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約3時間の上映時間で歴代興収1位に 李相日監督が語る長尺映画の必然性と創作の原点

  • 2025.12.6
李相日監督 クランクイン! 写真:高野広美 width=
李相日監督 クランクイン! 写真:高野広美

映画『国宝』が、ついに邦画実写として22年ぶりに歴代興行収入1位を更新する快挙を達成した。監督を務めたのは、先ごろ開催された東京国際映画祭で、世界の映画界に貢献した映画人、そして映画界の未来を託していきたい映画人に贈られる「黒澤明賞」を受賞した李相日。興行収入173.7億円を突破し社会現象となっている『国宝』を筆頭に、これまでも常に観る者の心を揺さぶる作品を送り出してきた。そんな李監督が、小説を映像化ではなく“映画化”することの意味や、約3時間という上映時間が話題になった『国宝』をはじめ、長尺映画への解釈を語った。

【写真】李相日監督の落ち着いた佇まい

■「2時間を超えて語るテーマはあるのか」――長尺映画への挑戦と必然性

映画界の巨匠の名を冠した賞の受賞理由に挙げられた「今後の日本映画、そして世界の映画を牽引することを期待できる人物」という言葉。それは、未来への期待であると同時に、作り手にとっては重圧にもなりうる。しかし、李監督は気負うことなく「牽引というのは、なかなか意識してするものでも、できるものでもないと思うので、何か次の人たちに繋がるような痕跡を残せたらいいなとは思いますけどね」と自らの創作への姿勢を語る。

その言葉通り、李監督は常に映画史に確かな「痕跡」を刻み込んできた。中でも『国宝』は、175分という長尺をもって現代の商業映画の常識に挑んだ作品だ。他にも、李監督は『流浪の月』150分、『怒り』142分、『許されざる者』135分、『悪人』139分など、効率が重視され、上映時間が短いほど興行的に有利とされる現代において、長尺映画に挑んでいるが、その哲学は、過去の経験に裏打ちされている。

「『長ければいいというものではない』とは、若い頃に大ベテランの尊敬しているプロデューサーから頂いた言葉で、編集の段階で『もっと切れ』と度々言われましたね。そのとき、『全体を通して、この物語に2時間を超えて語るテーマはあるのか』と問われて、『なるほど』と。仮に2時間が一つの目安だとしたら、そこを超えてまで訴えるべきテーマや、伝えるべき感情が果たしてあるのかということは、それ以降考えるようにはなりました」。

「2時間を超えて語るテーマはあるのか」――。その自問こそが、李監督にとっての創作の試金石だ。商業的なリスクを度外視しているわけではない。むしろ、時間を超えるだけの価値を作品に与えるという、より高いハードルを自らに課している。だからこそ、『国宝』の長尺には確固たる必然性があった。「『3時間』というのは最初から決めていました。1本の映画であれば3時間は必要だと感じていたので」。

■映像化ではなく「映画化」――観客の想像力に委ねる“余白”の演出

吉田修一による長大な原作小説を、単に映像に置き換えるのではないと、李監督は強調する。そのために、脚本家の奥寺佐渡子と徹底的に議論を重ね、物語の核を見定め、観客が3時間という時間を忘れるほどの体験を創造することに心血を注いだ。

「これは映像化ではなくて“映画化”なので、3時間という実時間を忘れさせて、体感時間として没入させるために何を抽出するべきか。とにかく意識したのは『時間をどう経ていくか』ということです。時間の経過というのは、ただ年代が飛ぶということではなく、時間が経過することによってキャラクターたちがどう変化していくのか。そして、存在していたキャラクターたちも当然、自然と退出していく」。

物語の全てを説明するのではなく、あえて語らない部分を残す。その“余白”こそが、観客を物語の世界へ深く没入させる。

「『あの人はどうなったのか』とか『この関係性はなぜこうなった』とか、ことの顛末をどうしても拾いたくなるのですが、あえて拾わないで観客の想像力に委(ゆだ)ねる選択をする。そのために、逆に原作にはないシーンを足すこともあります」。

その創作姿勢は、原作からの改変にも見て取れる。物語中盤、春江(高畑充希)が俊介(横浜流星)の手を引いて走り出す場面。原作では俊介が春江の手を引くこのシーンを、監督はあえて逆に描いた。そこには、顛末を描かない映画だからこその、緻密な計算があった。

「小説では、春江が俊介に連れられてしまう。いわば受け身の出奔なわけですが、後の顛末を描くことで、彼女の心情が納得できるようになっています。映画では、その顛末を描かない選択をします。その場合、喜久雄(吉沢亮)を諦めるに至る春江の心情と、まさに俊介の手を取る瞬間の彼女の意思が見えなければなりません。つまり春江の意思、主体性による出奔でなければ、その後の顛末で説明しなければならなくなる。春江の『選択』が見えなければ、『なぜ俊介を選んだのか』という謎が謎のまま残されてしまうわけです」。

■未来を見据える視線――「映画は年月の風化に耐えなければいけない」

一つ一つのシーンに込められた深い意図。では、監督は誰に、この物語を届けようとしているのか。原作ファンか、それとも映画で初めてこの物語に触れる人か。その問いへの答えは、驚くほど明快だった。「明確に後者ですね」。

李監督の視線は、遥か未来を見据えている。今この瞬間だけでなく、10年、30年、50年後にも残る作品を作るために、映画はそれ単体で自立していなければならない。

「こういう言い方が合っているか分かりませんが、映画は年月の風化に耐えなければならないと思っています。もちろん黒澤(明)監督の映画は、何十年経っても古びない。例えば30年後、50年後に小説と比較しながら『国宝』を観る人は少ないと思うんですよね。小説は小説で、映画は映画でそれぞれが異なる形で残っていくものですから」。

『国宝』という大きな成功を経て、作り手として次に向かう場所はどこなのか。観客の期待が高まる一方、監督自身は冷静に自らの立ち位置を見つめている。

「一番怖いのが、成功体験に引っ張られることですね。そこから自己模倣に陥ることへの警戒心が働きます。とはいえ、キャリアを重ねると自分一人で自分を変えることは簡単ではない。例えば海外へ出て環境を変えるか、自分が今まで全く触れてこなかったジャンル、題材、あるいは見知らぬ場所や時代の物語に挑むか。常に『自分』という領域の外に踏み出す意識を持ちたいとは思います」。

商業的な制約に屈することなく、芸術的な必然性をどこまでも追求する。その揺るぎない姿勢こそが、李相日監督の作品が時代を超えて輝き続けるだろうと強く思える理由なのだろう。黒澤明監督から受け継がれたバトンは、確かに未来へと繋がれていく。(取材・文:磯部正和 写真:高野広美)

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