ってかかった。

『もし慶應がダメだったら、俺は行くよ!』

真翔はそう断言し、不貞腐れたように二階へ行ってしまった。あっけに取られた喜代子には、もちろん玲子がフォローを入れておいた。普通部も湘南藤沢も手応えがあったようだから安心してほしい。明日の中等部は過去問の相性がもっともいいし、そちらも自信があるのだと。

そんな玲子に、義母は念を押すように言った。

『玲ちゃん。もしも慶應のどこにも受からなかったら残念だけど、公立に進学しなさい。高校でリベンジすればいいんだから』

高校でリベンジ……。

その時の義母の顔を思い出し、玲子は重いため息をつく。

「まーくん、とりあえず目黒工大のことは忘れなさい」

胃のあたりをさすりながら、玲子は真翔に言った。

「答えになってないよ」
「いま、あなたは中等部の試験に全力を注ぐのみ。それに今日は何といっても、午後三時に、普通部と、湘南藤沢の一次試験の合格発表がある。よそのことを考えないで」

正門の前で止まり、真翔は玲子を睨むようにして見る。

「ぜったいに目黒工大のお金を振り込んで!」
「だから、いまは……」
「ねえ、慶應以外はダメなわけ? ほんとにダメなの?」
「慶應を目指してきたんでしょう!」
「だったら、なんで目黒工大を受けたんだよ?」
「あなたが受験したいっていうから!」
「そうだよ! 受かったら行きたいからだよ! 慶應には行きたいけど、もしダメだったとして、目黒工大に行けるなら、それはそれで、俺は嬉しいから!」
「そんなことを口に出さないで! 言っているでしょ? 言霊ってあるんだから、起こってほしくないことを口に出しちゃダメ!」
「もういい加減にして! コトダマとかまじで意味不明!」

真翔は言い捨てて、正門に向かって走っていった。

「ちょっと真翔!」

玲子が呼び止めるのも聞かずに、真翔は一人で走り去ってしまった。

(第二十四話をお楽しみに!)

イラスト/緒方 環 ※情報は2026年1月号掲載時のものです。

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